秋山くんに他に好きな人ができて、僕のことが邪魔になってしまったんじゃないか。
 その思いつきに、僕は激しく動揺した。そのことよりも、秋山くんのことをこうして疑っている自分自身に対して。
「……っ」
 どうして僕は、いつもいつもこう卑屈な考え方しかできないんだろう。片想いしている時からそうだった。秋山くんに嫌われていると思って、避けたり、顔色を窺ったり。ようやく友達として普通に付き合えるようになったと思ったら、運良く両想いになれて、そしてまた怯えている。秋山くんに嫌われてしまうんじゃないかって。
(前より、ひどい……)
 自信が無いのだ。
 僕にとって秋山くんは、いつまでもヒーローで、一番光のあたる場所にいる人で―――僕なんかには、もったいない人だから。
 自信が無い。好きでいてもらえる自信が無い。

 それでも、その秋山くんが、僕のことを好きだといってくれたのだから、その言葉を信じたい。信じないといけない。なのに―――
(疑っている……)

「ごめん、ね」

 さっきの電話も、ひどかった。
 勘繰るようなことばかり言った。
 秋山くんも、きっと呆れただろう。
 ウンザリしたかもしれない。
 本当に、僕のこと、嫌いになったかも。












「どうかした? 工藤くん」
 前原さんに突付かれて、僕は今が授業中だということに気がついた。
「ページ、違ってるし」
 机の上に広げただけの教科書を、僕の代わりにめくってくれる。
「あ、ありがとう」
「準備しておかないと、そろそろ当たるわよ」
 前原さんが言ったと同時に、
「じゃあ、その後ろ」
 教授に言われて、僕のひとつ前の席の女の子が起立した。
「次だからね」
「えっ」
 何が次なのかもわからない。
「ごめん、今、何やってる?」
 うつむいて小声でたずねたら、前原さんは驚いたように眉を上げた。



「珍しいわね、授業中に慌てる工藤くんも」
「どうも、ありがとう」
 あの後すぐに指されて、前原さんが助けてくれたのでどうにか答えられたけれど、周囲ではちょっとした笑いが起きて、そのことで僕はまた落ち込んだ。
 そして、僕のついた微かな溜め息を、前原さんは聞き逃さなかった。
「ねえ、どうしたの? 悩み事があるならお姉さんに相談して」
「……なんでもないよ」
 ちょっと無理して笑ってみたけれど、
「そんな顔して、なんでもないとか言わないで」
 頬を軽く抓られた。
「痛いよ」
「秋山くんと何かあったの?」
 さらりと言われて、思わずつられてうなずきかけた。けれども、
「そうじゃない」
 首を振る。何かがあったわけじゃない。
「違うの?」
「うん。単に、自分のことで落ち込んでるだけ」
 男のくせして女々しくて、嫉妬深くて、はっきりしなくって――
「ウザい、かな」
「え?」
「ウザい男って嫌だよね」
「何言ってるの? あ、それって、ひょっとしてあの従兄弟のこと?」
「えっ、なんで」
 何でそうなるんだろう。僕は、自分のことを言ったのだけれど。
「だって椎葉くん、だっけ。調子良いのはいいとして、工藤くんにつきまといすぎじゃなかった? 最初は、まあ、気にしないようにしてたんだけど、月曜日、一日中一緒にいたら、最後はかなりウザかったんだけど」
「そうだったんだ。ごめん」
 前原さんは、終始ニコニコしていたから、そんな風に思っているなんて全然思わなかった。付き合わせて悪いことをした。
「あ、ごめんなさい。そういう意味じゃないのよ」
 前原さんはペロリと舌を出した。
「失礼。工藤くんの従兄弟をつかまえて」
「ううん」
「面白いくらい性格、正反対よね。血のつながりといっても従兄弟になると薄いんだろうけど、結婚できるくらいだし。でもDNAって何? とか思っちゃった」
 前原さんの言い方に笑ったら、前原さんも僕を見て安心したように笑った。
「でも、気がつかなかった。前原さんがそんな風に思っていたなんて。高橋くんは、ちょっと顔に出てたけど」
 気がつかなくてごめんと言ったら、
「気づかせないのが、私のエライところなの」
 前原さんは、わざとらしく顎を反らしてみせた。
「ウザいと思った相手いちいち指差して『ウザい』って言ってたら、円滑な社会生活営めないしね。っていうくらい、実は私、色んな人相手にしょっちゅう『ヴザッ!』って思ってるってことなんだけど」
 そう露悪ぶって言う前原さんに、聞いてみた。
「じゃあ、やっぱり僕のこともウザいって思うよね」
「どうして?」
 前原さんは目を瞠って、首をかしげる。
「だって、本当にウザいし」
 こんなことを言っている僕が。
「工藤くんのことをウザいなんて思ったこと、一度だってないよ」
「って言うのも、円滑な社会生活のため?」
 あげ足を取ってみたら、背中を叩かれた。
「やあね。っていうか、例えば同じこと言われてもウザいと思う相手と思わない相手がいるのよ。工藤くんは無条件に後者」
「なんで?」
「そりゃあ、愛の差よ。好きな人を見るときには、フィルターが掛ってるから、全く同じことが『ウザい』じゃなくて『かわいい』とか『けなげ』とかに映ったりして」
「フィルター」
「欲目ともいう」
 前原さんは綺麗に紅のひかれた口を大きく開けて笑った。
「私は翔子フィルターを通して世の中を見ているの。工藤くんも工藤くんのフィルターを通して見てるんでしょ。葵フィルターじゃ、今は秋山くんが三割増しに見えてるわね」
「そんな」 
 それなら、秋山くんも『秋山くんのフィルター』を通して僕を見ているんだろうか。その基準が愛情だというのなら、愛情が冷めた時にそこに映る僕は、どんな姿をしているのだろう。
 

 もやもやとした気分はいつまでも晴れなかったけれど、僕も「円滑な社会生活のため」に努力することにした。暗い顔をして人に心配をかけないこと。

 秋山くんと電話で話をするときも、できるだけ明るい話題を選ぶことにした。
「秋山くんが言ったからじゃないけど、また絵を描こうかなって思ってる」
「いいじゃん。サークルじゃなくても、好きな時間(とき)に好きな絵を描けば?」
「うん、そうだね」
 ちょっとした思いつきで、
「秋山くん、モデルになってくれる?」
 そう言ってみたら、受話器の向こうで絶句されてしまった。
「……や、俺じゃなくてさ、もっと違うもの描けよ。そう、猫とか犬とか」
「猫? なんで?」
 吹き出して笑ったけれど、胸がチクリとした。
(モデル、嫌なんだ……)
 少し前なら「照れくさいんだ」と素直に思えた。今は「僕と一緒の時間がわずらわしいんじゃないか」――なんて卑屈に考える自分がいる。
 また自己嫌悪。
 
「あさって、土曜日、うち来るだろ?」
「うん」
 秋山くんから言ってもらえて、ホッとした。けれども、
「ひょっとしたら、前の日、遅くなるかもしれないから、昼前くらいでいいか?」
「うん」
 胸がざわついた。
「明日、夜、来ないよな」
「うん」
 念を押されている。
 今まで、土曜日が待ちきれなくて金曜の夜から秋山くんのアパートに行ったことが二回ある。
 今回は「来るな」ってこと?
「昼飯用意しておくから、十一時くらいに来いよ」
「うん」
「何かリクエストある?」
「え、別に、何でもいいよ」
「じゃあ、ラーメンにするぞ。もやしラーメン」
「あ、うん、楽しみ」
「バカ。何言ってんだよ。もっといいもの食わせてやる。じゃあな」



 明日の夜、何があるんだろう。

 電話が切れた後も落ち着かなくて、僕は、受話器を握り締めたまま、意味も無くリビングと台所を行き来した。その行為に気がついて、気持ち悪くなった。何をしてるんだ。精神的におかしくなっているんじゃないか。
「そのうちストーカーとかなっちゃったりして」
 笑おうとして、笑えなかった。




 そして、次の日。
 僕は、やっぱり、ストーカーになっていた。
 自分で自分が信じられない。
 けれども、電話の後からずっと続いている胸騒ぎは、自分の目で確かめるまで収まらない。
 嫌な予感がする。
 そして、そういう予感に限って当たるのだ。



 秋山くんは、金曜日もコンビニのバイトを入れている。反対側の道路から、見つからないよう気をつけて覗いたら、秋山くんもあの背の高い彼女もカウンターの中にいた。二人が並んだ姿は伸くんの言ってた通りお似合いで、見ていると酷く胸が疼いた。
(どうしよう)
 いくら何でも、ここで待っているわけには行かない。
 僕は、秋山くんのアパートの前の児童公園で待つことにした。小さな公園だからベンチに座っていても向かいの通りが見える。秋山くんはいつもその道を使っているから、帰って来たら、わかるはずだ。
 バイトが終わった後、まっすぐ帰って来るとは限らない。そのまま出かけてしまうかもしれない。それでも、たとえ夜中になっても、秋山くんを待ちたかった。僕の中の胸騒ぎが、そうしろって言っていた。
 幸い、住宅街の児童公園には酔客も変質者もいなくて、季節柄、寒さに震えることもなかった。
 僕は、ぼんやりと通りを眺めた。あたりが暗くなると街灯が燈った。
 家路を急ぐ子ども。疲れた様子のサラリーマン。大きな買い物袋を下げた女性。自転車に二人乗りした高校生。おじいさんと犬の散歩。――八時半を過ぎると、めっきり人通りが減った。

 ガサゴソと草木の揺れる音がしたと思ったら、近所で飼われているらしい猫が、僕の足元に寄ってきた。
「ごめん、何も持ってないよ」
 両手を開いてみせると、ミャアと鳴いた。しばらく、じっと僕を見ている。試しに抱き寄せようとしたら、あっという間に逃げられた。
 再び静かになった公園で、思わず独り言。
「いったい何してるんだろう」
 前原さんや高橋くんが知ったら、何て言うかな。
「さすがに翔子フィルターを通しても、これはウザいよね」
 いや、ウザいなんてもんじゃない。と、自分で自分を非難する言葉をかき集めようとしたとき、
「もしもし」
 いきなり声を掛けられた。振り返ると、制服姿の――
(お巡りさん?!)
 焦って立ち上がると、その警察官は、懐中電灯で一瞬僕の顔を照らした。
「一人? 何をしているの?」
「職務質問ですか?」
 聞き返すと、笑われた。
「いや、こんな時間にこんな暗い所にいるから、心配しただけだよ」
「すみません」
「誰かを待ってるの? 友達と待ち合わせ?」
「えっ……いいえ」
 首を振ると、
「じゃあ、何だ。受験ノイローゼかな」
 かなり見当外れのことを言われた。
 でも、ノイローゼだと思われるほど酷い顔をしていたのかもしれない。
「お母さんが心配しているから早く帰りなさい」
「はあ」
 優しそうな年配の警察官は、僕のことを子どもだと思ったらしい。「大学生です」と言おうか迷ったけれど、言えばもっと恥ずかしいような気がして、黙って頭を下げて、帰るふりをした。
(後でまた戻ってこよう)
 その時、オレンジ色の街灯の下を長身の影が横切った。
(あ、秋山くん)


 秋山くんは、手にコンビニの袋を下げていた。
 そして、すぐ後ろに――彼女。コンビニの制服を華やかな私服に着替えたあの人が、弾むような足取りで、秋山くんを追いかけている。何か言って、秋山くんが振り返る。

 話は聞こえないけれど、二人が笑っているのはここからでも見えた。
 二人で、秋山くんのアパートに向かっている。

(やっぱり……)

 嫌な予感に限って当たる。








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