連載終了後のお礼SSでした。
(一千万) 広郷は心の中でつぶやいて、膝の上のアタッシュケースを撫でた。 いや、その中に現金一千万が入っているとかそういう話ではない。たった今もらった契約書が一枚入っているだけだ。けれども広郷にとっては、現金に負けない価値があった。 (間に合ってよかった) 広郷は立川から新宿に向かう中央線の座席にぐったりと身体をあずけた。 修太郎と付き合うために、営業実績でハードルをクリアしていかなければならなくなった広郷。最初のハードルは一千万で「修太郎とチュウ」だ。これが他の誰かの言うことならば「ふざけるな」で終わるところだが、なにしろ修太郎の兄でツシマの社長が言うことだから無視もできない。 一千万の売り上げというのは、広郷の場合、ツシマのコンピューターソフトを導入してもらうにあたってトータルで企業からツシマに支払われる金額を指す。最初に現金がポンと動くものではない。 そうはいっても一千万という数字が楽かというと決してそんなことはないのだ。 今日この企業から契約をもらわなければ、一千万に届かない――広郷の必死の思いが通じて、なんとかつい先ほどハンコをもらってきたところ。何ゆえ、広郷がこれほどあせって一千万を目指したかというと、明日の土曜日は、修太郎と夏祭りに行くことになっていたのだ。 「広郷くん、おめでとう〜っ」 西新宿のオフィスに帰った広郷を、修太郎は満面の笑みと拍手で出迎えた。先に電話で報告を受けていたもの。 「これで一千万超過だねっ。すごいよ、広郷くん」 無邪気に喜ぶ修太郎に広郷は戸惑う。修太郎も広郷に課せられたハードルとその鼻の前にぶら下げられたニンジンのことは知っているはずだが、それにしても無邪気すぎる。夏祭りデートでのキスのために一千万にこだわった自分がむしろ恥ずかしい。 「これなら、五千万もあっというまだね」 (わかっているのだろうか……) 「それでね」 修太郎は声をひそめた。 「これは、お仕事の話じゃないの。明日なんだけどね」 「は、はい」 「広郷くん、うちまで迎えに来なくていいからね」 「えっ?」 「僕、待ち合わせってしたことないから、お外で待ち合わせしよ?」 「外で? たとえば」 「駅前とかだよ」 「ああ、でもあの辺りは混むんじゃないですか。祭りだと特に」 「大丈夫だよ」 「まあ、そうですね。じゃあ、何かよくわかる目印のそばにいたら」 と、広郷は考えて 「じゃあ、あの駅前広場の『鳩と戯れる男の像』の前にしましょう」 比較的分かりやすい場所を指定した。 「うん。そこに五時ね」 修太郎は嬉しそうにうなずいた。 翌日の土曜日、当然、会社は休み。広郷は昼近くまで眠って、そして起きてからはゆっくりとシャワーを浴び、朝昼兼ねたご飯を食べながら、テレビで二時間ドラマの再放送を途中から見た。 いつもの土曜の午後だが、どこか違う。そう、広郷は 「マジ、やばいかも」 思わず声に出すほど、緊張していた。 「信じられない、たかだかキスだろ」 修太郎と初めてキスすると思うだけで、動悸が早まるなんて 「中学生じゃないんだから」 まったくもう……と、立てひざで頭を抱える。 キスくらい散々経験してきた広郷だったが、相手が修太郎となると勝手が違う。 時計を見ると一時半。待ち合わせまで、あと三時間半だ。 「五時に会って、それからお祭りを見るだろ。そして晩御飯は、今日はかもめグリルじゃなくて」 駅ビルのなかに小洒落たフランス料理の店があったが、そこに予約でも入れておこうかと考えて、 「いや、やっぱり、普通のところがいいな。だいたい、焼きそばとかたこ焼きとか食ってたらそれで腹いっぱいになるかもしれないし」 ブツブツと今日の予定をシミュレートする。 (食事が終わったら、遅くとも十時には帰さないといけないから、最後にもう一度お祭りを見て回って、それから神社の境内で……) 本当に中学生の初デートのようだ。修太郎が相手で広郷も子供がえりしてしまったのか、とても二十六の男とは思えぬ純情さで、その夜の計画を立てた。 待ち合わせ時間の十五分前に駅前広場に着くと、目印の像のそばで浴衣姿の修太郎が大学生風の男と何か話をしている。修太郎の顔が困った様子なのに何事かと慌てて駆け寄ると 「あっ、広郷くん」 修太郎は、気づいて手を振った。 背を向けていた男が振り向いてぎょっとする。 「どうしたんですか」 男に牽制する視線を送りながら、広郷が修太郎に尋ねると 「この人がね、一緒にお祭りに行こうって。僕、広郷くんと待ち合わせしているからダメって言ったんだけど、子供同士でお祭り行っちゃ危ないって言うの。広郷くんは子供じゃないし、僕も子供じゃないよって言ったんだけど」 修太郎の返事に、広郷の男を見る目が険しくなる。 男はオドオドと 「あのお、ヒロサト君っていうのは」 「俺だが」 明らかに年かさの広郷が不機嫌そうに答えるので、 「失礼しましたっ」 飛ぶようにして逃げ出した。 「まったく」 油断も隙もないと、広郷がつぶやくと 「あの人、お友達いないのかな」 修太郎は白い頬を膨らませた。 「何から行きましょうか」 「えっとねえ」 修太郎と手をつないで人ごみを歩きながら、広郷は修太郎の浴衣姿に目を細めた。真夏の五時はまだ日が高く、その明るい太陽の下で修太郎の青地にトンボ柄の浴衣はとても愛らしかった。丈は短めで、くるぶしが出ている。 (あの変な男がフラフラと近づいてきたのもよく分かる) 「あの鉄砲は?」 「え?」 「遊ぶの」 「あっ、ああ、そうですね」 ついつい浴衣に見とれてしまっていた広郷は、慌てて修太郎の指差す先を見る。射的の屋台小屋で子供たちがはしゃいだ声を上げている。 「あれから行きますか」 「うん。あれ、一緒にやろっ」 修太郎に手を引っぱられて、広郷は小屋の真ん前に立った。 「おっ、坊、いいね、お兄ちゃんと一緒かい」 的屋の親父に呼びかけられた修太郎は、 「お兄ちゃんじゃないよ、広郷くんはお友だちだよ」 唇を尖らせた。 「はは、そうかそうか」 親父は物事に拘泥しない性質(たち)だった。 「はい、一回三百円」 おもちゃのライフル銃と玉を五個、修太郎の手に握らせた。 「広郷くん、お先にどうぞ」 修太郎はそれを広郷に渡す。 「そうだな。まず兄ちゃんが手本を見せなきゃな」親父の相槌。 「だから、お兄ちゃんじゃないってばぁ」 気が付けば自分がやることになっていて、広郷は「どうしたもんか」と思ったが、 「広郷くん、どれ狙うの」 修太郎の大きな瞳に見上げられ、 「じゃあ、あのガンプラでも」 比較的大きなプラモデルの箱を狙った。 パン パン 二回立て続けに撃ってどちらも命中したけれど、箱は倒れなかった。 「空箱かと思ったのに、重いんだね。中、はいってるのかな」 修太郎が残念そうに言う。 (いや、あれは中に何か詰めて重くしているに違いない) 「じゃあ、もう少し小さいのを狙います」 隣のゲームソフトの箱を狙ったが、二つ外して、最後の一つは箱の位置をずらしたけれど倒すまでにはいたらなかった。 「あーっ、惜しいねっ」 「若干、右に曲がるみたいですね。それに、玉が軽いから、遠くのはむずかしいです」 言い訳のように言うと、 「うん。そうみたい」 修太郎は広郷からライフルを受け取って、親父から新しく玉を貰った。広郷にはおもちゃの小さなライフルが、修太郎にはちょうどいい大きさだ。 「うーんと」 修太郎は弾を詰める前にその大きさと重さを確かめるようにした。一発目を撃ったあと、小首をかしげて何か考えている。 「どうしました?」 「考えてるの」 そうして顔を上げて、もう一発、何か確かめるように撃つ。 「わかった」 うなずいてライフルを構えなおすと、修太郎は パン パン パン 三回撃って、ウサギのぬいぐるみを見事に倒した。 「おおっ」 親父が驚く。 「やった」 修太郎は飛び上がって喜んだ。 「すごい」 広郷も舌を巻いた。そして、 「ひょっとして、考えていたっていうのは」 訊ねると 「うん。玉の重さとスピードと、目標までの距離、それから」 「すごいな、坊は天才だ」 的屋の親父の言葉に、広郷ははたと気づいて、そして小さく笑った。 嬉しそうに親父から受け取ったウサギを抱きしめるこの一見小学生の少年は、確かに天才だ。 * * * 「ねえねえ、あれ何?」 修太郎が指差した先にあるのは、リンゴ飴。広郷は、さっきから「あれ何」攻撃にあって、色々なものを買わされている。 「リンゴ飴です。焼きリンゴの表面に飴をかけてるんですよ」 「リンゴ、焼いてるの?」 修太郎が目を輝かす。 「食べたいですか?」 「うんっ」 餌をねだる子犬のように、見えない尻尾を振る修太郎に、広郷の財布の紐も頬も緩みっぱなしだ。 「はい、どうぞ」 毒々しいほど真っ赤な飴にコーティングされたリンゴに、修太郎はかじりついた。 「甘いけど、リンゴはすっぱいよぉ」 「そんな味です」 広郷はクスクス笑った。修太郎の口の周りが真っ赤になっている。 (まるで口紅塗って、はみ出したみたいだな) そう思ったとたん、目的を思い出した。 今日の最大テーマは、修太郎との初チュウ。 (しまった) あれだけ考えていたはずなのに、修太郎と会ってからは、夏祭りデートがあまりに楽しくて―― (フツーに忘れてしまっていたよ……) じっと修太郎を見る。修太郎はきょとんと小首を傾げた。 「部長」 広郷は、そっと右手で修太郎の頬を包むと、 「飴がついてますよ」 親指で唇の端を拭った。その瞬間、広郷の背中にゾクッと震えが走った。無防備に赤い唇を薄く開いて、自分を見上げる瞳が艶めかしい。 修太郎は右手にリンゴ飴、左手にウサギのぬいぐるみとヨーヨーを持っている。広郷はそのぬいぐるみとヨーヨーをおもむろに取り上げると、小さな左手を掴んで黙って歩き始めた。 「広郷くん? どうしたの?」 修太郎は驚いて声をあげたが、広郷は応えない。この様子を他人が見たら、まるで子どものかどわかし。きつく腕を引っ張られて、修太郎は怯えた声を出した。 「広郷くん? 待って。ねえ、どうしたの? ねえ」 「黙って、ついて来てください」 広郷がそう言うと、修太郎は口を閉じ、ひたすら広郷の後について歩いた。握った手と手が汗ばむが、二人とも自分の汗だと思っている。 予定していた神社の境内まで待てず、広郷は、通りを一本奥に入って住宅街に進んだ。大きなマンションに挟まれた一角に小さな公園がある。ブランコの隣のベンチまで行って、広郷は修太郎の手を離すと、持っていたウサギとヨーヨーをそっとベンチの上に置いた。修太郎は恐る恐る広郷の顔を見上げる。 「広郷くん」と呼びかけたいのだが、「黙って」と言われているので何も言えず、ただじっと見つめる。 「部長」 広郷はかすれた声を出した。 「一千万達成したら、ご褒美がありましたよね」 「…………え?」 「キスしていいですか」 広郷の言葉に、修太郎はポトリとリンゴ飴を落とし 「ふえっ」 見る見る涙を滲ませた。 「ひどいよ、広郷くん」 ポカポカと広郷の胸を叩く。 「僕、広郷くんが怒っているんだと思って。急に怒るから、僕、何かしたのかと思って、それで、僕」 ふえええんと泣き出した。 「ひど…っ、広郷く…」 泣きじゃくる修太郎に広郷は慌てた。 「すみません。そうじゃないんです。俺が我慢できなくなって、それで」 「ふええええん」 そうしてしばらく修太郎をなだめすかして、鼻までかませて、 「大丈夫ですか?」 「……うん」 ようやく落ち着いた。 (しかし、これではキスどころじゃない) 広郷が諦めかけている時、突然、修太郎は目をギュッと閉じて上を向いた。 (え?) 「ぶ、部長?」 「……一千万の……ご褒美」 目を閉じたまま震える声で言う。 (部長……) 修太郎の唇からご褒美などといわれると妙にいかがわしくて、広郷は自分で使った言葉なのにそそられてしまった。 「じゃあ……」 (いただきます) そっと唇を重ねると、フワリとリンゴの香りがした。 修太郎の唇は、いつまでも固く閉ざされている。唇で挟んだり、舌の先でそっと突付いたりしたが、ますますギュッと結ばれてしまう。広郷はしかたなく唇を離して囁いた。 「部長、口を開けてください」 修太郎は、閉じていた目を丸くして広郷を見て、次の瞬間、 「あーん」 歯科検診のように大きく口を開けた。リンゴ飴で真っ赤になった舌がよく見える。 「いや、そうじゃなくて」 ちょっぴり脱力しながら、広郷は笑った。 「ほんの少しでいいんです」 「少し?」 「はい。少し」 修太郎の薄く開いた唇に親指をはわせ、そしてゆっくりと、再び唇を重ねる。 修太郎の唇の間に舌を差し込むと、今度はスルリと奥に進めた。 「ん」 修太郎の身体が、ビクッと跳ねた。舌を探して絡めると 「んんっ」 腕の中の華奢な身体が固くなる。広郷は、あやすように背中を撫でながら、何度もゆっくりと甘い舌を吸った。 「ふっ…」 強張っていた身体から次第に力が抜けていく。修太郎は、最後は、立っていられないように広郷の胸に身体を預けた。 「ふ、あ……」 唇を離すと、修太郎はどこか焦点の合わない瞳で広郷を見上げた。 「部長」 広郷は、愛しくてたまらないというように修太郎の頬を両手で包み、 「好きです」 もう一度口づけた。 二回目のキスで修太郎はおずおずと広郷に応えた。その幼いけれど一生懸命なキスに広郷は溺れる。きつく背中を抱いて、何度も何度も口づけた。ちぢこまっていた修太郎の両手もいつの間にか広郷の背中に回っている。 「ふ……んっぅ…」 「んんっ…っ」 呼吸も絶え絶えになって、ようやく二人が互いの身体を離した時には、かなり夜がふけていた。 「……さすがに帰らないとマズイですね」 広郷が溜め息をつく。 「……うん」 そう言いつつもお互い離れがたく、ベンチに座ってしばらく余韻に浸るようにじっとしていた。 しかし、広郷は意を決して立ち上がる。津島社長の、あの兄の、信用を失うわけには行かないのだ。 「送ります」 「うん」 コクンとうなずいて、修太郎は広郷の手を握った。 そのまま二人、うつむいて黙って歩く。言葉は、いらなかった。 そう、言葉はいらなかったのに、 「修太郎君じゃないっ」 真正面から、かしましい声が飛んできた。 (げっ、エビ子) エビ子だかエヴィだか知らないが、ディズニーランドで紗江子に紹介された女編集者。思わず回れ右をしたくなった広郷だったが、相手の方が早かった。 「すごい偶然。まさか、こんな所で会うなんてねぇっ」 走ってきた海老沢の後に紗江子の姿を探したが、幸いにもいなかった。海老沢はそれに気がついたのか、 「大丈夫よ」 と囁いて、漫画で描くならカマボコのようにいやらしく歪めた目で二人を見比べた。 「何だよ」 広郷がムッとした声を出す。 「別に」 海老沢はニッコリ微笑んだ。 「よかったわ。あれからどうなったか気になっていたのよ。お幸せそうで何より」 (大きなお世話だ) と言いたいが、ここで相手を刺激するよりは 「じゃあ、俺たち急いでいるから」 頭を下げると 「そうね、ごめんなさい、お邪魔して」 海老沢は割とあっさり、二人を解放した。広郷のシャツの背中をさすって 「ここ、しわになってるから、気をつけて」 うふ、うふ、うふふ……と去って行く。 「しわ?」 首をひねって、さっき修太郎が抱きついて握り締めていたところだというのに気がついた。慌てて、両手でこすって伸ばす。 修太郎も一緒になってさすってくるので、 「ああ、いいんですよ」 部長は気にしないでと言いかけて、修太郎の口許を見て固まった。リンゴ飴の赤色が口の周りに広がっている。 「部長、口の周りに赤いのが」 焦って言うと、 「広郷くんも、付いてるよ」 修太郎がポソッと言った。 公園が暗かったのと、明るいところに来てからは、照れくさくてまともに相手の顔を見ていなかったからわからなかった。修太郎がずっとうつむいていたからというのもある。 海老沢女史のあやしい笑いはこのためだったのかと思うと、広郷はほんの少しへこんだ。けれども、 (まあいいか、隠すことじゃなし) いや、隠すことのような気もするが、とにかく営業に大切なのは、ポジティヴシンキングだ。 end |
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