「やだ、やだ、やだっ……やめてってば」
 巳琴は、手の甲で自分の口をガードすると、貴虎の唇を掌で受けた。
「って、なんだよ。ミコト」
 貴虎がむっとして身体を起こすと、巳琴はそのすきに壁際まで後ずさって、膝を抱えて丸くなった。
「だって、急に、そんなこと…」
「急じゃねえだろ?」
「急だったよ」
「あのなあ、そしたら何か? 俺はお前に『これから押し倒してもいいですか?』って、確認してからしか、ソーユーコトやっちゃダメなわけ?」
「そーゆーこと……って」
 巳琴は真っ赤な顔で、声を震わせる。
「好きなら、やらせてくれて当然だろ、セッ」
「わ―――っ」
 巳琴は耳をふさいで、自分の膝の間に顔を埋める。
 巳琴の大声に、貴虎は呆れたように溜息をついた。


 夏休みになると同時に巳琴の弁当作りから解放された母親が、父親にねだって、両親が三泊四日の温泉旅行に行くことになった。実はその裏に、貴虎の巧妙な働きかけがあったことは、巳琴は知る由も無い。貴虎にしてみれば、実の弟とラブホテルに入って行く危険を冒したり、高い金を出してシティホテルを使ったりするよりは、慣れ親しんだ自宅で初エッチをしてやろうという魂胆だったのだが、どうもその慣れ親しんだ空間が良くないのか、初日一日、巳琴は頑なに貴虎を拒否した。


「おまえさ、本当に俺のこと好きなの?」
 貴虎の言葉に、巳琴は涙目で頷く。
 その顔を見ると、貴虎もグッと胸に迫るものがあるのだが、両親がいないのも、あと二日。ここで甘やかしては後々ためにならない。なんのためにならないかは謎だが、とにかく貴虎は容赦なく、詰め寄った。
「だったら、いいじゃねえか」
 巳琴の顔が、ますます真っ赤になる。
「美樹原には、やらせてたろ」
「うっ」
 確かに、美樹原とはキスした。でも、それだけだ。
 貴虎とも、一度だけキスした。その時、貴虎は、まっすぐ次の行為に突き進むもうとした。巳琴は焦って貴虎を突き飛ばし、それ以来、キスしようとしても許さなかった。
「だって……美樹原さんは……」
「なんだよ。美樹原なら、どうだってんだよ」
 紳士的だし、優しいし、無理強いしないと言いたいのだが、どれを言っても貴虎が怒るのは目に見えている。口ごもりながらようやく一言。
「……兄さんじゃないし」
「ったりめえだろ! お前の兄ちゃんは、俺だけだろ」
「そうなんだけど……」
 巳琴は泣きそうになる。
「その兄ちゃんが、好きなんだろ? ん?」
 じりじりとにじり寄って、巳琴に顔を近づけて、貴虎は自慢の顔で思いっきり魅力的な微笑を見せる。女で落ちなかったやつはまずい無い『ナンパ最終奥義タカトラスペシャル』と一部で賞賛された代物だ。
 巳琴もクラクラしながら、それでも頑なに膝を抱えなおし、その顔を見ないようにして言う。
「まだ、兄さんとは、そんなことしたくない」
 貴虎が、キレた。
「ああ、もう、女みてえに勿体つけやがって!」
 いきなり立ち上がると、くるりと背中を見せる。
「兄さん、どこ行くの?」
 慌てたような巳琴の声に、貴虎は、眉間にしわを寄せた顔で振り返ると、
「お前がさせてくれないなら、別の方法で処理するしかないだろ」
 冷たく言い放って、部屋を出て行った。
「兄さん……」



 巳琴は机にうつぶせた。
『別の方法で処理』
(それって……やっぱり……他の女の人と……)
 想像して、悲しくなって、涙が出る。
 巳琴は、はっきり言って泣き虫だ。
 コンタクトレンズにできない理由もそこにあった。
 今ならいいコンタクトもあるのだろうが、巳琴が小学校の頃には無かった。そのため未だにメガネ君だ。
 それはともかく、その泣き虫の友、日記がいつものように話し掛けてくる。
「だったら、さっさとやっちゃえばいいのに」
「でも……」
「何が、でもなんだよ。大好きな兄さんとセックスできるなんて、夢みたいじゃないか」
「だって、兄さんは……巨乳好きだし」
「そんなの、男に胸が無いことくらい兄さんが知らないわけないじゃないか。知ってて、誘って来ているんだぞ」
「兄さんは……いろんな女の人と、たくさん経験しているし……」
「比べられるのが、嫌なんだな」
「僕は、女の子みたいに柔らかくないし、きっと、僕なんか抱いても、ガックリするだけだと思う」
「そうか……そうだよな。そういえば、バージンも嫌だって言っていたよな」
「うっ」
「やっぱり、やっちゃって、ガックリされて、嫌いになられるよりは、このままの方が良いか……」
「……そうだよね」
 
 という会話は、実は、巳琴の頭の中で繰り広げられているものである。日記がしゃべるはずが無い。

 いつものように、日記をつけ終わって、巳琴は決心した。
(兄さんに嫌われないために、僕は絶対に兄さんとエッチしない)


* * *

「まったく、ミコトのやつ、女みたいに…いや、違うな…」
 女の方がもっと簡単だ、と貴虎は思った。
 適当なことを言って家を出てみたが、本当に別の女のところに行こうなどとは、思っちゃいない。ちょっと巳琴にいじわるを言いたかっただけだ。
「どうするかな」
 携帯電話を取り出して、ヒマそうなところで宮川に電話してみた。留守番電話サービスに切り替わる直前に出た宮川は、今ちょうど外で飲んでいるところだと言う。
「お前も来いよ」
「ああ」
 渡りに船とばかりに、貴虎は、よく知るいつもの店に向かった。


 そう広くもない店内は、学生で賑わっていた。夏休みシーズンとはいえ、このあたりは大学も多く、部活、サークル活動の打ち上げや、合コンなどでよく利用されているのだ。奥のほうの席に宮川の姿を発見し、一緒にいる男を見て眉を顰めた。
「なんだよ。ミキも一緒か」
「ご挨拶だね。僕たちが、先に飲んでたんだよ」
 美樹原が、柳眉を軽く上げる。宮川は呆れた声を出す。
「なんだよ、お前ら、まだ何か、喧嘩してるのか」
「別に」
「ああ、別に、何でもねえよ」
 貴虎はガタガタと椅子を鳴らして腰掛けると
「生、ひとつ」
 店員に声をかけた。
「ミコトくん、元気?」
 美樹原が尋ねると、
「元気だが? それが?」
 貴虎はムッとした顔で答えた。
「機嫌悪いね、何かあったの?」
 美樹原の目がいたずらっぽく細められた。
「べーつーにー」
 貴虎は、すぐに運ばれてきた生ビールの大ジョッキを、一気に半分近く空けてテーブルに置く。
「ふうん」
 美樹原は、その様子を面白そうに眺めた。

 酒も進んで、宮川のトイレに立つ頻度が増す頃、貴虎もいい感じに酔いが回ってきた。
 宮川が席を外した隙に、美樹原に尋ねる。
「おまえさ、どうやってミコト、口説いたんだよ」
「口説いた? いつ?」
「とぼけんなよ。俺んちであいつとやってたじゃねえか、あん時」
「ああ、あの、僕が殴られた日ね」
 美樹原、意外に根に持つタイプかもしれない。
「どうやったんだよ」
 あの時、巳琴は抵抗していなかった。むしろ頬を染め、うっとりとした顔をして口づけていたのだ。
 あの時の巳琴の表情を思い出すだけでも、今の貴虎には、軽くご飯三杯分はいけちゃうという代物。くやしいのは、その相手が自分じゃないというところ。
「口説いたっていうか……あの時は……」
 美樹原も少し酔っていて、ほんのり染まった顔で、思い出すように目を細める。
 巳琴の、珍しく情欲を映した艶めかしい瞳が甦る。
 あの時の巳琴は貴虎の言葉を盗み聞きして変になっていたのだが、そんなことは、美樹原には――当然貴虎にも――分かるはずがない。
「むしろ僕の方が、誘われたっていうか」
「何?」
 貴虎の目が険悪になる。
「嘘つけ」
 あの巳琴が、自分から誘いをかけるなんて信じられない。
「嘘じゃない。あの時、ミコト君は、目で誘っていた」
「…………」
(あのオクテで、頑なな鉄の処女が、自分から……)
 貴虎は、愕然とした。
(じゃあ、俺に対しての、あの態度は、何なんだよ……)
 美樹原の顔をじっと見て、巳琴はひょっとして本当のところは美樹原のことを好きだったのかと、あらぬ疑いまでかけそうになる。
(イヤイヤ、そんなはずは無い……)
 何しろ、自分はあの日記を読んだのだ。
 巳琴の自分に対する想いが切々と語られていたあの日記。
 あれがある限り、自分の優位は変わらない。
 何が何に対しての優位なのかは謎だが、とにかく貴虎は、自分にカツを入れた。
(あいつは、オクテなだけじゃねえ、明日こそ、絶対キメてやる!!)





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