《はっぴーでぃず》 「しまった」 巳琴は、ポケットに手を突っ込んで呟いた。 美樹原に返すつもりの携帯電話を、机の中に入れたままにしてきてしまった。 (どうして、一番肝心な所でこういうことやっちゃうんだろう) 自分に呆れて、自己嫌悪。 取りに帰っていたら間に合わない。 (また後から返すとして、今日はとにかく、はっきりといわなくちゃ) 「やっぱり、僕は、兄さんが好きなので、美樹原さんとはお付き合いできません」 ごめんなさい―――と、昨日から何度も頭の中でシミュレートした。 本番で、ちゃんと言えるかどうか心配だけれど、言わないといけない。巳琴は、固い決意で、約束の喫茶店へと向かった。 待ち合わせの時間に十五分ほど遅れて、美樹原はやって来た。 喫茶店のドアを開けるのももどかしそうに足早に近づいてくる様子に、かなり慌ててやってきたのが分かった。 「ごめん、この前に急用ができて。携帯に入れたんだけど」 「いえ、あっ、すみません、僕また、携帯忘れて」 「ああ、そうだったんだ。じゃあ、本当に待たせたね。ごめん」 「いいえっ」 美樹原にこんなに低姿勢に出られると、これから言おうとすることが言い辛くなる。巳琴は、首をブンブン振って、 「全然、待っていませんから」 引きつった笑顔を見せた。 「そう?」 美樹原は、オーダーを取りにきたウェイトレスに、にこやかにコーヒーを頼んで、巳琴に向き直った。 巳琴は、そのウェイトレスが頬を染めたのを見て思った。 (本当に、美樹原さんなら、他にいくらでもいい人がいるのに……) 何で、僕なんかがよかったんだろう? しかも、それを断ろうなんて、僕も大概身のほど知らずかも。 「どうしたの?」 「え?」 話し掛けられてビクッと視線を戻すと、 「電話じゃ出来ない話って?」 美樹原が微笑んだ。 「そう……」 美樹原は、頷いた。 「まあ、そう言う話じゃないかって、気はしていたんだ」 「ごめんなさい」 「別に、謝らなくていいよ」 「……………………」 うつむいて唇を噛む巳琴を見て、美樹原は優しく話し掛ける。 「やっぱり、十五年間ずっと一緒って言うのには、かなわないのかな」 巳琴は、黙っている。 「タカトラのどこがいいの? 女好きだし、ちゃらんぽらんだし、せっかく頭も顔もいいのに、下品だし。大体、こんな可愛い弟の気持ちにも気がつかない鈍感の、神経が鳳神社の注連縄(しめなわ)くらい太い男だよ」 「兄さんの、悪口、言わないで下さい」 呟いて顔を上げると、美樹原はひどく切ない顔をしていて、巳琴はハッとした。 「悪口じゃないよ。僕に無い、羨ましいところさ」 「美樹原さん」 「ねえ、ミコトくん。やっぱり、ダメかな」 「えっ?」 「諦めきれない……僕にしては、珍しいんだよ。こういう気持ち」 腕を伸ばして、巳琴の手を取った。 「タカトラとの十五年に負けない時間を、ミコトくんと一緒に過ごしたい。」 「そっ」 「ミコトくんが三十になるまでずっと一緒にいたら、少しは追いつけるかな」 「それは……」 巳琴が、言葉を詰まらせたその時 「無駄だな」 美樹原の後方から声がした。 「兄さん」 貴虎が、立っていた。 「タカトラ……」 貴虎は巳琴の席に回りこむと、巳琴の肩を抱いて言った。 「そんときゃ、俺たちの間には、三十年の歴史が刻まれてんだよ」 「兄さん?」 巳琴はぽかんと貴虎を見上げ、美樹原は溜息をついて微笑んだ。 * * * 何が何だか、よく分からない。 何故、貴虎がここにいるのか。 どうして自分が、その兄に肩を抱かれているのか。 美樹原が立ち上がって、伝票を貴虎に押し付けた。 「ごちそうさま」 「世話になったな」 「安心しないでよ。じゃあ、ミコトくん、またね」 返事もできず、呆然と美樹原を見送っていたら、貴虎に背中を叩かれた。 「ほら、俺たちも帰るぞ」 ドキドキドキドキドキドキ…… 巳琴の心臓が高鳴る。 なんだろう。 この展開。 何で、兄さんが? 訊ねてみようと思っても、貴虎の雰囲気に何も言い出せない。 貴虎は、どこか怖い顔をして黙々と家路を急いでいる。 家に帰るまで緊張しっぱなしだった巳琴は、家の玄関を入るなり貴虎に抱きしめられて、気を失いそうになった。 (なんで―――?) へなへなと足が崩れる。関節のパーツのはずれた人形のようにクタリと玄関に座り込んだ巳琴を、貴虎はもう一度抱き上げた。 「しっかりしろよ」 「なん、で?」 何で、兄さんはあの店に来たの? 何で、僕を抱きしめるの? 赤い顔でじっと見上げる巳琴に、貴虎は男らしい笑みを見せて言った。 「日記、読んだ」 ああ、そう。日記…… 「ええええええええっっ!!!!」 巳琴の叫びに、貴虎は顔を顰めた。 「静かにしろよ。近所迷惑だろ」 「なっ、にっ、にっ」 「ぬねの?」 「日記、読んだって、ひどいよっ!!!」 巳琴は、顔を真っ赤にして、涙ぐんでいる。 「いや、読もうと思ったわけじゃなくて」 「だって、読んだんでしょ? 日記なのに」 「たまたま開いたら、お前の日記だったんだ」 「たまたまって、たまたま……って……」 巳琴はぶるぶる震えた。 「信じられないっ、ひどいっ」 ばたばたと自分の部屋に駆け込む。 貴虎は、すぐに追いついてしゃあしゃあと言った。 「大袈裟なヤツだな、日記くらいで」 「くらい、って、じゃあ、兄さんは自分の日記、人に見られてもいいのっ?」 「いや、俺、そんなもん書いてねえし」 「もうっ」 巳琴は、枕を抱きしめて顔を埋めた。 『鈍感の、神経が鳳神社の注連縄(しめなわ)くらい太い男だよ』 美樹原の言葉が甦った。 枕に顔を埋めたまま、くぐもった声で呟く。 「美樹原さんの言うとおりだ」 「何?」 美樹原という名に、貴虎がピクと反応する。 「美樹原がどうしたよ?」 「美樹原さんなら、絶対、ひとの日記、読んだりしない」 顔を隠したまま言う。 「ふうん」 「美樹原さんは、紳士だし……」 巳琴の言葉に、貴虎が冷たく言った。 「あっそ。そんなに、美樹原がいいんなら、あいつのとこ行けよ」 「えっ?」 焦って顔を上げると 「なーんてな」 待ち構えていた貴虎が、掠め取るようなキスをした。 「あ……」 「本気に、すんなよ」 「……兄、さん……」 「男が、細かいこと言うなよ」 ぐっと引き寄せて胸の枕ごと抱きしめると、その耳元で囁いた。 「それ読んだから、俺は、間に合ったんだぜ?」 「兄さん」 巳琴は、胸が詰まって、また涙が出てきた。 しゃくりあげる巳琴に、貴虎が言う。 「男がメソメソ泣くな」 そして、小さく言葉を続ける。 「泣くなら、俺の腕の中だけにしとけよ」 Fin |
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