一晩病院に泊まって家に帰ったその翌日。洗面所で鏡を見ていたら、お母さんがひょいと顔を覗かせた。
「頭洗ってあげようか?」
「えっ、いいよ」
 反射的に断ったけれど、お母さんは引き下がらなかった。
「何、赤くなってるのよ。身体を洗ってあげるなんて言ってないでしょう。頭だけよ。気持ち悪いんでしょう?」
「……うん」
 そう。顔も身体も洗えるけれど、縫ったばかりの後頭部には細かいテープが横並びにいくつも貼られていて、抜糸まではそのままにしておくように言われていて、そうなると見えないところだけに、自分では汚れた頭を洗えない――というのが、今、鏡を見ていた僕の悩みだった。
「服着たままでいいから、そっち行って座りなさい」
 有無を言わせず僕を洗い場の椅子に座らせて、お母さんはビニール袋を持ってきた。
「ほら、これに手を入れて傷口を濡れないように押さえていなさい。そこ以外、洗ってあげるから」
「大丈夫かな」
「テープやその周りは触らないわよ。ちょっとずつ洗うから。少し時間はかかるけどね」
 洗面器にお湯を張ってタオルを浸して、言葉通り、端から少しずつ丁寧に拭いていってくれる。
「わあ、こんな所まで血の塊が……見たい?」
「ううん」
 もう、血はたくさんだ。
「それにしても、これくらいですんでよかったね。ここなら傷が残っても髪の毛で隠れるし」
「うん」 
「もっと下で、首とかだったら」
「脊髄やられてたら、植物人間だったね」
「嫌なこと言わないで!」
「お母さんが言い出したんだよ」
「あ、そうか。ゴメン」
 珍しく素直に謝るのでクスッと笑ったら、お母さんからも笑った気配がした。
「こうやって葵の頭を洗うの何年ぶりかなあ。いつから洗わせてくれなくなったんだっけ」
「え、知らないよ」
「小学校の二年生までは、一緒にお風呂入ってたのよね」
「憶えてない」
 いきなり変なことを言い出すので、本当は何となく憶えているのだけれど、そう答えた。
「憶えてないの? 学校で何か言われたって言って、お風呂一人で入る宣言したじゃない」
「そんな昔の話」
 やめて欲しいと小さく抵抗したのだけれど、聞いてはもらえなかった。
「その時、私がガックリしていたら、お父さんに『葵も男の子なんだから』って諭されたの」
(男なんだから)
 秋山くんとのことを何か言われるのかと身構えた。けれども、次にお母さんが言ったのは、
「伸生くんって、面白い子よね」
(伸くん?)
 予想外の言葉だった。
「あの子ね、五歳くらいの時、私に『あーちゃんをお嫁に下さい』って言ったのよ」
「ええっ?」
 思わず裏返った声が出る。お母さんは、思い出し笑いなのかそれとも今の僕の反応がおかしかったのか、肩を震わせて笑う。
「実はね、初めて話すけど、葵がお腹にいる時、私もお父さんも『生まれてくる子は女の子だ』って言われてすっかりその気になっていたのよ」
 洗面器のお湯を替えながら、お母さんは話しつづける。
「ほら、顔つきとかお腹の形とか、妊娠中の母親の様子で適当なこと言う人がいるでしょう? そういう人たちがみんなして『女の子だ』って言って、おまけに先生まで写真見せてくれて『女の子ですね』なんて言ったものだから、まあ、写真っていってもネズミの子みたいに小さかったからよくわからなかったのね、とにかく、もう、女の子だと信じて、用意していた洋服も靴もおもちゃも全部ピンクだった」
「うそ」
 初めて聞いた。
「本当。葵って名前も、女の子のつもりでお腹にいる間ずっとそう呼んでたから、男の子だってわかっても今さら変えられないわって、つけたのよ」
「……女の子じゃなくて、ガッカリした?」
「まさか。ガッカリじゃなくて、ビックリしたの」
「でも女の子がよかったんでしょう?」
 複雑な気持ちで聞いたら、
「違うわよっ。女の子だって言われてたからその気になってたってだけ。男の子だって言われてたらそっちのつもりになってたわよ」
 肩をペチンと叩かれた。
「それで何が言いたかったかっていうとね、葵はちっちゃい時、ずっと女の子の格好していたの。三つくらいまではワンピースドレスなんかも着てたかな」
「うそっ……」
「本当。だって、色々と先走って買ってしまってたんだもん」
「……でも、普通、着せないよね」
「普通、着せるわよ。せっかくあるんだから。かわいいし」
「…………」
 全く悪びれない。こういう人なんだけど。
「だから伸生くん、葵のこと女の子だと思っていたのね。そのプロポーズの時、ちゃんと説明したんだけど、そうしたら泣き出しちゃった。かわいそうに。悪かったなぁ」
 かわいそうだとか悪かったとか言いつつ、お母さんの声は笑っている。それにしても、そんなことがあったなんて僕は全く知らなかった。
(あ……)
 そう言えば、うちの大学に来た時に、僕のことを『小学校入るまで女の子だと思ってた』とかなんとか、前原さんに言っていた気がする。 
 女装のことまで言われなくて、本当に良かった。
 そう考えて息を吸った拍子に、突然、
「伸生くんはそれで諦めてくれたんだけど、秋山くんは諦めてくれないよね」
 などと言われて、激しく咳き込んだ。
「ちょ、大丈夫?」
 言った本人は、僕の激しい反応にギョッとしている。僕は咳き込みながら首を振った。気管に何か入ったみたいだ。苦しい。
「ゴメン、ゴメン」
 お母さんに背中をさすられ、ようやく落ち着いたときには、ぐったりしてしまって、洗い場に座り込んでしまった。
「おさまった? 何か飲む?」
 お母さんは、髪を洗うのを一時中断して、冷蔵庫から烏龍茶の缶を持って来てくれた。一気に飲んで息をつく。
「そんなにすごい反応しなくてもいいのに」
「……だって」
(いきなり秋山くんの話をするから……)
 顔を隠すようにしてうつむくと、お母さんは空になった缶を取り上げて、再び洗面器にお湯を張った。
「ほら、続き」
「腕が疲れた」
「腕かえなさいよ。さっきの濡れたから、新しいビニールあげる」
 再び椅子に座らされる。

「とにかくね。あれからちょっとギクシャクしちゃったから、言っておくけど……」
 お母さんは、先ほどまでと変って、静かな声で言った。
「伸生くんが言った通り、葵が、誰を好きでも……葵が死んでしまうよりは、マシだと思ってる。私も」
「…………」
「今は、その程度、かな」
「…………」
「正直、ビックリしたけど……人生、ビックリすること色々あるし」
(お母さん……)
「……ありがと」
「でも、お父さんにはまだしばらく内緒にしておこうね」
「うん……」
「内緒と言えば、秋山くんが病室に飛び込んできたとき、お母さんちょっとドキドキしちゃった」
「…………」
「なんだかドラマみたいだったね」
 お母さんの指が優しく髪を梳いてくれる。やっぱり弱い僕の涙腺は、緩んでしまって、仕方なかった。








* * *



「工藤くん、こっち」
 抜糸も終わった次の日、前原さんに呼ばれた喫茶店に行くと、
「あっ……」
 奥のテーブルには、前原さんだけでなく秋山くんの姿もあって、おまけに、まさかの伸くんまでいるものだから、足が止まった。
(なんで?)
 
 
 僕が事故にあった時の状況を聞いた秋山くんは、伸くんに激怒した。
「俺がブッ殺すべき相手って言うのは、運転手じゃなくてあのヤロウだったわけだ」
「違うよ。そうじゃなくて、僕がいきなり前も見ないで飛び出したんだよ」
「あいつに色々言われたからだろう」
「色々って言うか……」
「なんて言われたんだ」
「だから秋山くんとのことを聞かれただけで……その時は、動揺してしまって」
 よく憶えてないのだとごまかしたけれど、秋山くんの怒りは収まらなくて、僕は聞かれたまま素直に話した自分を呪った。秋山くんが怒ることはわかりそうなものだから、もっと上手に言えばよかったのだ。でも、秋山くんに聞かれてごまかしたりできる自分でないこともわかっている。
「とにかく、伸くんは悪くないから、怒らないで」
「何であんなやつを庇うんだ」
「庇うってわけじゃあ……」
「今度アイツに会ったら、顔の形が変るほど殴ってやる」
「お願い、絶対、そんなことしないで」
 僕が必死になって言えば言うほど逆効果な気がして、最後にはもうその話は止した。代わりに、伸くんが二度と秋山くんの前に現れないように、その日のうちに伸くんに電話した。
「とにかく、しばらくは、こっちに来ないで」
 僕の近くに来れば、秋山くんと顔を合わせる確率が高くなる。伸くんには悪いけれど、遊びに来るのも遠慮して欲しいと頼んだ。 

 そんな二人が、どうして一緒のテーブルについているのか。

 僕の疑問や不安を、全て察しているかのように、
「大丈夫よ、工藤くん。この二人仲直りしたから」
 前原さんが、にこやかに手を振った。
 思わず秋山くんの顔を見ると、苦虫を噛み潰したような顔をしているけれど否定はしない。伸くんのほうは、なんだか泣きそうな顔で笑っている。
 とりあえず大きな喧嘩にはなっていないみたいだ。
 ホッとして席につくと、
「あーちゃん、その帽子、かわいいね」
 僕の頭を見て伸くんが言う。秋山くんが一瞬ムッとしたのがわかって、僕はヒヤリとした。けれども、すぐに前原さんが、
「ホント、かわいい。似合ってる。工藤くん小顔だし、なんか芸能人っぽい」
 明るく会話を引き取ってくれたので、生まれかけた険悪な空気は霧散した。
「ただのハゲ隠しだよ」
「抜糸したんでしょ?」
「うん」
「髪伸びても、帽子は続けなさいよ。かわいいもん」
「うーん」
「秋山くんも、そう思うでしょ」
 黙ったままの秋山くんに気を使って、前原さんが話を振る。
「ああ」
 秋山くんは、チラッと僕の顔を見て、
「いいんじゃないか」
 ボソッと言った。
 いつもの秋山くんじゃないのは、やっぱり伸くんがいるからだろうか。
(それにしても、どうやって……)
 この二人を仲直りさせることが出来たのか。
(仕掛け人は、前原さんだろうけれど……) 
 伸くんは、電話の時から「あーちゃんに会えなくなるのは嫌だ」とか「秋山にちゃんと謝る」とか、なんだかんだ言っていたから「仲直り」って言われたら大歓迎だろうけれど。秋山くんがこうして静かなのが、不気味と言えば、不気味。





「じゃあ、もういいな」
 僕のオーダーしたアイスコーヒーが届いたとたん、秋山くんは財布から千円札を出した。
「トイレ行ってくるから、帰ってくるまでにそれ飲んじまえよ」
「え、うん」
「あら、もうちょっとゆっくりさせてあげなさいよ」
 前原さんが非難の声をあげたけれど、
「もう目的は済んだんだろ」
 秋山くんは、少し不機嫌そうに答えた。
「まあね。じゃあ、本当に二人はこれで仲良し。遺恨は絶ったということでヨロシク」
「遺恨絶ったからって、いきなり仲良しがあるかよ」
 秋山くんは肩をすくめて、トイレに向かった。
 僕は、秋山くんが戻ってくるまでに飲んでしまおうと、勢いよくストローを吸い上げたのだけれど、
「ねえ、前原さん、どうやって秋山くんをなだめたの?」
 どうしても気になって訊ねた。
 前原さんは、伸くんを横目で見て、唇の端をきゅっと上げた。
「このウザ男(お)に泣きつかれちゃったからね」
 それは、すぐに想像がついた。
「ウザ男ッスかぁ」
 情けなさそうに頭を掻く伸くんは、病院で「炎の説教を受けて」以来、前原さんのことをすっかり信奉してしまっている。僕との電話のときにも「翔子さんに相談してもいいか」と、何度も繰り返していた。前原さんも姉御肌だから、泣きつかれて無下には出来なかったのだろう。

「秋山くん、怒ってたでしょ?」
「当然よね」
「それで、どうやって?」
 前原さんがどうやって秋山くんを説得できたのか、出来なかった自分としては、非常に気になる。
「秋山くんに許してもらうだけの、貢物をね」
「みつぎもの?」
 意外な言葉に目が点になる。あの秋山くんが、何をもらって機嫌を直すと言うのだろう。
「機嫌は直っちゃいないけど、大人しくさせるだけの効果はあったみたいね」
 前原さんは、ニヤニヤと笑う。
「なに? それ」
 ものすごく気になる。
「内緒」
「ええっ、教えてよ」
「うふふ」
 微笑んだまま答えない前原さん。
 僕は伸くんを振り返った。こうなると伸くんの方が御し易いはずだ。
 それなのに、
「教えて、伸くん」
「やっ、いやあ……」
 前原さんを気にして、口を割らない。
(伸くんてば、いつの間にここまで前原さんに……)
 そうこうしている間に、秋山くんが戻って来るのが見えた。
「ほとぼり冷めたころに、本人から聞いてよ」
 伸くんが小声で言った。
「ヒントは、俺の、古い宝物」
(なにそれ?)



 結局、その時は、何が何だかわからなかった。
 秋山くんに聞こうかと思ったけれど、せっかく仲直り(?)できたのなら、それに水を注すことも無いと思ったから。

 
 その伸くんからの貢物というのを僕が偶然見つけたのは、それから一ヶ月も後のこと。
 秋山くんのアパートで、散らかったテーブルの上を整理していたら、本の間に見慣れない小さなアルバムがあった。何の気なしに開いて、愕然とした。


 そこには本当にピンクの服を着せられた、小さな僕がいた。
 






END
2005.10.11

ここまで読んでいただいてありがとうございました。
大学生になった二人の様子はいかがでしたでしょうか。
少しでも楽しんでいただけたのでしたら、幸いです。



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