金曜の夜。いつものバイトから帰ると、窓に灯りがついていた。 (葵が来ている) と、思わず顔が緩んだのだが、部屋に入るなり、 「これ、なに」 上目遣いに差し出されたものを見て、 (げっ) こめかみが引きつった。 「ああ、なんだろうな」 白々しく言って取り上げようとしたのだけれど、 「とぼけないで」 葵はさっと俺の手をかわし、 「これ、ひょっとして伸くんから?」 憎らしいほどかわいらしく、唇を尖らせた。 隠しようも無い事実なので、俺はうなずくだけだった。 * * * 葵が怪我をしてから二週間ほどたったある日、俺は、前原に呼び出された。葵のことで「ものすごく大切な話」があると言われたから、バイトを休んでまで応じたのだ。それなのに待ち合わせた店に入ると、 「あ、どうも、お久しぶり」 見たくない顔が、能天気に笑っていた。 「てめえ……」 いつか会うことがあったら殴ってやろうと思っていた、葵の従兄弟の椎葉伸生。こいつのせいで、葵は頭を縫うほどの事故にあったのだ。胸座を掴もうと腕を伸ばしたら、 「待って。待ちなさいよ、こんなところで」 前原が立ち上がって、割り込んできた。 「ヤクザじゃないんだから、店の中で暴れるのはやめてちょうだい」 「だったら、外に出ろよ」 椎葉にガンつけながら言うと、 「だから、ヤクザじゃないんだから、そんな言い方しないの」 前原が妙な余裕を見せて、椎葉を俺から引き離した。椎葉の野郎は子どもみたいに、自分より小さな前原の背中に隠れる。ムカつく奴だ。 「気持ちは充分わかるけどね。私も」 前原は椎葉を振り返って眉をひそめ、俺に向かって言った。 「でもね、こんな彼でも工藤くんの従兄弟でしょ。喧嘩していたままじゃ、工藤くんがかわいそうじゃない」 ここで葵の名前を出してくるあたりに、前原の狡猾さが窺えるのだ。 俺が黙って睨むと、 「まあ、とにかく座って」 狡猾女は、唇の端を上げて笑った。 「今回の事故では、彼もものすごく反省しているの」 前原が相当恐ろしい説教をして、こいつがベエベエ泣いて謝ったという話は聞いていた。だからと言って俺の気持ちが治まるというもんじゃない。 「その上、工藤くんに、もう自分の前に現れないでくれって言われて、死ぬほどへこんでいるのよ」 前原の言葉に合わせるように、椎葉はガックリとうな垂れた。 俺は、あの葵がそんなキツイことを言えたのかと、少し驚いた。 前原は俺の心の内を読んだのか、 「あのね、秋山くん。工藤くんがそう言ったのは、あなたのせいなのよ」 「は?」 「あなたが椎葉くんのことものすごく怒っていて、殴るとかコロスとか、言ったんでしょ?」 改めてそう言われると、自分の言動がなるほどヤクザ(というか、チンピラ)みたいに聞こえて、返事がためらわれた。 「優しい工藤くんがそれを聞いてどう思ったかしら。椎葉くんは幼馴染だし、工藤くん自身は椎葉くんと縁を切りたいわけじゃないのよ。でもね、秋山くんのために、工藤くんは友達を一人捨てようとしているの」 『秋山くんのために』というセリフをやたら強調した前原は、 「優しい工藤くんは、どんな思いかしらねえ」 ゆっくりと繰り返し、溜め息をついた。 (この女……) 俺が黙っているのをいいことに、前原はさっさと話を進めていく。 「それでね、今日は、工藤くんのために二人に仲直りをしてもらおうと思って」 今度は『工藤くんのために』を強調してニッコリ笑い、そして、 「仲直りの記念に、いいものがあるのよね」 椎葉を振り返った。 「あ、はい」 椎葉がかしこまって、ナイロンの鞄の中から紙袋を取り出した。A5サイズくらいの小さなものだ。 「反省の気持ちも込めまして」 椎葉が、勿体つけて差し出す。 「お二人の幸せを心から応援する俺からのプレゼントです」 そういう言い方が、いちいち…… 「ムカつくんだよ」 「すんません」 「何言ってるのよ。中を見てから怒りなさいよ。怒れるものならね」 前原は不気味なほどの余裕を見せている。何なんだ、一体。 俺は目の前の紙袋に手を出せず、しばらくじっと見ていた。すると、椎葉が、しびれを切らしたのか自分で袋を開けて、中の物を取り出した。 「田舎から送ってもらったのを、俺が貼ったんだけど」 分厚いノートかと思ったら、アルバムだった。 (まさか) 開きながら渡されたページ。そこには、女の子のようにピンク色のフリフリした服を着た、小さな葵がいた。二、三歳くらいだろうか、子どもの歳は皆目見当つかないが。しかし、こんなに小さいのに、睫毛の長い大きな瞳もふっくらやわらかそうな小さな唇も今と同じで、一目で葵だとわかる。 「他のページも見てみて」 椎葉が得意げに言うのも気にならず、俺は、心臓が高鳴るのを意識しながらページをめくった。 (くっ……) かわいい。 膝に抱えた絵本を読んでいる葵。寝そべって画用紙に落書きをしている葵。犬と遊んでいる葵。何があったのか顔をくしゃくしゃにして泣いている葵。かしこまって口を結んでカメラを見つめている葵。日常のスナップ写真から記念写真風のものまで、こんなにたくさんのチビ葵――正直、感動した。カメラに向かって片手を伸ばして笑っているのなんか、あまりにかわいくて、 (見ているだけで、鼻血が出そうだ) 「かわいいでしょう?」 前原の声で我に返り、照れを隠して言った。 「何でこんな写真……」 「あっ、それは」 椎葉が片手を挙げて答える。 「俺のオヤジが若い時からカメラが趣味で、親戚とかが集まると喜んで撮ってたんだ。俺達兄弟の写真もいっぱいあるんだけどってそんなものは見たくないだろうけど、あーちゃんは可愛いからたくさん写真撮ってたみたいで」両手で四角い箱の形を作って、「こんな焼き海苔の缶にいっぱい入ってて」 (何故、焼き海苔の缶?) 「その中から、あーちゃんが一人で写っているのセレクトしてきました。全部。プロデュース バイ ノブオ・シイバ」 一気に言って、満足そうだ。 「…………」 「こんなイイモノを持ってきてくれたのよ。これに免じて今までのことは水に流してあげましょうよ、ね」 前原はこの存在を知っていて、余裕を見せていたわけだ。俺がこれを「いらない」とは言えないと分かっていて。 「…………」 いいなりになるのは、悔しいが…… 「いらないの?」 「いる」 いるにきまっているだろう。こんなお宝。 「そうよね。いらないなら、私がもらうもん」 見せてと言って、俺の手からアルバムを奪う。 「ああ、かわいい。とってもかわいい。写真の半分が女の子のかっこうしているのが不思議だけど」 それは、俺も不思議だ。 「この泣いてるのなんか、ギュッて抱きしめてあげたくなるわよねえ」 「あっ、俺は、やっぱりこの笑ってるのがサイコー」 「返せ」 ひったくって上着のポケットにしまった。ちょっと厚いが仕方ない。 「じゃ、これで仲直りね。握手でもする?」 「するかよ」 吐き捨てた時、喫茶店のカウベルが鳴って、葵の小さな顔が覗いた。 * * * 「こんなにたくさんあったなんて」 葵は自分の写真をしげしげと見る。 「自分の家でも見たこと無いよ。こんな写真」 「椎葉のオヤジが、昔カメラ小僧だったんだろ」 「うん。うちのお父さんは、あんまりそういうの趣味じゃないみたい。うち、ビデオカメラもいまだに無いし」 「そりゃ、もったいないな」 「え?」 「いや」 葵は、きょとんとした顔で俺を見上げて、そしてすぐに別の話に移った。 「ピンク着てたって、本当だったんだ」 「あ?」 「ケガしてから、初めて聞いたんだけど」 葵が生まれるまで女の子だと信じていた両親が、せっせと女の子の服や靴を用意していたのだと、葵は恥ずかしそうに言った。 「いくら用意していたからって、生まれてみて男の子だったら、普通は着せないよね」 「そうかな。せっかく用意したんだったら、着せるだろう」 素直に思ったままを言うと、 「お母さんと同じこと言うんだ」 葵は目を丸くした。 葵の「お母さん」と言う言葉には、少しだけドキリとする。 あの事故の日以来一度も会っていないけれど、葵との仲がバレてしまっていると聞いて、かなり焦った。まあ、バレても仕方ないようなことは、散々しているのだけど。 「でもね、大丈夫。お母さん、僕が誰を好きでも、死なれるよりマシって言ってたから」 「そりゃ手放しには喜べないな」 死なれることの次くらいには、嫌だってことじゃないか。 「大丈夫だよ。お母さんらしい言い方なだけで。お母さん、たぶん、秋山くんのこと好きだよ」 「マジ?」 「うん」 「んじゃ正式に挨拶に行ったほうがいいかな。葵のことは幸せにしますから、安心して下さいって」 冗談などではなく本気で言ったら、 「えっ、だめ、やめて」 絶対嫌だと、葵は真っ赤になって首を振った。 「秋山くん? どうしたの?」 「ん? いや、ちょっと」 顎をこすってごまかすと、 「今日は、晩ご飯、作ってるんだ」 葵はもうアルバムのことは言わず、台所にたった。 言われてみれば、かすかに何かの匂いがしている。 「はい」 ホコリよけにレンジの中にしまっていたらしい皿を取り出すと、キャベツの上に大量の茹でた豚肉が乗っていた。 「野菜もちゃんとあるんだよ」 冷蔵庫をあけてラップをかけたサラダボウルを取り出す。夏野菜がてんこもり。 「茹でただけなんだけど」 ローテーブルの上に乗せながら、照れたように言う。 「いや、すげ、うまそう」 「あのね。これかけると、すごくおいしいんだよ」 小さなタッパーを二つ持ってくる。ちゃんとビールも一緒に持ってくるところが気がきいている。 「こっちがドレッシングで野菜にかけて、こっちは豚(とん)シャブ用」 「サンキュ」 「どう?」 今まで家で食べる時はほとんど俺が作っていたから、葵の手料理というだけで感激したが、 「マジうまい」 俺の返事に、葵は嬉しそうに笑った。 「切ったのと茹でたのだけなんだけど……」 「いや、でも、この豚シャブのタレがサイコーにうまいよ。ドレッシングも」 そう言うと、葵はウッと詰まった。 「どうした?」 「それは……お母さんが作ったの、家から持って来たんだ」 「あ、そうか」 「ごめんなさい」 葵は、頭を抱えた。 「本当に、僕がしたのは、キャベツの千切りと、肉と野菜を別々に茹でただけなんだ」 ちなみに千切りは、百切りくらいの太さだ。 「いや、いいよ。茹でかげんもサイコーだって」 「本当?」 疑い深く見上げる顔が愛しくて、抱き寄せた。 「わっ」 「葵が切っただけで、キャベツの味が三割増し」 「えっ?」 「葵が茹でてくれただけで、豚肉の味も五割増し」 「何、言ってるの」 葵は、俺の腕の中でクスクスと笑った。 「その笑顔で十割増し」 そう言って口づけると、葵は唇を離して、困った顔で言った。 「豚シャブの味がする」 「うまいだろ?」 「……うん」 葵は、 「作ってもらってばかりじゃいけないから」 と、少し料理を覚えることにしたらしい。それを聞いて、俺は、いいことを思いついた。 今度、葵に、うちの台所に立つとき用のエプロンを買ってやろう。 そう、子どもの頃の葵に良く似合っていたピンク色のフリフリ――。 2005.10.15 |
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