もったいない――その言葉は、意外にしつこく、僕の中から消えなかった。ちょうど指に刺さって抜けなくなってしまった小さな棘みたいに、普段は気にしないようにしているのだけれどちょっとした拍子にチクリと刺す。秋山くんが、カッコ良かったり、男らしかったり、優しかったりするたびに――のろけてしまえば、それは度々あることなのだけれど―― (僕なんかには、もったいない) そう思ってしまう自分がいる。 「秋山くん、今度の連休はどうするの?」 桜も終わりという日曜の午後、うちの近くの公園で珍しく残っていた花を並んで見ながら、僕が尋ねたのには理由があった。 「ああ、そのことなんだけど。実はゴールデンウィーク、バイト入れようかと思ってんだ」 柵にもたれて桜を見上げたまま、秋山くんが答えた。 「バイト?」 聞き返したら、振り向いた。 「前も言ったけど、俺、仕送りもらってんだけどさ、家賃と光熱費ギリギリなんだよ。だから、自分で使う分はバイトしないと無いんだ」 「そうなんだ」 「四月は今までの貯金があったし、五月もまだ何とかなりそうだけど。でも、この先キツくなりそうだから、この連休にまとめて稼いでおこうかと思って」 秋山くんは、僕の顔を覗き込んで 「ごめんな」 申し訳なさそうに笑った。 「えっ、なんで?」 「せっかくの連休だから、金があったらどっか行ったりもできるんだろうけど」 「そんなこと……ちがうんだ。僕も、実はね」 秋山くんに気を使わせてしまったみたいで、僕は慌てて言った。 「実は、母方のおじいちゃんの十三回忌で、田舎に行くかもしれないんだ」 「田舎? 工藤って東京じゃなかったっけ?」 「うん。生まれたのもお父さんの実家も東京。でもお母さんの実家が」 「あ、九州だっけ? そういや聞いたことがあったような」 「言ったことあった?」 覚えが無い。でも、前原さんたちと一緒にいたとき、話したかもしれない。 「ずっと前、宮崎とか鹿児島とか、何か言ってなかったか」 「宮崎だよ。もう何年も行ってないけど。それこそ、おじいちゃんの七回忌で行ったのが最後」 「それで、今年のゴールデンウィークは宮崎か?」 「うん」 本当はどうしようか迷っていた。 両親からは「一緒に行こう」って言われていたけれど、もし秋山くんと一緒にゴールデンウィークを過ごせるなら、そっちのほうが良かったから。今朝も聞かれて、グズクズとはっきりしないことを言ってごまかしてしまった。 (でも、秋山くんがバイトなら……) 「お土産買ってくるね」 「宮崎って、何があるんだ?」 「さあ」 僕が首をひねると、 「何だよ、知らないのか」 秋山くんは呆れた声で笑った。 「だって、さっきも言ったけど、六年前に行ったのが最後で、それまでも小学校低学年の時の夏休みとお正月に三、四回行っただけなんだよ」 「サボテンとか椰子の木とかありそうだよな」 椰子の木は無いと思うけど。大体、そんなのお土産になるのかな。 「あっ、そうだ。たしかソテツの実でつくった猿の顔のキーホルダーとか有名だったかも」 「いや、いらないから」 「意外に、今つけてたら、斬新かもよ?」 「絶対、そんなことない。買ってくるなよ。あと、横にすると目が飛び出すダルマのキーホルダーとか、絶対買うな」 秋山くんがあんまり真剣に嫌がるので、僕は、もし土産物屋でそれを見つけたら (買ってしまう) と、思った。 その日の夜、僕が宮崎に一緒に行くことにしたと言うと、お母さんはとっても喜んだ。 「葵と一緒に旅行なんて久しぶりねえ」 「旅行じゃないだろ。法事だし」 お父さんが夕刊を読みながら言う。 「まあ、俺も母さんと二人だけより気が楽だけどな」 「あら、何、それ。どういう意味?」 「別に意味は無いよ」 お父さんは僕をチラリと見て肩をすくめた。実は、お父さんからは「お母さんの親戚の中に一人で行くのは嫌だから一緒に行こう」と誘われていた。 「車も洗っておかないといけないなあ」 「車で行くの?」 お父さんを見ると、 「ああ、向こうについてから車がないと全然動けないからな」 ド田舎だから……と一言付け加えて、お母さんにポカリと叩かれている。 「この前はレンタカー借りたけど、あれも色々不便だったのよ。だからフェリーで行くことにしたの」 「行きも帰りも?」 「そりゃ、行きがそうなら帰りもそうなるだろ」 「葵、酔い止め飲んでおかないとね」 「大丈夫だよ」 相変わらずの子ども扱いにちょっとムッとしたら、お父さんがそれに気がついて笑った。 「葵も大学生になったんだよな。ばあちゃんたちも驚くだろ」 「そうそう、でも葵の従兄の耕治くんにはもう子どもが生まれているのよ、この間」 「耕治くんって、たしか葵と三つか四つしか違わなくなかったか」 「そうよ。今年二十二。高校卒業してすぐ家を継いで、去年結婚してるの。奥さん、年上でね」 「へえ」 「うちの田舎は、男も女も結婚が早いのよねえ」 「それじゃあ、お前は、ずいぶんな行き遅れだと噂されてただろうなあ」 「失礼ね、誰のせいだと思ってるの」 「俺じゃあ、ないぞ」 両親の会話を聞き流しながら、僕は部屋に戻った。 (従兄の、耕治くん?) ぼんやりと年上の従兄の輪郭を思い浮かべたけれど、よく思い出せない。それより別の子の顔が浮かんだ。もう一人従兄がいたような気がする。日に焼けて色の黒い、よく笑う小さな男の子。 (誰だっけ?) 名前も思い出せない。 (まあ、いいか) あとでお母さんに聞けばいい。 僕は、ベッドに寝転んで、目を閉じた。 すぐに秋山くんのことばかり浮かんでくる。 「バイトって何するの?」 「とりあえず連休は集中して短期で金になる仕事を探そうかと思ってたんだけどさ。今朝見たらうちの近所のコンビニでバイト募集してたんだよ。そっちならずっと続けられるだろうし、その方がいいかなと思って、一応、面接の電話いれたんだ」 「コンビニ?」 「ああ、工藤も一緒に行ったことあるだろ? うちと駅の中間にある」 「あの大きいマンションの一階?」 「そう、あそこ」 「へえ」 まさにいつも秋山くんのアパートに行く途中でお惣菜を買ったコンビニだ。愛想のいい店員さんの、白と緑のさわやかな制服をすぐに思い出せた。 「あの制服着るんだ」 「面接受かったらね」 「それは受かるだろうけど。……へえ」 「何だよ」 秋山くんは唇を尖らせた。 「見に行ってもいい?」 「はい?」 「あの制服着た秋山くん、見たい」 「アホか。コスプレじゃないぞ」 「きっと似合うよ」 「あんなのは似合うとか似合わないとか言う服じゃねえだろ」 「ふふ……」 「ったく、何考えてんだよ」 秋山くんは、僕の髪をクシャと撫でて、 「バイト代入ったら、おごってやる」 内緒話をするみたいに顔を寄せて、こめかみに小さくキスしてくれた。 * * * 襖を取り払って二間をつなげた和室に、たくさんの座布団が敷かれている。その中を五歳くらいの男の子がはしゃいで走り回って、母親らしい人に叱られている。あの親子も僕の親戚になるのだろうか。二十畳以上あるのに狭く感じるほど、大勢の人が集まっている。親戚といっても僕にとっては知らない人たちばかりで、気後れしてしまう。隣に座る父親を見ると、同じ気持ちなのか苦笑いしていた。 「博子さん、久しぶりじゃねぇ」 背中から、また声がかかった。さっきから声をかけられるのはお母さんばっかりだ。 「あらあ、美智子叔母さん」 お母さんは、座布団の上で器用に身体ごとクルンと振り向くと、後ろの小柄なお婆さんに頭を下げた。 「ご無沙汰しています」 「こん(の)子は葵ちゃんね、まあ大きくなったこつ(と)」 名前を呼ばれて、僕も慌てて頭を下げた。 「こんにちは」 「お母さんによう似て、別嬪さんじゃこつ」 その言葉をお母さんは否定もせずに、ホホホと笑った。 「もう大学生になったんですよ」 「そうじゃったねえ、なんもお祝いせんと(しなくて)」 「あら、そんな、いいんですよ」 「遠くからわざわざ来てん、なんもないから退屈ちゃろ。あとで町に出て好きなもん買うて来ない」 お婆さんがいきなり僕の手に、一万円札を握らせた。 「えっ、いえ」 困ります。とその手に押し返すと、 「いっちゃが、いっちゃが(いいから いいから)」 お婆さんは立ち上がって別の人のところにヒョコヒョコと歩いていった。 「お、お母さん……」 どうしていいかわからずに、右手を差し出すと 「いただいておきなさい」 お母さんはケロリと言った。 「博子、あんたはまた相変わらずじゃね」 「ああ、益代姉ちゃん」 「なん、お客さんみたいに座っちょると。自分の父親の法事に」 「だって、もうお客さんみたいなもんじゃろ。勝手知らん家じゃけん。余計なことはせんほうがよかとよ」 お母さんは、実の姉を前にしていきなり強烈な方言になった。 「お義姉さん、お久しぶりです」 お父さんが挨拶すると、益代伯母さんは正座して、 「まあ、進さん、先日はうちの友音の誕生祝いに結構なものいただきまして」 深々と頭を下げた。 「あ、いえ」 「姉ちゃん、あれ贈ったのは私よ」 「なん言うちょっと。進さんのお給料で買うたっちゃろが」 言われて、お母さんはペロリと舌を出した。 「葵ちゃんの入学祝いもせんとごめんね」 伯母さんに振り向かれて、 「いっ、いいえ」 また何か握らされたらかなわないと、思わず両手を後ろに引いた。 「あら、だって姉ちゃんとこの伸生くんも、今年大学やろ?」 (伸生くん……?) 「そうよ、宮大行くちゅうとったのに、わざと落ちて東京の大学行きよるとよ」 「東京? 知らんかった。言ってくれたら受験のとき泊めたとに」 「それもちょっと考えたけど、あんたんとこにも受験生がおるから遠慮したとよ」 「そんなん気にせんでん良かったっちゃが。うちのはエスカレーター式やから、受験生なんてもんじゃ……」 お母さんと伯母さんの会話は続いていたけれど、僕は「伸生くん」という名に、突然、昔のことを思い出していた。 (あの、色の黒い小さな男の子は――) 「あーちゃん?」 いきなり呼びかけられて、 「のぶくん?」 ほとんど条件反射で答えていた。 浅黒い顔はそのままで、けれども身体は昔の記憶からは想像できないほど大きくなって、あの男の子が立っていた。 「あらあ、伸生くん、大きくなったわねえ」 「あ、どうも」 「どうもって挨拶があるかね。あんた、東京の博子叔母さんにはこれから何かあったらお世話になるかもしれんちゃけん、ちゃんと正座して挨拶せんね」 ピシッと伯母さんの平手がすねを叩いた。 「イテッ、今座って、しようと思ったとこだよ」 伸くん――僕の従兄弟で幼馴染の伸生くん――は、大きな身体で窮屈そうに正座して、 「ご不沙汰しています、叔母さん。椎葉伸生です。今年の四月から東京のA大に通っています。慣れない東京で一人暮らししていますので、何かあったときにはご迷惑おかけするかもしれませんが、よろしくお願いします」 すらすらと言って、僕を驚かせた。 (伸くんって、こんな子だった?) そんな風に言えるほど、伸くんのことを覚えていたわけじゃない。現に、今日再会するまで名前も忘れていた。けれども「のぶくん」という響きとともに思い出すのは、やんちゃで、無鉄砲で、いつも落ち着かなく走り回って怪我をしていた、そんな男の子だったから―― 「まあ、伸生くん、何だか立派になっちゃって」 お母さんのふざけたような言葉にも、思わずうなずいてしまった。 伸くんは、そんな僕のほうを見て、 「あーちゃんは、全然変わってないね」 そこは昔のままの、人懐っこい顔で笑った。 |
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