書いた人 もぐもぐ

「ああっ……ったくよう、黄色は進めだろうが。何止まってやがる」
 さっきから何度も信号に引っかかって、伊織の不機嫌は最高潮だ。
「黄色じゃなくて、赤になっていただろ」
 なだめるように織田が言うと、
「お前がもう少し早くアクセル踏んでりゃ、黄色だったんだよっ。クソがっ」
 伊織は汚い言葉を吐いて、イライラと窓の外を睨む。
 スタジオにいる時とのあまりの違いに、織田は思わず苦笑する。
「何が、おかしい」
 さすが勘がいいというか、よそを向いていたはずが、きっちり振り返って睨(ね)めつけた。
「あー、いやぁ……」
 本当に拓海のことが好きなんだなね。などという感想をそのまま述べるほど馬鹿じゃない。言葉を濁す織田に、伊織は改めて突っかかった。
「大体、織田ぁ、お前、どうして拓海を行かせたんだよ。どうなるかくらいわかってんだろ」
「まあ、どうなるにしても、拓海君の選ぶことだからねえ」
 飄々とした織田の言葉に、伊織は眉をしかめた。織田は前を向いたまま知らん顔で続ける。
「拓海君だって、あれで男なんだから、本当に嫌だったら抵抗するでしょ。逆に抵抗しないとしたら自ら望んでのことだろうし。まあ、この間いきなり『付き人に』って言われたときにはビックリしたけどさ、ああいう大物に目を付けられるってのも、拓海君にそれだけ魅力とこの世界で伸びてく可能性があるってことで」
「うっせえよ」
 伊織は吐き捨てた。
 自分が拓海に圧し掛かったとき、股間蹴りで逃げられたことを思い出す。そして、かつて自分が松平に迫られたときのことも。

 ホテルまではあと十分ほどだろうか、見慣れた新宿の高層ビル群が目に入ってきた。伊織には、その十分が途方も無く長く感じられた。





 その頃、拓海は松平(まつひら)に促されるまま、シティホテルの一室に連れ込まれていた。
「あの、話って?」
 伊織のことで大切な話があるといわれてここまで来たのだが、松平は、車の中でもこの部屋に入ってからも、のらくらとかわして肝心な話をしてくれない。拓海もいいかげん我慢できなくなった。
「話が無いのなら」
 帰ります、と背を向けかけたところを、不意に後ろから抱きしめられた。
「ひっ」
「拓海君」
「は、はな、離してください」
 慌てて身じろぐと、片手で腰を拘束されたまま物凄い力で顔を後ろに向かされて唇を吸われた。
「……んっ、や……やめ…」
 暴れたところを、そのまま床に押し倒される。
「いたっ」
 毛足の短い絨毯に肘を擦って、拓海は顔をしかめた。
「大人しくしてくれれば、乱暴はしないよ」
 膝を拓海の腿に乗り上げて、押さえ込んだ松平は
(もう十分、乱暴じゃねえかっ)
 これじゃリンボー将軍じゃなくって乱暴将軍だよ。と、こんなときなのにつまらない洒落を思いつく拓海。
「伊織のことで、話があるって言ったじゃねえかっ」
「えっ、ああそうだね」
「だったら、その話をしやがれっ、こんな真似しやがって、卑怯だぞっ」
「ああ」
 ジタバタ暴れる拓海は、正直、体格に勝る松平でも持て余した。松平は、しかたなく身体を起こした。用意していた作戦がある。
「じゃあ、言うよ」
「へ?」
 松平は、ゆったりとソファに腰掛けた。拓海はその前にペタリと座り込んで話を聞く。
「実は、今度、新宿クマ劇場で僕が座長を務める公演があってね。毎年話題になってるんだけど、知ってるかな」
「知ってる」
 時代劇と宝塚が合わさったような派手な舞台は、かつてジャパニーズ時代劇ミュージカル(略してJ2M)としてロンドンでも上演され絶賛されたもの。毎年、新宿クマ劇場で共演の役者を変え、若干演出も変えつつ、ロングラン公演を続けている。そのラストで松平が歌う「ダンディーサンバ」はすでに「ダンディーサンバY」まで出ているが、オリコン登場のたびに一位なのだと、先日、母親に聞いたばかりだ。
「それなら話が早い。その共演相手に、実は伊織君の名前が挙がっていてね」
 それがどうしたというのだろう。拓海は首をかしげた。
「伊織君は、それなりにがんばっているようだが、所詮は子役あがりの優等生だ」
 松平は端正な顔に蔑みの色を浮かべた。
「今のままの仕事を続けていれば、小さく終わるか、下手すれば五年後にはもう消えている」
「そんなっ、そんなはずないっ」
 伊織は、あんなにかっこいいし、今だってものすごく人気あるんだから!!
 拓海はキッと顔を上げて松平を睨んだ。
 松平はその拓海の顔を面白そうに見つめて言う。
「綺麗なだけのお人形じゃ、飽きられるのも早いんだよ。ああ、そんな顔をしないで。本当に君は可愛いね。最後まで聞きなさい。だからね、伊織君にとっては僕のあの舞台に立つというのは、チャンスなんだよ。それもビッグチャンスだ」
「チャンス?」
「そう。舞台経験の無い彼が、しかもミュージカルに挑戦。話題になるし、成功すれば多くの演劇関係者に認められ、この先仕事の幅がぐっと広がる」
 松平は、煙草に火をつけてゆっくり吸った。
「伊織君にとって、僕との共演は大きなプラスだよ」
 だから、それがどうしたというのだと、拓海は再び首をかしげた。松平の言うことが本当なら――いや、たぶん本当だ――それなら、伊織にとって良い話で心配することなど何も無いではないか。
 戸惑い顔の拓海に、煙草を吸い終わった松平が薄く微笑んで言った。
「その伊織君の共演話、僕が決めることなんだけれどね、拓海君しだいだと言ったら?」
「はい?」
 拓海は、耳を疑った。松平はこのあと涼しい顔で、伊織に役を与えたかったら自分に抱かれろと言ったのだ。
「な、なんで……」
「僕にとって共演相手は誰でもいいんだよ。話題の舞台だし、どんな役でもいいから出させて欲しいという役者はそれほど山のようにいる。伊織君じゃなくてもね」
「でも、なんで、俺……?」
「僕が、拓海君を気に入ったからなんだけど」
 松平はソファに背中を預けて、腕を組んだ。
「伊織のこと好きなんだろ? 彼のためにお役に立ったらどうだ」
「伊織の、ため」
 拓海はオウム返しに呟いた。
 冷静に考えればとんでもない話だが、思考回路のショートした拓海は、
「俺が、もし断ったら?」
「かまわないよ。伊織クンの舞台話が消えるだけだ」
 うっそり笑う松平の顔を見つめて、ゴクリとつばを飲み込んだ。
「わかったら、自分で服を脱ぎなさい」
 松平に言われて、拓海はギクシャクとシャツを脱いだ。いつもの癖できちんとたたんで床に置く。拓海の裸の上半身に、松平は待ちきれないように腕を伸ばした。
「こっちにおいで」
 ぼんやりとした顔のまま、松平の足の間に立つ。ソファに座ったままの松平は、大きな手のひらで拓海の滑らかな肌を撫で回した。
 そこに、
「そこまでだっ」
 伊織がドアを蹴破る勢いで飛び込んできた。
「なっ」
「い、伊織く…?」
 驚いて振り向く二人。伊織の後ろには、気まずそうな顔の織田とホテルの従業員らしい制服の男。
「なんだね、勝手に部屋を開けて」
「す、すみません。こちらのお客様が、このお部屋で犯罪が……と、その……」
 松平の剣幕に、ホテルマンは恐縮して肩をすくめた。
「そのとおりだろ、犯罪じゃねえか」
 伊織は、拓海の裸の胸にチラリと目をやり、
「後は、こっちで片付けるから」
「そうそう、今見たことは他言無用ね。そこんとこヨロシコ」
 織田がホテルマンの背中を押して行く。大スターの醜聞の口止めも大事だが、自分もこの場からはさっさと離れたほうがいいという判断だ。
 部屋には、三人が残された。
「よくこの部屋がわかったな」
「俺を誘ったのも、この部屋だったろ。相変わらずのヤロウだな」
 伊織は、いつもの仮面をかなぐり捨てて、松平に向き合った。
「おや、きれいな顔して口が悪いね。まあ、いつもの君は嘘くさいとは思っていたよ」
「未成年にセクハラしてるようなヤツが何ほざく」
「ふっ」
 松平は笑った。伊織は眉を吊り上げる。
「セクハラとは心外だな。自分のときを覚えているなら、わかるだろう」
「どういう意味だ」
「僕は、嫌だといった君に無理強いなどしなかったよ」
 松平の言葉に伊織は息を呑んだ。二年前、伊織が芸能界に復帰したばかりのころ、松平は『成功したかったら自分のものになれ』と言って迫ってきた。冗談じゃないと丁寧に断ったが、確かにそれ以上何か仕掛けてくることは無かった。
 伊織はゆっくりと拓海を振り返った。
 拓海は、何が起きているのかわからないといった顔で、ぼんやりと伊織を見つめ返す。その無防備な顔に伊織は
「お前」
 確かめるように声をかけ、同時に床に綺麗にたたまれたシャツに気が付いた。
 伊織の視線を追って、松平と拓海もそれを見る。
「ほらね、僕が無理やり脱がせたわけじゃないんだよ」
 松平が勝ち誇ったように笑う。
 ここに来て初めて拓海は、自分が上半身裸だということに気が付き、慌ててシャツを掴んだ。その様子に伊織は口許をゆがめた。
「合意の上、ってことか」
「え?」
 拓海は、怯えた顔で伊織を振り仰いだ。
「そりゃあ、悪かったな。邪魔して」
 伊織は自嘲的な笑いを浮かべた。
「ちが…」
 拓海は小さく呟いたけれど、伊織には聞こえない。
「そんなに、芸能界で成功したかったのか」
(違う)
 伊織のためだと思ったのだ。こうすることが、伊織のためになるのだと。
 けれども、今、心底軽蔑したような顔で立つ伊織に、そんな事が言えるはずもなく、
「ごめんっ」
 拓海は、シャツを握り締めたまま、部屋を飛び出した。





 家に帰って、ベッドに飛び込んで枕に顔をうずめると、恥ずかしさに死にそうになった。
(何が、伊織のためだよ)
 自分なんかのあんな助けを、伊織が喜ぶはずが無い。それどころか、
「軽蔑された……」
 口にすると、涙が出てきた。
 思えば、伊織の付き人になってから、ずっと伊織に嫌われるようなことばかりしている。一生懸命頑張ったつもりだけれど、何をしても裏目に出てしまう。こんなことなら、前みたいにストーカーだけをしていればよかった。下手に近づくことができたから、かえって遠くに行ってしまった。
(もう、だめだ……)
 涙と鼻水で苦しくなって、寝返りを打つと、伊織の笑顔が自分を見つめる。さすがに天井のまでは母親も手を出せまいと、ベタベタ貼っていたポスターだ。
「うっ……」
 夏の太陽の下、眩しそうに白い歯を見せて笑う伊織、ふわふわのセーターの胸に子猫を抱いた伊織、ドラマのワンシーン、学生服姿も凛々しい伊織、どのポスターも拓海の心をときめかせた。本当の伊織を知るまでは。
 拓海はゆっくり起き上がると、鼻をすすって、おもむろに椅子に乗って天井のポスターをはがしはじめた。伊織に嫌われてしまった今、ポスターを見つめるのも、見つめられるのも辛い。それに、本当の伊織を知ったら、ポスターの伊織など色あせてしまった。正体を知って嫌いになったからではない。その逆。本当の伊織があまりにも鮮やかで、その姿が胸にしっかり焼き付いてしまっているから、もうポスターなどいらないのだ。
 ポスターをはがし終わると、今度は、今まで集めた数々の伊織コレクションを押入れから引っ張り出した。机の引き出しからは最近のコレクションを取り出し、箱に詰める。高校に入ってからコレクションのバリエーションと数はぐっと増えていた。伊織の鉛筆、小さくなって捨てられた消しゴム、伊織が書いた日誌、使用済みストロー、牛乳瓶のふた。 どうやって盗んだか分からないようなものまで出てきて、拓海は泣き顔で笑った。
(さよなら……)


 親が出かけているのをいいことに、拓海は庭で焚き火をした。部屋から持ってきた伊織グッズを燃やす。燃えていく伊織を見ながら、拓海はもう一度ポロポロと涙をこぼした。
(煙が目にしみたせいにすればいいから……)
 自分に言い訳をしていると、
「夏に、焚き火かよ」
 後ろからいきなり声がした。ハッと振り向くと、伊織が立っている。
「何、燃やしてる?」
 覗きこんだ伊織は、露骨に嫌な顔をした。ちょうど伊織の等身大ポスターがメラメラと焼かれているところ。
「い、伊織君、どうして……」
「松平に聞いた」
「え?」
「お前が出て行った後」
 拓海の性格を知らない松平は、どうせ後で拓海が伊織に本当のことを話すだろうと考えた。そこで、どうせバレるなら今ここで、自分のために身体を捧げようとした健気な拓海を疑った伊織を嘲笑ってやれと思い、本当のことを話した。そのおかげで松平は、自慢の端正な顔に青あざを作る羽目になった。
「馬鹿じゃねえの、お前」
 吐き捨てるように言う伊織の顔が見られずに、拓海はうつむいた。
 伊織はそんな拓海を黙って見ていたが、
「……で? それで、今度は俺に愛想つかして、燃やしてるのか」
 焚き火の横に山と積まれた自分のポスターや写真集を蹴飛ばす。
「あっ」
 蹴飛ばされた写真集を庇うように拾って、拓海は小声で反論した。
「愛想つかすなんて……なんで……そんなこと」
「俺がさっきお前のこと誤解して変なこと言ったから。それとも、何か? その前から、俺がこんなヤツじゃないって分かってからか?」
 にこやかに微笑む自分の顔を、伊織は、かかとでグリグリと踏みつけた。
「違うよ」
 拓海は、そのポスターも伊織の靴の下から奪い取った。自ら決別するために燃やし始めたものだが、足蹴にされるのは忍びない。泥のついたポスターの顔を丁寧に拭いながら、
「伊織君こそ、もう、俺のことなんか……」
 嫌いになったんだろ、と口の中で呟く。言ってしまってから、
(バカ、バカ、バカ!! 嫌いになったんだろなんて、まるでその前は好きだったみたいじゃないかっ)
 これじゃまるで痴話喧嘩だと、拓海が真っ赤になった顔をブンブン振った瞬間、ぐいっと腕をつかまれた。
 顔を上げると、
「んっ」
 いきなり唇をふさがれた。
 三回目のキスにも、前回同様、頭の中が真っ白になる。
 丁寧に舌を絡ませた後そっと唇を離して、伊織は言った。
「誰がお前のこと、嫌いだって言った」
「え……?」
 ぼおっとした頭で、拓海は聞き返した。
「な、に…?」
「誰が、いつ、お前のことを嫌いだと言った。勝手に話進めてんじゃねえよ」
「え、だっ、だって」
「お前こそ、これ燃やしてるのは、俺のこと嫌いになったからじゃねえんだな」
「ち、ちがうよ、俺は……」
「俺のこと、好きか」
 聞かれて拓海はコクコクとうなずいた。
「じゃあ、俺が芸能界なんかヤメロって言ったら、やめられるか」
 再びコクコクとうなずく拓海。
「付き人も?」
 コクコクコク。
「じゃあ、問題ないな」
 伊織は、ニッと笑うと
「さっさと燃やして片付けて、俺の家に行くぞ」
 積まれていたものを盛大に炎の中に投げ込んだ。
「ああっ」
 かなりセンチな想いに浸りつつ、ちょっとずつ火にくべていたのだ。それなのに。炎は一瞬高く舞い上がり、あっという間に全部の思い出を飲み込んでしまった。
「ああああ……」
「なんだよ。自分で燃やしてたんだろっ」
「で、でも」
「こんな嘘モンの俺を大事に取ってても、仕方ねえって」
「そ、それは、そうだけど」
「俺んちに来たら、すぐに本モンの俺を見せてやるよ」
 意味深に笑う伊織に、拓海の心臓がドキンと跳ね上がる。
「そそ、それは……」
「なあ、拓海」
「い、伊織く、ん」
 ドキドキドキと鼓動が早くなる。苦しくなって、心臓をぎゅっと押さえたとき、
「ただいまあ」
 母親が帰ってきた。
「拓海、何やってるの?」
 庭に回ってきて時季外れの焚き火に目をむき、次の瞬間、伊織に気が付いて仰け反った。
「あらっ、あらっ、なんでっ、やだ、嘘でしょっ」
 付き人のバイトのことも、新撰組の出演のことも、拓海は詳しく話していなかった。
 母親は、息子が大ファンの桂木伊織が自宅の庭に立っているという事実に激しくうろたえる。そこに、
「はじめまして、お母様、僕、拓海君のクラスメイトの桂木です」
 猫百匹を被りなおした伊織の清々しい笑顔。
「今日は、夏休みで遊びに来させていただきました」
「あら、まあ、そうなの、どうしましょう、ケーキか何か買ってくればよかった」
 母親はオロオロと拓海と伊織の顔を交互に見る。
「あ」
 いいんだよ、と拓海が言う前に
「お構いなく、僕たちもう出かけますから」
 伊織が微笑んで、いとまの挨拶を告げる。
「だめよ、お茶くらい飲んで行ってちょうだい。そうそう、山梨のおじさんから、美味しいハーブティーをいただいていたの。そう、たしか、お中元でいただいたお菓子もあったわ」
「お母さ」
「さ、あがってもらって、ほらほら」
 張り切る母親にせかされて、拓海と伊織は仕方なく家に上がり、そして拓海の部屋に入った。

「…………」
 入るなり目に飛び込んでくるのは、まるで女の子のように愛らしい小学生の伊織。襖にベッタリ貼ったからはがせなかったもの。そして、次にはダンボールいっぱいの伊織コレクション。さっき燃やすときに、あまりに量が多いので、二回にわけていたのだ。
「……あ、あの」
 モジモジと恥ずかしげに身をよじる拓海。伊織は、グルリと部屋を見渡して、拓海を見つめた。
「お前」
「う、うん」
「本当に、俺のこと好きなんだな」
 真っ赤になってまたもやコクコクと人形のように首を振る拓海に、伊織は嬉しそうに笑った。
「安心した」
「伊織君」
「俺んちまで、待てねえ」
 拓海を押し倒し、覆い被さる。
「あ、ちょっと、待って」
「ダメだ」
「あ、だから、まだ……っ。やっ」
 シャツの裾を捲り上げられたところに
「お茶入ったわよ」
 即行でお茶を入れてきた母親がカラリと戸を開けた。
「…………」
「…………」
「…………」
 さすがの伊織も、猫を被りそこなった。








* * *

「伊織君って、大人しい優等生かと思ったら、けっこう普通の男の子だったわねえ」
 夏休みも終わって二学期も半ば、中間試験の結果表を届けた拓海に母親は笑って言った。あの日のことを時たまこうして話題にするのは、母親も伊織を気に入ったからだ。そう、母親の目から見たら、男の子同士がふざけあっているようにしか見えなかった。
「最近じゃ、新しい役にも挑戦しているみたいよ。ほら、これなんか不良少年役だって」
 リビングのテーブルに置きっぱなしのテレビ雑誌を広げて見せる。拓海に見せるために、端が折り曲げてあった。
「こういう格好も、似合うわねえ」
 薄汚れた革ジャンに膝の破れたジーンズ姿。
「そうだね」
 不良少年と呼ばれて――桂木伊織が初の汚れ役に挑戦と書かれたそのドラマでは、撮影中から伊織の不良言葉があまりに板についていてスタッフたちを驚かせたという話を、拓海は織田から聞いていた。
「また遊びに来てくれるかしら」
「うん。そのうちね、今はまだ忙しいらしいから」
「そうよねえ、そう言えば年末は新撰組らしいわよ。もう撮影も終わったって、知ってた?」
 母親もいつのまにか拓海に負けない伊織フリークになっている。その年末時代劇に自分が端役で出ていることは、まだ知らせていない。拓海は曖昧に笑ってリビングを出た。
 二階に上がって部屋に入るなり携帯が鳴る。なじみの着信音に頬が緩む。
「今終わった」
 ぶっきらぼうな声。それでも二日と空けずに、伊織のほうから電話を掛けてくる。
「お疲れさま」
「ホント、疲れた。早く、お前の顔見たい」
 伊織の言葉に、拓海は顔に血を上らせた。
「明日は、学校、来られるの?」
「ああ」
「よかった。一週間も休んでるから。明日が」
 楽しみだと続けようとしたら、
「馬鹿」
 伊織が遮った。
「え?」
「明日まで待てるか、今すぐ俺んちに行ってろよ」
「ええっ」
「今からだと、俺は七時には帰れるから」
「う、うん」
 拓海は時計を見て、急いで出かける準備をした。ポケットの中の合鍵を確認する。
「お母さん、俺、ちょっと出かけてくる」
「ご飯は」
「外で食べてくる」
「あら、遅くなるの?」
「うん。電話する」
 自転車に飛び乗って、伊織のマンションを目指す。途中でスーパーに寄って買物することも忘れちゃいけない。

 早く、お前の顔見たい。
 
 伊織の言葉がよみがえって、拓海はニヤけそうになる顔を無理に引き締め、ペダルをこぐ足に力を込めた。







End 2004.8


          キーワード 「ダンディーサンバ」でした。 


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