気がついたら病院のベッドの上でした――と、言い切れたらどんなに良かっただろう。 実際は、急ブレーキをかけた車を避けそこなった僕は、そのまま傍の電柱に叩きつけられた。と言っても、相手も必死にハンドルをきってくれて、掠っただけの衝撃はそれほどでもなく、何も無ければ腰と背中の打ち身だけで済んでいたと思う。運の悪かったことに、その電柱には不動産か何かの看板が針金で括り付けられていて、その角で後頭部をパックリ切ってしまって、気がついたら、押さえた手やシャツが真っ赤に染まるほどの血を流していた。 不思議なことに、痛みはさほど感じなかった。その上、意識もはっきりしていたから、伸くんがパニックを起こしている様子も全部覚えている。 「あーちゃんっ、あーちゃん、大丈夫かっ」 「大丈夫だよ」 道路に横になったまま答えた。伸くんは僕の横に座り込んで、半ベソかいて、 「こんなに、こんなに血がっ、血っ、血、あ、きゅ、きゅうきゅうしゃだ、救急車っ」 ポケットから携帯を取り出して、慌てすぎて、地面に落としている。 「ば、番号、なんだっけ?」 教えようとしたら、 「今、救急車、呼んだから」 車を運転していた男の人が走ってきて、僕の顔を覗き込んで言った。 「大丈夫かい」 「はい」 うちのお父さんくらいの人だ。スーツを着ているのは、日曜なのに仕事だったのかな。それなのに、こんな目にあわせてしまって――。 「すみません。僕が、飛び出して」 「いいから、これで頭を押さえて」 タオルを頭の下に敷かれた。さすがにこの状態で起き上がるのは怖くて、道路の端に寝たまま救急車を待った。 「あ、じゃあ、俺、叔母さんに」 伸くんはものすごい形相で携帯のボタンを押した。そして、 「あっ、叔母さん、大変なんだっ。あーちゃんが、車にはねられて」 今にも死にそうな風に言うものだから、僕は傍で聞いているその男の人に、心から申し訳ないと思った。 家の近くの事故だったから、お母さんは、救急車より早く駆けつけて来た。 「葵っ、大丈夫よっ、お母さんがついてるからねっ」 道路に這いつくばるお母さんの動揺ぶりも、伸くんに負けてなかったと思う。 「しっかりしなさい。大丈夫だからねっ」 「うん」 まさしく僕は「大丈夫」だと何度も言っているのだけれど、それを信じていないのはお母さんと伸くんだ。そのうち近所の人たちも集まってきたものだから、僕は、目を瞑って片腕で顔を隠した。 (意識を失っていればよかった……) 恥ずかしさのあまりそう思ったのはこの時だ。 救急車には伸くんとお母さんも一緒に乗った。僕は、目は閉じていたけれど、意識ははっきりしていた。傷口に何か圧迫するものを貼られたのも、血圧を測られたのも、救急隊員の人が「名前と年齢を教えてください」と言った時に、伸くんとお母さんが揃って自分たちの名前と年を答えたことも覚えている。もちろん救急隊員が尋ねたのは、僕のことだ。ついでに言うと、伸くんが、 「あーちゃん、死ぬなよっ」 僕の空いているほうの手を握り締め、おそらく救急隊員に向かって、 「あーちゃん、出血多量で死んだりなんかしませんよね。血なら、輸血なら、俺の血を使って下さいっ」 血液型が違うくせにそう叫んでいたのも、はっきり覚えている。 伸くんとお母さんのおかげで、僕は、悲惨な出来事を悲惨と感じる暇もなく病院に運び込まれた。 そして救急病院では、頭の傷を縫ってもらい、背中と腰に湿布を貼ってもらい、念のためにCTスキャンも撮った。 「明日、もう一度傷口を見ます。骨はどこも折れていないようですけれど、頭も打っていますし、夜になって熱が出たりするといけないので、今日だけここに泊ってください」 看護婦さんに言われ、車椅子に座らされた。 「自分で歩けるよ」 「ダメだ。安静にしてろ」 伸くんは生真面目な顔で首を振って、僕が立ち上がるのを許さなかった。 (安静に、って……) どう考えても大袈裟だけれど、伸くんの押す車椅子で五階にある病室まで連れて行かれた。ベッドの空きが無いから、今夜だけ個室を貸してくれるのだそうだ。 「あっ、そうだ。パジャマがいるわ」 病室の白いベッドを見るなり、お母さんが言った。確かに、このまま寝たらシーツを汚してしまう。なにしろ僕のシャツは、袖口と首の後ろにべっとりと血が付着している。 「他に何かいるものある?」 「別に。一晩だけだもの」 「そうね。じゃあ、急いで売店行って来るから」 お母さんは、本当に急いで、走って行った。 伸くんは、ちょっと前の大騒ぎが嘘のように、気難しい顔で黙り込んでいる。二人して黙っているのも落ち着かないので、 「頭って、意外に出血するんだね」 人ごとみたいに言ってみたら、 「ごめんっ、あーちゃんっ」 ガバッと音をたてるような勢いで伸くんが土下座したので、驚いた。 「どっ、どうしたの?」 「俺が、バカなこと、言ったから……」 伸くんは、いきなり泣きはじめた。 「俺が、あーちゃんを追い詰めるようなことを言ったから、こんなことになって……俺のせいだ」 それは違う。 伸くんの言葉にカッとなって飛び出したのは事実だけれど、誰が悪いといったら、間違いなく、前方不注意のこの僕だ。 「もし、もしも、あーちゃんがこのまま死んでたら、俺、俺……」 (そんな……) 肩を震わせてオイオイ泣く伸くんに、どう言えばいいのだろう。 「えっと、違うよ。伸くん。伸くんは悪くないよ」 そう言うと、伸くんの泣き声はますます大きくなった。どうしよう。 「泣かないで、ね、伸くん」 そこにお母さんが戻ってきたので、僕は助けを求めた。 「伸生くん、もういいのよ」 お母さんが優しく声を掛けると、 「叔母さんっ、すみませんでした」 伸くんは、今度はお母さんに謝りはじめた。 「俺が、俺が、秋山とのこと……問い詰めたから……」 秋山くんの名前が出されてギョッとする。 (伸くんてばっ) 何も、今、ここで――。 「俺、あーちゃんが、秋山と付き合っててもいい」 (げっ) 伸くん、何を言い出すんだよ。 そして、伸くんは叫んだ。 「あーちゃんがホモでも何でもっ、生きててくれれば、それでいいっ」 (ぎゃーっ!!!) 恥ずかしさと居たたまれなさに背中が震えた。顔に血が上って、急に、頭の後ろがズキズキと痛んだ。 お母さんが気まずそうな顔で僕を見る。僕は、目を合わせられずにうつむく。 「その話は、もういいわ」 お母さんは、そう言った。 「いいのよ」 うずくまる伸くんの背中をさすり、僕を振り返った。 「ほら、葵、早く着替えて横になりなさい」 買ってきたパジャマを袋から出して広げる。 「う、うん」 「でもっ……でも、叔母さんぁっ」 伸くんは小さな子どものように、いつまでも泣きながら、手の甲で目をこすっている。 ふっと、昔、こんなことがあったような気がした。 (ああ、そうだ) まだ僕たちが小学校に入る前。一緒に遊んでいて、何かのはずみで僕が怪我をした。怪我をしたのは僕だったけれど、そしてもちろん、僕も泣いたのだけれど―― (伸くんも、こんな風に泣いてたっけ) 思い出した記憶に、胸の中が暖かくなった。 「伸くん、変ってない」 思わず漏れたつぶやきは、泣いていた耳にも届いたらしく、伸くんが濡れた目で僕を見上げた。その目が、昔のまま。 「あーちゃん」 「思い出した。僕、昔、伸くんのこと、大好きだったよ」 木に登れなくても、川で泳げなくても、伸くんの後ろを付いてまわった。それはもちろん初恋とかではないけれど、本当に大好きな「友達」だった。どうして、そのことを忘れていたんだろう。 (忘れて……ちょっとだけ、うっとうしいなんて思ったりした) 「ごめんね、伸くん」 「あーちゃぁああん」 涙と鼻水でグショグショになった伸くんが、僕の膝にすがりつこうと手を伸ばしたその時、 「葵っ」 身を切るような叫び声とともに、秋山くんが飛び込んで来た。 (えっ?) どうしてここに? と、思う間も無く、 「工藤くんっ」 秋山くんの後ろから、前原さんが駆け込んで来た。 ああ、そうか。 伸くんは、前原さんと携帯の電話番号を交換していた。僕が治療を受けている間に連絡してくれたのだろう。そして、前原さんが秋山くんに知らせたのだ。 「工藤くん……大丈夫なの、ね」 前原さんは呆然とつぶやいて、気が抜けたような顔で僕を見た。そして床にへたりこんでいる伸くんに眉をひそめ、次に僕のお母さんに少し気まずげに微笑んで会釈をし、最後に秋山くんに向かってひどく申し訳なさそうに言った。 「ごめんなさい。椎葉くんの電話が……瀕死の重体みたいに聞こえて」 ああ、きっと伸くんはそう言った。前原さんはその通り受け止め、慌てて秋山くんを呼び、それで秋山くんは、こんなに真っ青になって、こんなに息を切らして――。 謝る前原さんの声も耳に入らない様子で、秋山くんは強張った顔のまま、僕をじっと見つめる。その瞳に僕も胸が締めつけられて、声が出ない。 僕たちは、しばらくの間、言葉も無く見つめ合ってしまった。 「ええっと、お父さんに電話してくるわね。心配しているだろうから」 お母さんが、取って付けたように言って、 「わざわざ来てくれて、本当にありがとう」 前原さんと秋山くんに、丁寧に頭を下げた。 お母さんが出て行くのを見送って、前原さんは、床に座り込んでいる伸くんの片腕を掴んで引っ張り、立ち上がらせた。 「ああもう、なにその顔。色々言いたいんだけどね。先にその顔、洗いなさいよ」 伸くんの背中を小突いて、部屋の外に押し出す。そして、ドアを閉める前に振り返って微笑んだ。 「とにかく、大事じゃなさそうで良かった」 「うん、ありがとう」 前原さんにもさぞ心配をかけたに違いない。申し訳ない気持ちでいっぱいになる。僕が謝ろうとしたのを察したのか、 「また、後でね」 パタンとドアが閉じられた。同時に、秋山くんが大きな溜め息をついて、崩れるようにして僕を抱きしめる。 「……よかった」 絞り出された声が震えていて、思わず泣きそうになった。秋山くんに包まれて、気が緩んだのかもしれない。 「ごめんね、秋山くん。心配かけて」 恥ずかしいくらい甘えた声が出た。 「お前が、車にはねられたって聞いて……」 「うん。ごめんね」 「まるで、今にも死にそうに言うから」 「ごめん……」 心配かけて、本当にごめんなさい。 「そうじゃなくて」 秋山くんは、両手で僕の頬をそっと包んだ。 「本当に……よかった」 額が触れ合うほどの近さで、秋山くんはくっきりした眉を寄せて言った。 「お前が死んでたら……俺、相手の運転手、ブッ殺してた」 物騒な言葉に、僕は小さく首を振った。 「ダメだよ」 親切だった男の人を思い出して、 「相手の人は、全然悪くないもの」 むしろ被害者だ。そう告げると、 「そんなことは、どうでもいいんだよ」 秋山くんの指に力がこもった。ゆっくりと形を確かめるように、頬を撫ぜられる。親指が唇をかすめて、 「相手が誰でも……どんなイイヤツでも」 秋山くんの吐息がかかる。 「お前を俺から奪うヤツは、ブッ殺す」 「……ん」 唇を塞がれて、僕は目を閉じた。 あの男の人には本当に申し訳ないのだけれど、秋山くんの言葉にうっとりとしてしまった自分がいた。 |
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