書いた人 カザン
いよいよ夏休みが始まり、拓海は付き人アルバイト前日に、事務所を訪れた。 付き人と言っても、拓海は車の運転ができるわけでもなかったから、本当に雑用係のようなことしかできない。しかも一週間という期限付きだ。 事務所に顔を出した拓海を、伊織のチーフマネージャの菊原が、これ以上ないほどの笑顔で迎えた。仕事中毒の菊原は、三日ほど前に渋る医者を説き伏せて強引に退院してしまったらしかった。 「やあ、君が拓海君か。へー、なるほどねぇ。ふむふむ」 菊原は松葉杖をつきながら拓海の方に歩み寄り、キラリと目を光らせた。そして拓海の全身に視線をやり、満足げにポンポンと肩を叩いた。 「あの、短い間ですけど、付き人頑張ります。よろしくお願いします!」 緊張しながら拓海が頭を下げると、菊原は笑顔のまま、うんうんと頷いた。 小さな事務所ながら、その手腕で伊織を若手人気ナンバーワン俳優に押し上げたことで知られる菊原は、一見気難しそうにも見えるが、実際は結構気のいい男のようだった。 拓海は少し緊張を解き、笑顔を見せた。 「明日の予定は聞いてる?」 「あ、はい。織田さんから聞いてます」 拓海が頷くと、菊原は事務所の人間を紹介してくれた。 「伊織君と同じ高校なんですって?」 事務を任されている高倉由美という女性が、興味しんしんといった様子で拓海の顔を覗き込む。 「伊織君、学校でどんな感じ?ちょっと真面目すぎるくらいだから、浮いてないかなーって心配なのよね」 「いやぁ、浮いてるってことはないですよ。人気も人望もあります」 拓海は取り合えず、『真面目すぎる』という評価はスルーすることにした。 やはり伊織は、この事務所でもあの分厚いバケの皮を被ったままなのだ。それがどうして、自分の前では本当の自分を見せたのだろう……。 拓海は帰る道すがら、ずっとそのことを考えていた。 ぼんやりしていたため、携帯が鳴っていることにもしばらく気付かなかったくらいだ。 拓海は慌てて鞄から携帯を取り出し、見覚えのない番号に首を捻りながら通話ボタンを押した。 「もしもし」 「あ、俺ー」 「え?」 「俺だよ、俺。伊織」 「えっ、えっ、あの……」 相手が伊織だとわかって、拓海の頭は軽いパニックに陥った。 「あの…番号……」 「織田の野郎に聞いた。それよかさ、今日これから暇か?」 「う、うん」 拓海は道の真ん中でガクガクと頷いた。側を通る親子連れが、怪訝な顔で通り過ぎるのもまるで目に入らない。 「じゃあウチ来いよ。もう道はわかるだろ?」 「え、これから……?」 「明日っから死ぬほど忙しくなんだからさ、その前にヤルことヤッちまいてえじゃん?」 (ヤルこと……?) 意味がわからず、拓海は首を傾げた。が、伊織は拓海の疑問など聞くつもりもないようで、言いたいことだけを言うと、さっさと電話を切った。 何はともあれ、伊織じきじきのお誘いなのだ。これで浮かれるなと言うのは酷というものだろう。 拓海は、ほとんど空でも飛んでいきそうな勢いで走り出した。 三十分後、息を切らして伊織のマンションに辿り着くと、伊織が「遅せーよ」と言いながら不機嫌そうに扉を開けた。 「ご、ごめん」 いきなり呼び出しといてその言い様はないだろうと思ったが、なぜか謝ってしまう。 「座れよ。今コーヒー切らしてるから紅茶な」 伊織は有無を言わせず、強引にそう言い切ると、キッチンに向かった。 その背中を見ながら、不意に拓海は伊織とキスしたことを思い出していた。 いろいろありすぎて忘れそうになっていたが、伊織には自分の気持ちはもう知られている。その上でキスされたということは、伊織も拓海の気持ちに答える気があるということだろうか。それとも、ただの悪戯だったのだろうか……。 もしも、ただの悪戯だったと言われてしまったらと思うと恐くて、聞きたいのだが聞けずにいる。 こんなややこしい関係になるくらいなら、伊織の出演しているテレビを見て応援したり、隠れてこっそり後をつけたり、使用済のストローをコレクションしたりしていた無邪気なあの頃に戻りたい……などと、ひどく贅沢なことまで考えてしまう。 「今日も……お母さんはいないの?」 「いねえよ。一応仕事してるんでね」 「へえ……何の仕事?」 「輸入雑貨の店持ってんの。半分道楽みたいなもんだよ」 伊織はその話題には気乗りしないらしく、冷めた様子でそう言った。 「ほれ」 伊織は母親の話題を振り切るように、拓海の前に乱暴に紅茶を置き、その顔をじっと見つめた。 「い…ただきます」 拓海はカップを取り上げ、一口飲んだ。 その間も、伊織はずっと拓海の顔を凝視し続けている。 「あの……何?顔に何かついてる?」 いたたまれなくなって、ついに拓海はそう尋ねた。 「別に……。織田が目ぇつけただけのことはあると思ってよ」 「目ぇつけたって?」 「聞いてんだろ。デビューの件だよ」 「デ、デビューって、あれは……」 新撰組の犬の役のことだろうか。確かあれは、人間のチョイ役になったと織田には聞いている。「エキストラに毛が生えたようなもんだから」という織田の言葉を信じていたのだが、違うのだろうか……。 「今日、事務所行って菊さんに会ってきたんだろ?」 「うん。会った」 「なんて言ってた?」 「別に……。頑張れよーって感じで」 拓海がそう言うと、伊織は思案顔で顎を撫でた。 「それって付き人の件だろ?デビューの事は何か言ってなかった?」 「いや、それは別に……」 あれは織田の独断だったのか、菊原は、その件については何も触れてこなかった。 「へえ……で、お前はやる気あんのか?俳優業」 俳優―――などと大層に言われると、言葉に窮する。実際、拓海はそこまで真剣に考えてはいなかった。 「うーん……」 伊織と同じ事務所に入れば、必然的に伊織と顔を合わせる機会は増える。学校を卒業しても、ずっと一緒にいられるという、織田に囁かれた言葉を思い出して拓海は顔を上げた。 「やりたい」 動機はこれ以上ないほど不純だが、少しでも可能性のある方に賭けたいのが人情というものだ。 「あ、そ。だったら止めねえけど」 伊織は突き放したようにそう言うと、肩を竦めた。その顔は、どこか不機嫌そうだ。 「チッ、織田のヤローややこしいことしやがって」 低く呟いた伊織の声を聞いて、拓海は思わずビクリと身を竦ませた。 軽い気持ちで芝居にチャレンジしようなどと考えている自分は、伊織にとっては、目障りな存在なのだろうか……。そう思うと、やるせない。 伊織は小さな頃から舞台や映画、テレビなどで活躍してきたエリートだ。十六歳にして、芸暦は十年にもなるという。そんな人間からしたら、拓海が遊び半分で俳優業にチャレンジするなど、面白くないのは当然だろう。 「ま、やりてえっつーんなら止めねえよ。頑張りゃいいじゃん」 泣きそうな顔で俯く拓海を見て、伊織は慌てた声でとりなすようにそう言った。 拓海は、思いのほか優しい言葉をかけられ、嬉しくて小さく微笑みながら頷く。 その顔を見て、伊織の喉がゴクリと鳴った。 「じゃ、そういうわけだから……」 謎の言葉を呟きながら、伊織の手が両肩にかかる。 「伊織君?」 最初わけが分からずキョトンとしていた拓海も、伊織の顔が近付いて来るにつれ、伊織の意図に気付いてその手を振り払おうと抗った。 「や、やめろっ!」 抵抗も空しく、そのままソファの上に押し倒される。 「うわー、うわー!」 「俺のこと好きなんだろ?だったらいいじゃねえか」 相変わらず自己中な伊織の台詞だったが、それについて怒りを感じている暇はなかった。 いきなりのことに、頭の中が真っ白になってしまったのだ。 ソファに押し倒されたまま、唇が重なる。前にも一度キスしたけれど、あの時よりもずっと濃厚なそれに、拓海はギュッと強く目を閉じた。 伊織の舌が深く入り込み、拓海の口腔を探る。 あまりのことに、拓海はしばらく驚きと緊張に身を固くしていた。 唇が離れた後も、呆然としながら、伊織の二人分の唾液に濡れた形良い唇を、無言で見つめるばかりだった。 まるで暑気あたりになったかのように、頭がクラクラする。 伊織はこれ幸いと、ショックでぐったりしてしまった拓海のシャツのボタンを外し始めた。 「ちょっ……ホントにダメ」 我に返ってその手を退かそうとするのだが、力ではまったくかなわない。 「何事も経験だ」 伊織は不遜にそう言いながら、にやりと笑って拓海の首筋に唇を這わした。 「ダメだって言ってんだろぉぉぉ〜〜!!」 拓海は大声で喚きながら、無我夢中で伊織の体を押し退け、でたらめに足をばたつかせて暴れた。膝が何かにぶつかった感触があったかと思うと、体の上に乗っている伊織が低く呻いて倒れ込む。 「あっ!」 見ると、伊織は両手で股間を押さえて昏倒していた。 「てっめぇ……」 苦しげに呻きながらもギロリと睨み上げられ、拓海は恐怖に震えた。 「わ、悪い……ごめんっ!」 拓海はそう叫んで、はだけたシャツの前を掻き合わせて玄関に向かって走り出した。 「おい、拓海っ!」 背後で、焦ったような伊織の声がする。が、拓海は振り返らなかった。伊織がどんな顔をしているのか、見るのが恐ろしくて、振り返ることが出来なかった。 (うわぁ〜〜!僕のバカバカ!よりによって伊織君のチ○コ蹴っちゃうなんてぇ!!) プライドの高い伊織が、誘って拒否された挙げ句にチ○コ蹴りなどという憂き目にあい、このままで済ますはずはない。 (殺される〜〜!) 拓海は心の中で絶叫しながら、雑踏の中を走り抜けた。 翌日、拓海の付き人第一日目。家まで迎えに来た織田の車に乗って、伊織のマンションに向かう。 「どうしたんだよ、今日はやけに大人しいじゃないの。気分でも悪いか?」 運転しながら、織田が心配げに助手席の拓海の顔を見つめた。 「いや、別に……。大丈夫です」 拓海は、どう見ても大丈夫じゃない陰りを帯びた微笑で答えた。 「伊織と何かあったとか?」 「え…いえ」 ズバリと言い当てられ、一瞬言葉に詰まる。 「しっかりしろよぅ。桂木伊織の未来のライバルだろ?」 織田はそんな拓海を横目で見ながら、とんでもないことを言った。 「未来のライバル?何ですかそれ」 「君がデビューすれば、遠からずそうなるだろうってこと!」 「は?」 拓海自身は、もちろんそうなることなど望んでいない。 「君がデビューすれば、マネージャーはこの俺だ!安心しろ、バンバン売り込んでやっから!」 高らかに宣言し、満足げに頷く織田を胡散臭げに横目で見ながら、拓海は深い溜息をついた。 |
すみませ〜ん、この二人のエロって思いつかなくて、結局『え、まだ……?』な感じです。
なんか超肩透かしッス(汗)。
キーワード 「暑気あたり」 でした。 次回は 「リンボーダンス」
HOME |
小説TOP |
NEXT |