「大丈夫か?」
「あ、うん」
 秋山くんに心配をかけたくないから、そう答えた。
「女の子じゃないし、もう大学生だしね」
 無断外泊なんて大したことじゃないと笑って見せると、秋山くんもホッとしたように言った。
「まあな。うちなんか男兄弟いるし、高校の時からフツーだったけど、工藤の家は厳しそうだからな」
「別に厳しくは無いよ」
 ちょっと過保護なだけで。
「怒られたら言えよ。一緒に謝ってやるから」
「ありがとう」
 とは言うものの、本当に一緒に謝ってもらうわけにもいかず、僕は少し重い気持ちで帰宅した。
 重い気持ちの理由はもう一つあった。
 秋山くんのアパートを出るときに、一枚の紙を手渡された。
「何、これ?」
「俺のバイトのシフト表」
「こんなに入ってるの?」
 平日の夕方から夜にかけてびっしり埋まっていた。
「最初のうちはね。慣れて来たら少し調整してもらうけど、土日に入れないようにしたから、どうしても平日にしわ寄せがくるんだよ」
「そう」
 土日を空けたのは僕と会う時間を作るためだと言われたら、もう何も言えなかった。土日だけじゃなくて、平日だって一緒に過ごしたい。そう思うのは、僕のわがままだ。
「じゃあ、次に会えるの今度の土曜日だね」
 そう言うと、秋山くんは眉を寄せて、そして、困った顔のまま笑った。
「そう、だな」
「じゃあ、土曜の朝電話するね」
「ああ」
 別れ際、秋山くんの指が僕の頬をすっと撫でた。
 僕は別れがたくて、何か言って引き止めて欲しかったけれど、それがすごく女々しい気がして、
「じゃあ、また」
 手を振ると、意味も無く元気よく、アパートの外階段を駆け下りた。





「……ただいま」
 いなければいいのにと思ったけれど、平日の午前中主婦にそれを期待するのは無理な話で、お母さんはしっかりと家で待っていた。
「昨日はどこに泊ったの」
 予想通りの言葉に、用意していた言葉を返す。
「友達の家。みんなで集まって、ちょっとお酒飲んだらそのまま寝ちゃって」
「友達って?」
「あ、秋山くん」
 正直に言って、少し後悔した。でも、他の人の名前を出すわけにもいかないし。
「秋山くんって、あのK大に行った?」
「う、うん」
「じゃあ高校のときのお友達と集まってたの」
「そうだよ」
「高橋くんとか?」
「うん」
 ごめん。高橋くん。
(でも、秋山くんと二人っきりって言うのは、ちょっと……)
「じゃあ、前原さんもいたの?」
「うん。えっ、あ、違う」
 前原さんが女の子だということを思い出して、慌てて訂正する。
「いたけど、帰ったよ。泊ってない」
「何慌ててるのよ」
 お母さんは人の悪そうな笑みを浮かべて、僕の顔を覗き込んだ。
「何?」
「お母さん、あの子、好きよ。美人なのに頭も良くて、その上、性格もいいみたい」
「……そうだけど」
 何を言い出すんだ?
「前原さんが彼女だっていうんなら、外泊くらい許してあげるのに」
「なっ、何、言ってるんだよ」
 突然変なことを言われて、顔に血が上った。
「でも、やっぱり無断外泊はダメよ。心配するからね」
 チッチッと人差し指を振りながらお母さんは台所の方に消えた。どうやら、これ以上のお咎めは無いらしい。
「心配なんてしなくていいのに」
 姿が消えたのをいいことに、ポソッと口にしたら、
「何よ?」
 地獄耳で聞きつけて、再び台所から顔を出した。
「……僕、もう大学生だよ」
「それが? まだ、未成年じゃない」
「そうだけど。他の子は、普通に外泊とかしてるよ」
「事前にちゃんと言っておけばいいのよ」
「無断外泊だってありだよ。秋山くんだって」
「秋山くん?」
「あ……」
「秋山くんが何よ?」
「……お兄さんがいて、高校の時から、そんなのフツーだって……」
 思わず名前を出してしまって、また後悔した。本当に僕はバカだ。
「秋山くん家(ち)がどうかは知らないけどね。工藤家には工藤家のルールがあるのよ」
 お母さんは腰に手を当ててピシリと言った。
「我が家では、私がルールブックよ」
「…………」
「返事は?」
「はい」
「よろしい。それでは、ご飯食べて大学行きなさい」
「もう食べてる時間無いから、着替えてすぐに行くよ」
「ダメよ。朝はちゃんと食べないと」
「食べたよ」
 嘘だけど。
「嘘言いなさい。今、食べてる時間無いって言ったじゃないの」
 時間があれば食べるんでしょうと詰め寄られる。
「おにぎりにしてあげるから、着替えながら食べたら」
「そんなの無理」
 部屋に逃げ込んで、鍵を下ろす。
 追いかけて入ってくるということは無いけれど、万が一にも、着替えているところは見られたくない。胸にも背中にも、秋山くんの跡が残っているから。
(まあ、よく見ないとわからないとは思うけど……)
 ふと部屋の鍵を見て、これをつけてくれたお父さんの配慮に感謝した。何でもこの家を建てるとき、お母さんは子どもの部屋に鍵なんて要らないと主張したらしい。けれどもお父さんが、珍しくお母さんに反対して付けてくれたそうだ。
「葵も年頃になったとき、部屋に鍵を付けろと言うかもしれないだろう。その時になって言われてショックを受けるより、小さいときから、鍵の使い方を教えてやることが大切だよ。親が開けてくれと言ったらちゃんと開けられる子に育てればいい」
 お父さんはそう言ったそうで、その通り僕は、小学生のときに部屋の鍵のかけ方というのを習った。お父さんは、鍵の仕組みから丁寧に教えてくれたけれど、お母さんは――
「お母さんがかけなさいって言った時にかけて、開けなさいって言った時は開けるのよ」
 昔から『私がルールブック』の人だった。
(僕の性格は、間違いなくお父さん似だ)





 大学に行こうと玄関を出ると、
「あ、そうそう、葵」
 お母さんが追いかけてきて、僕はおにぎりを持たされるのかと焦ったけれど、そうではなかった。
「伸生くんから昨日電話があってね」
「えっ?」
「今度の週末、家に遊びに来てもいいかって」
「週末……」
 秋山くんと会う。
「私の作ったご飯食べたいとか、かわいいこと言うから、泊りにおいでって言っちゃった」
(嘘っ)
「あら、何? 葵、何か都合悪かった?」
「あ、ううん」
 首を振ってはみたけれど、やっぱり、
「土曜は、友達と会う約束をしていたから」
 できれば他の日に出来ないかと言ってみると、
「まあ、それなら次の週にずらしてもらうけど。伸生くんの方が良ければね」  
(次の週……) 
「その、土日は、いろいろ予定が入るから……平日とか……無理かな」
「何言ってるの。平日じゃ大学どうするの。お父さんだって仕事でしょう」
「うん……」
「葵、土日がそんなに忙しいの? ひょっとして内緒でバイトとかはじめたんじゃないでしょうね」
「そんなことしてないよ」
「どんなバイトか、決める前にお母さんに一言相談するのよ」
「だから、してないって」
「じゃあ、土日どうしてダメなの」
「ダメってわけじゃないよ。平日は大学があるから、土日に遊ぶ予定が入ることが多いってだけで」
「じゃあ、これもその予定の一つじゃない。あなた、子どものころはよく伸生くんに遊んでもらっていたのよ。忘れちゃった?」
「憶えてるよ」
「仲良かったのよ。伸生くんはあなたのこと女の子だと思っていたみたいだけどね」
 お母さんは何か思い出したように笑った。
「それじゃあ、どうする? 今週じゃなくて、来週にする?」
 改めて聞かれて、考えた。
 どうあっても土日だというなら、いつでも一緒だ。
「今週末でいいよ。でも、土曜の昼は、僕、用事あるから、お母さんが相手しててね」
「いいわよ。買い物とか一緒に行っちゃおうかな」
「うん。そうして」
 腕時計を見て、
「あ、マズい」
 玄関を飛び出す。これじゃ、遅刻だ。
「いってらっしゃい。車に気をつけてね」
 お母さんの呼びかけには、わざと返事をしなかった。





 そして秋山くんに会えないウィークデイは、高橋くんや前原さんたちと会ってそれなりに過ぎ、明日はいよいよ待ち遠しい土曜日。
 夜、夕飯を食べ終わって、なんとなくそのままテレビを見ていたら、
「葵、伸生くんなんだけど、ちょっといい?」
 受話器を持ったお母さんに呼ばれた。
「伸生くん?」
「なんかね、明日、伸生くんもどこかに寄ってから来るからこっちに着くの夕方になりそうなんだって。それで、家までの道がわからないから、できれば葵に駅で拾って欲しいって」
「拾って、って」
 受話器を押し付けられて、戸惑いながらでると、
「あはは、ゴメン、その通りなんだけど」
 先日と変らず屈託の無い明るい声が聞こえてきた。
「駅前にスタバあるんだって? そこで待ってるからさ」
「待ってるって言われても……僕も、何時になるかわからないよ?」
「そんなに遅い? 六時には帰るって叔母さんから聞いたんだけど」
「あ、うん」
 お母さんに聞かれたときに、適当にそう答えていた。
「俺は五時くらいにはそこの駅に着くから、本でも読んで待ってるよ。どうせあーちゃんもメシは家で食べるんだろ」
「うん……」
「だよな。あーちゃんがいないのに、俺がご馳走になるってのも変じゃんね」
「変じゃないよ」
「変だよ」
 変なこと言うなよと、伸くんは笑った。
 お母さんをチラリと見ると、
「その時間だと、お母さんももうご飯のしたくしないといけないから、迎えに行ってあげられないのよ。もっと早く来てくれれば一緒にお買い物できたのにねえ」
 心から残念そうに言う。
「なんだ? 迎えって、俺が行こうか」
 テレビを見ていたお父さんが振り返った。金曜の夜にしては珍しく早帰りで、晩酌のビールで赤くなっている。
「あら、あなたが?」
「あ、いいよ。お父さん」
 お父さんにわざわざ行ってもらうのは悪い。僕が行けばいいことだ。
「僕が行くよ。帰り道だし」
「葵は、用事があるんだろ?」
「お昼にね。夕方はちょうど駅から帰るから」
 お父さんとの会話は、そのまま受話器の向こうにも伝わって、
「悪いな、あーちゃん。次からは、俺、道おぼえて、ちゃっちゃと自分で行くからさ」
(次から……?)
「じゃあ、スタバのかげで待ってるから」
(次から、って?)
「あれ? 今のシャレわかってもらえなかった?」
 伸くんの言うシャレにも気がつかなかったのは、別の言葉に気を取られていたせいだ。
 次?

 なんだか嫌な予感。








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