その夜は眠れなかった。目を閉じると二人の姿が浮かんできて、無理に眠ろうとすると秋山くんに「さよなら」を言われる夢を見た。 「葵、出かけるの?」 「うん」 「ご飯は?」 「いい。外で食べるから」 ぼうっと腫れぼったい顔を冷たい水で冷やして、多少頭をすっきりさせると、約束の時間にはずっと早いけれど、秋山くんのアパートに行くことにした。 電車の中でもずっと、色々な想像をしてしまって落ち着かなかった。 秋山くんのアパートに、彼女がいたらどうしよう。もし昨日泊ったのなら、それは十分ありえることだけれど。 その時、僕はどうすればいいのか――全然、わからない。 アパートに行く途中、コンビニの前を通ったので中を覗いた。当たり前だけれど、秋山くんの姿は無かった。そしてやっぱり、彼女もいなかった。アパートが近づくにつれて胸が苦しくなってきた。外階段を上がって玄関の前に立ったときには、息が止まりそうになった。秋山くんに言うべき言葉は、まだ見つかっていない。 中にいる二人を想像しながら、思い切って呼び鈴を押した。 (秋山くん……) ところが、誰も出てこなかった。 続けて押してみたけれど、何の反応も無い。 (いない?) まさか居留守を使っているとも思えない。大体、秋山くんはそんな人じゃない。僕は、ポケットからキーホルダーを取り出した。自宅の鍵と一緒に、秋山くんからもらった合鍵が付いている。一瞬、迷ったけれど、そっと鍵穴に入れた。ゆっくりまわすと、カチリと小さな音がした。 「秋山くん?」 いないと思ったけれど、呼びかけた。 あがってみると、部屋の中はいつになく綺麗に片付けられていた。反対側の窓は大きく開かれていて、風がカーテンを揺らしている。 (朝、掃除したのかな) 普段は台所に溜まっている空き缶などのゴミが一つも無いことから、やはり、昨日彼女がここに泊ったのだと確信した。 (これで彼女が残していった物でも見つけたら、決定的なんだけど) そんなもの見つけたくないくせに、つい部屋の中を見渡してしまう。 そして、気がついた。 (絵が、無い……) 僕の描いた絵が無かった。 美術部の卒業制作で描いた、小学生の秋山くん。 どこにやったのかと探せば、あれだけの大きさの物を置けるスペースなどそれほど無くて、すぐに見つけることが出来た。 押入れの中にそれはあった。 押入れ箪笥と壁の隙間に、人目を憚るようにしまわれていた。 『これは、大切な絵なんだ』 絵をここに持ってきた日、秋山くんは言った。 『この絵がなかったら俺、お前に気持ち伝えることなかったし――』 『だから、いつでも見えるところに飾っておきたいんだ』 それが、今、押入れの中に、隠されている。 僕の中で、何かが弾けた音がした。 そう、いつだって不安だった。 秋山くんほどの人が、僕なんかのことを、いつまでも好きでいてくれるはずが無い。 絵を押入れから出して、僕は秋山くんのアパートを出た。 「おかえり、葵。あら、何持ってるの?」 「なんでもないよ」 僕はいそいで階段を上がって、部屋に入ると、絵をベッドの下に滑らせた。 珍しくお母さんは僕を追いかけて部屋までやって来た。 「開けるわよ」 返事を待たずに、ドアを開ける。 「何?」 「どうしたの、怖い顔して」 「別に……」 「さっき秋山くんから電話があったわよ」 秋山くんの名前を聞いて、身体が強張った。 「出かけていますって言ったら、どこに行ったかわかりますかって。あいにくわかりませんって言ったら、帰ってきたらいつでもかまわないから携帯に電話くださいって。なんだか、慌てていたみたいよ」 「……そう」 「かけないの?」 「あとで」 「何かあったの?」 「ないよ。なんでもないって、言ってるじゃないか」 出て行ってくれと、お母さんをドアの外に押しやってドアを閉めた。子どもじみた態度だとわかっているけれど、今の顔を見られたくない。 鍵をかけて、ずるずるとしゃがみこんだ。ドアに背中を預けて足を投げ出す。ベッドの下にキャンバスが見えて、目の裏が熱くなった。 一応、我慢したのだ。家に帰るまでは泣かない、と。 けれども、一度溢れてしまった涙は、もう止まらなかった。 『工藤は、本当に涙腺が弱いんだよな』 いつだったか、秋山くんにそうからかわれた。 (うん……ごめんね) 次から次に、秋山くんの声やその時の表情(かお)が浮かんできては、根性のない僕の涙腺を刺激する。 (秋山くん……) そうして、どれほどの時間が過ぎていたのだろう。 好きだといってもらってから三ヶ月間の、短かったけれど一生分くらいに幸せだった想い出にずるずると浸っていたら、いきなり背中のドアがノックされた。 「葵」 「な、何」 手の甲で涙を拭って、返事した。なんとか鼻声にはならずにすんだ。 「秋山くんが来てるんだけど」 「え」 その瞬間、混乱してしまって、 「いないって」 言ってくれと、無理を言った。 案の定、お母さんは、 「何言ってるのよ。いやよ。もう居るって言ったもの」 ムッとした声で言った。 「居留守使うなら、自分で言いなさい」 僕よりもっと無茶なことを言って、お母さんが立ち去る気配がした。 秋山くんを呼びに行くのだと思って、僕はドアの中から叫んだ。 「待って」 「何」 お母さんは、まだドアのそばにいた。 「お願い。今、会いたくないんだ」 「喧嘩でもしたの?」 「…………」 返事に詰まっていたら、 「えっ、秋山くんっ?」 お母さんの驚いた声がした。 「工藤っ」 秋山くんの声だ。ノブがガチャガチャと揺すられ、ドアがダンダンと叩かれた。 「工藤、いるんだろう。開けてくれ」 「ちょ、ちょっと待って、秋山くん」 お母さんの声が裏返っている。 「やめて、ドアが壊れちゃう」 「工藤、ここを開けてくれ」 お母さんの制止を無視して、秋山くんは激しくドアを叩いて揺する。僕はどうしていいかわからず、しばらくドアノブにしがみついていたけれど、 「工藤っ」 「ああ、秋山くん、お願い。止めてっ」 二人の切羽詰まった声に、鍵を回した。 カチャリと音がしたとたん、ドアが押し開けられた。秋山くんは怖い顔をしていたけれど、僕の顔を見てハッとしたように目を瞠った。僕は、自分が泣いていたことを思い出してうつむいた。 秋山くんは、すばやく僕の部屋に入って後ろ手に鍵をかけた。 「あ、秋山くん? 葵っ、大丈夫?」 お母さんは、再びドアの外に取り残されて慌てている。 「大丈夫だよ」 今は、お母さんをなだめないといけない。 「秋山くんと話をするだけだから」 「でも、葵」 「いいから、下で待ってて」 「秋山くん、お願い。暴力はダメよ」 お母さんは、誤解している。 「すみません、おばさん。何もしません。勝手にあがって申し訳ありませんでした」 秋山くんの落ち着いた声に、お母さんは、しばらく躊躇したようだったけれど、 「じゃあ、下にいるから。後でお茶とりに来なさいね」 そう部屋の中に声を掛けて、ようやく階下におりていった。 秋山くんと二人きりになって、僕は自分の部屋だと言うのに所在無く、ベッドの端に腰を下ろした。秋山くんは、僕の向かいに腰を下ろした。床に座ったから、ベッドの下の物が見えたのだろう。 「やっぱり、お前が持って帰ってたのか」 ボソリとつぶやいた。 「ごめんな」 秋山くんに謝られて、僕はビクリと身体が震えた。 「ちゃんと話さないで」 ああ、夢と同じだ。 『ごめん』と言って、『話さないといけないことがある』と言って、そして最後に『さよなら』と言った。 ベッドの端を掴んだ手が震えて、僕はまた泣き出してしまった。情けないけれど、夢の中でもそうだった。 「工藤?」 僕が泣き出したから、秋山くんはうろたえたようだった。 「ごめん、気にしないで。本当に、涙腺が弱いだけだから」 「泣くなよ」 膝立ちで僕に寄り添って、両手で濡れた頬を包む。こんな時まで優しい手に、僕は余計に悲しくなった。 「うん。大丈夫。……大丈夫だから」 もうそんなに優しくしないで。 「くど……葵、悪かった」 抱きしめられて、僕は、 「もう、いいから」 やんわりと秋山くんを押しのけた。 「葵?」 「もういいよ。秋山くん、今までありがとう」 そう言うと、秋山くんの男らしく整っている眉が不審そうに寄せられた。そして、次には、怖い目で僕を見た。 「どういう意味だよ。まさか、別れるとか言ってんじゃないよな」 「えっ……」 「なんだよ。そんなに怒ってるのか」 秋山くんの手に力がこもった。 「悪かったって言ってるだろう。言い訳くらいさせてくれよ」 「別に……」 言い訳の必要なんか無いよ。 「秋山くんに好きな人ができたなら、あきらめるしかないもの」 手の甲で涙を拭って言うと、秋山くんの顔が引きつった。 「ちょお、待て」 膝立ちだった秋山くんが、思わずといったように立ち上がった。 「誰に? 好きな人ができたって?」 「それじゃあ、お前は、俺が昨日サークルの連中をうちに呼んで、その時、絵を隠したことを怒っているんじゃないのか?」 サークルの人たちにひやかされるのが嫌で、やむなく僕の描いた絵を避難させたのだと秋山くんは言った。 「だって、昨日、あのバイトの女の人と一緒だった」 僕は、昨日の夜、やっぱり秋山くんに会いたくなってアパートを訪ねようとして、偶然、二人を見たのだと告げた。「偶然」なんて、嘘だけど、さすがに、自分のストーカー行為を洗いざらい話すことはできない。 「だから、あれがサークルの先輩なんだよ。っていうか、バイト先で無理やり勧誘されたの、あの人に。どうせバイトがあるから幽霊なんだけど、試験も近かかったし」 試験前には先輩からの情報があるのと無いのとでは大違いなのだそうだ。エスカレーター式で周りに中学、高校からの先輩がうじゃうじゃいるうちの大学とは違って、サークルやゼミに入っていないと、上級生とのつながりも無いらしい。 「うちの学部は、ゼミは二年からだからさ」 「それで、サークル」 「そう。昨日は、飲み会の場所を提供しろって言われて、部屋を貸したんだよ。俺が帰った時にはもうみんな出来上がってたんだぜ」 大学と同じ駅を選んだのは失敗だった、と秋山くんは前髪をかきあげた。 「二人だけじゃなかったんだ」 「当たり前だろ」 秋山くんはちょっと怒ったように僕を見た。 「ごめんなさい」 疑ってしまって。申し訳なくて下を向くと、 「いや、ちゃんと言わなかった俺が悪いんだけどさ」 秋山くんの手が、僕の頭を撫でるようにして上向かせた。 秋山くんは、今、僕の隣に腰掛けている。膝と膝がくっついて、少しくすぐったい。 「会った時に言おうと思って、サークルのこと言わなかったもんな」 「うん」 そう言えば、まだ聞いていない。 「何のサークル?」 秋山くんは、ウッと詰まったように唸って、黙り込んだ。そして、 「笑うなよ」 念を押した。 「何で?」 そんなに変なサークルなんだろうか。 僕が疑問を口にする前に、秋山くんがボソッと言った。 「絵本研究会」 「え?」 「何度も言わすなよ」 「ごめん、よく聞こえなかったの」 「だから、え・ほ・ん・研究会」 やけくそのように一語一語区切って言う。 「絵本? 何で?」 秋山くんと、全然、似合わない。 「聞くなよ。誘われたって言っただろ。あの先輩、三年の、副部長なんだけど結構押し強くてさ。学部が一緒で、俺も試験対策のノートに負けたっていうか。バイト優先でいいって言うし。男手が足りない、とか言われて」 「男手」 ふと秋山くんと彼女が新宿の紀伊国屋にいたという伸くんの言葉を思い出して、絵本研究会なら本屋にいてもおかしくないと、腑に落ちた。 「ひょっとして、その先輩と本屋に行った? この前の月曜」 「何で知ってんだ? ああ、授業が一個休講になって、無理やり荷物持ちに駆り出された」 やっぱり。 「あ、でも誤解するなよ。他にも男はいるから。あの先輩にも付き合ってる相手いるぜ。昨日の飲みだって半分は男だったからな」 秋山くんは、僕の誤解を解こうと、一生懸命しゃべってくれた。 「それに、俺が、本当にそこに入ろうと思ったきっかけは」 秋山くんは、急に声を小さくして、照れたように顎をこすった。僕は、黙って続きを待った。 「そこ、自分たちで絵本作ってて、製本もしてたんだ」 「製本?」 「そう。結構、本格的なんだ。オリジナルで、世界に一冊だけの絵本ができんだよ」 「秋山くん、絵本作りたいの?」 意外な気がして、たずねたら、 「ばか、お前の描いた絵、本にしたいと思ったんだよ」 もっと意外な答えが返ってきて、僕は言葉を失った。 「絵本って言っても、文字の無いのもあるんだって。ストーリーだって、読む人が勝手に作ればいい。って、受け売りだけどさ。お前、前にスケッチブック見せてくれただろ。庭の花とか、隣の犬とか、かわいいの描いてたじゃん」 (あ……) 『絵はもう描かないのか?』 『また描けよ』 『もっと違うもの描けよ。そう、猫とか犬とか』 (それで……) 「あ、おい、どうした? 工藤」 僕は、思わず秋山くんに抱きついていた。 「ごめんなさい」 自分の勝手な思い込みで、ずっと秋山くんのことを疑っていた。こんなに僕のことを考えてくれていた秋山くんを。 「本当に、ごめんなさい」 やっぱりこんな自分は、秋山くんにはふさわしくないのかもしれない。自己嫌悪で胸の中が真っ黒になって、苦しくて、僕は、今日まで考えていた色々なことを打ち明けた。疑ってストーカーしてしまったことも、全部、言った。 「ごめんなさい」 こんな僕だけど、もしも許されるなら、図々しく望んでいいなら―― 「嫌いに、ならないで……」 急に、身体がひっくり返った。 気がついたら、ベッドに押し倒されていた。 赤い顔をした秋山くんが、僕の両手を押さえつけている。 「あ、秋山、くん?」 「バカヤロ」 秋山くんは、苦しそうな顔で唸った。 「お前、本当にわかってないな」 「え……」 |
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