それから二週間。 初日に感じた不安や違和感は、池田の言ったとおり、慣れればさほどでもなくなった。 (人間は順応性の高い生き物だ) 広郷は、不釣合いに大きな机でパソコンに向かっている修太郎を盗み見て内心呟いた。 「部長、今度の戦略会議の次第ですが、これでよろしいでしょうか」 今日も朝からサングラスをかけた大崎が修太郎の前に立つ。小さな修太郎はその陰にすっぽり入って見えなくなり、声だけが広郷の耳に届く。 「はい。あ、でも、この八、九月の執行計画は調整が入ると思うので、まだ保留にして置いてください」 「わかりました」 (部長らしいこと言ってるよ) 幼い声とのギャップが少しだけおかしい。 けれども、広郷は気が付いた。ここでは仕事の上では誰も修太郎を子ども扱いしていない。一見子供でも、やるべきことをやっていれば、当然バカにされることなど無い。有能な副部長の大崎がしっかりと部長を立てているのでなおさらだ。 そして、たとえばこの間ベソをかいたときもそうだったが、泣いたり転んだり修太郎が子供らしいところを見せると、この企画開発営業部の面々は一斉に 「見て見ぬふり……」 をするのだった。 「あと下期開発『年金おまかせ君』の資料もそろえておいてください」 「かしこまりました」 大崎との会話を終えて、 「広郷君」 修太郎が広郷を呼んだ。 「はい」 広郷は椅子の背に掛けていた上着をきちんと身に着け、修太郎の前に進んだ。 「立川の三島印刷で、初契約いただけたんだってね」 「あ、はい」 テレビCMの影響で家庭用PCソフトの製造販売が主力の会社だと思っていた広郷だったが、おまかせ君テーマソングの二番にあるように、広郷たち営業の仕事は主に企業用ソフトの販売だった。自社でプログラムが組めない中小企業を対象に、ツシマの既成のソフトを導入してもらい様々なコンテンツを売り込んでいく。 「あそこの社長はとっても気難しいって、課長が言ってたよ。初訪問からこんなに短期間にご契約いただけるなんてすごいね」 「いえ……」 修太郎の賞賛の笑顔に、広郷はくすぐったい気持ちになった。 「前任の方が、しっかりとした関係を築いてくれていたからこそです」 広郷の言葉に、修太郎は満足そうにうなずいて言った。 「今度の戦略会議は広郷君にも出てもらうから、スケジュールを調整しておいてね」 「戦略会議、ですか」 広郷は、修太郎の後ろにある月間スケジュール用ホワイトボードをチラッと見た。月末の二十八日だ。 「下期開発予定のソフトのことで、証券関係に詳しい広郷君の意見を聞きたいんだ」 「お役に立てればいいのですが」 かしこまって、謙遜すると、 「期待しています」 修太郎は、つぶらな瞳で広郷を見上げた。 「いいな、いいな〜っ」 席に戻った広郷を、池田が冷やかす。 「キカイダー秘密会議に出られるなんて」 「秘密会議?」 そうは言ってなかったが。 「新規開発ソフトの内容にかかわる会議だと、課長以上しか出られないんだよ。それに社長が加わるんだ」 「そうなんですか」 「広郷君は、部長のお気に入りだからねえ」 池田が言うと角が立たないが、聞きようによっては誤解を招く言葉だ。広郷は慌てて否定する。 「そんなこと無いですよ、俺は」 「いいから、いいから」 へらへら笑いながら、池田はポンポンと広郷の肩を叩いて、 「あの副部長が広郷君を認めてるから、皆、ちゃんとききわけてるよ。でも……」 急にその肩をぐっと引き寄せると、声をひそめる。 「部長代理は唇をギリギリ噛んでいるみたいだから、夜道は後ろに気をつけろ」 「どういう意味ですか」 「月の明るい晩ばかりじゃないってこと」 池田は意味深な目をして言った。 (……何を言っているんだ?) 「広郷君、まだ終わらない?」 残業をしていたら、ドアから小さな顔がヒョコッとのぞいた。 「あ、部長」 「ご飯、行かない?」 あどけない顔で、誘いに来る。 「あ、いえ」 「用事あるの?」 つぶらな瞳の上の眉を八の字に寄せた顔に、広郷は急いで首を振り、 「もう少し時間がかかりそうなので」 わざとらしく机上の書類を持ち上げた。 「じゃあ、待ってる」 修太郎は、隣の池田の席の椅子を引いて座り、ブラブラと足を泳がせた。 (気が散って、集中できない……) 広郷は、しばらくペンを走らせては見たものの、 「今日はもう、終わりにします」 あきらめて、トントンと書類を束ねた。 池田に『お気に入り』と揶揄されたときは否定したものの、実のところ修太郎はずいぶん広郷に懐いていた。おそらく初日に一緒に食べたランチが楽しかったのだろう。泣きベソかいていた修太郎のために、広郷は子供の好きそうな話で盛り上げ、そして修太郎が好きだと言うハンバーグを自分もさも美味しそうに食べた。いや、実際美味しかったのだがパフォーマンスは三割増し。営業で培われたサービス精神だ。 その広郷の食べっぷりに、修太郎はひどく感激したらしく、 「かもめグリル、予約しといた」 三日と空けずに誘いに来る。 ハンバーグはもちろん嫌いじゃないが、そこまで好きというわけでもない広郷は、今週に入って三回目のかもめグリルに内心溜め息をついたものの、 「今日は、チーズをダブルにしてもらおうっ」 嬉しそうに言う修太郎の顔を見ると、嫌とは言えない。 「じゃあ、俺も」 「ねっ」 修太郎は、無邪気に広郷の手を握って楽しそうにブンブンと振る。 いつものレストランフロアを、手をつないで歩きながら、 (他人が見たらどう思うだろうな) すれ違う人の視線を少しだけ気にする広郷。 親子というほど離れちゃいない。歳の離れた兄弟か。離れすぎだが、実際、社長との歳の差を思えばありえなくない(むしろ近い)。しかし―― (間違っても、上司と部下とは思うまいよ……) 修太郎のことは、不思議なくらい社外には知られていなかった。ハーバードをスキップした十五歳の天才少年部長といえばマスコミが飛びつきそうなものだが、どうも緘口令が布かれているらしい。池田に理由を尋ねたら、誘拐防止だとか、なんだか物騒なことを言っていた。 「お兄ちゃんが、広郷君によろしくって」 「社長が?」 「今度の会議で会えるの、楽しみにしてるって伝えてって」 チーズの糸を引きながら、小さく切ったハンバーグを口に運び、 「広郷君、営業成績いいんだよって言ったら、お兄ちゃんが前の会社でもバリバリだったからねって言ってた。すごいね、広郷君、バリバリだったんだね。バリバリ」 覚えたばかりの単語のように「バリバリ」を繰り返す修太郎に (いや、ツッパリじゃないんだから) と、突っ込みたくなったがやめておいた。ツッパリという言葉を修太郎はたぶん知らない。 「社長には良い機会を与えてもらって感謝しています、とお伝えください」 真面目に答えると、 「広郷君、もうお仕事中じゃないんだから、そんなにかたい言葉でしゃべらなくていいんだよ」 修太郎は、大きな瞳をクルンと回して小首をかしげた。 「えっ?」 「あのね」 修太郎は、何か秘密を打ち明ける時のように、顔をほんのり紅潮させてまつ毛を伏せた。 「広郷君、初めて会ったとき、僕のこと、お前って呼んだでしょう?」 「あ」 まだ部長だとは露知らず「ただのガキ」だと思っていた時。 「僕ね、人からお前って呼ばれたの、初めてだったの」 「そ、それは失礼しました」 「ううん。ちがうの。初めてで、嬉しかったの」 修太郎はパッと顔を上げた。 「は?」 「あとね、あとね、頭なでてくれたの。あれも、嬉しかった」 照れたように、ハンバーグをフォークで突付く。 そうして顔を朱に染めた修太郎は、唐突に言った。 「広郷君は……僕の、友だちだよね」 「はい?」 雛の刷り込みだと広郷は思った。 生まれたばかりの雛が初めて見たものを親と思いこむ。修太郎は初めてお前呼ばわりした広郷を友だちだと思った。そういうこと。 「だから、お仕事中はかたい話し方をしてもいいけど、二人のときは、お前って呼んでいいんだよ」 「い、いや、それは……」 勘弁してくれ、と広郷は心で叫んだ。 |
HOME |
小説TOP |
NEXT |