書いた人 もぐもぐ

 部屋を飛び出したはずの二人は、何故かまた伊織の部屋に戻ってきていた。

 織田の運転するワゴンが一体どこを走っているのか、要はどこに行けば織田を捕まえられるかを知るために、織田の携帯に電話を入れたのだ。会って話をしたいと言うと、織田はあっさり「俺がそっちに行くよ」と言った。
 織田が到着するまで、再びふかふかのソファに座る拓海と伊織。
 さっきは興奮していて自分のキャラを忘れた二人だったが、落ち着くと拓海はいつもの真面目で明るく元気なストーカー、そして伊織は、上品で、穏やかで、成績優秀、品行方正を絵に描いたような―――
「違〜う」
 拓海は小さく叫んだ。
「あ? 何だ」
 伊織は、ソファに片膝立てて座って、拓海をジロリと睨めつけた。
「い、伊織君は、どうして変わったのかな……」
 おずおずと思ったことを口にすると、伊織のくっきりした眉が跳ね上がった。それでも拓海は勇気を出して訊ねてみた。
「伊織君は、本当の自分はこうだって言うけど、小学生の時の伊織君は、絶対……」
 あの、ひと目で好きになった愛らしい微笑みが、本性を隠した演技だったとはとても思えない。
 小学生の時の伊織は、間違いなく、優しく穏やかで、純真な―――
「へえ、やっぱりお前、俺のこと小学校んときから知ってるんだ」
 拓海の思いは、伊織の冷たい言葉で中断させられた。
「高校入って初めて会った時から、なーんか俺のこと見てるなとは思ってたけど、そんなに昔から、俺のファンだった?」
 嘲るように言われて、拓海は唇を噛む。
「それが、こんなヤツで、がっかりしてんだろ」
(違う)
 拓海は心の中で応えた。
 今日初めて知った伊織の姿は確かにショックだったけれど、それで嫌いになるほど拓海の伊織熱は低くない。伊織ならそれがどんな伊織でも好きなのだ。
 けれど、それを口にすることはできなかった。
 伊織のストーカーをしていることを知られるわけにはいかない。
 大好きな伊織に嫌われないために、伊織のファンだと言うことは隠しておきたかった拓海である。

 黙ったままの拓海を見つめ、伊織は焦れたように腰をあげた。
「なあ、こんな俺で、ショックなんだよな」
 拓海の顎に手をかけて、じっと目を覗き込む。
 拓海の目に一瞬怯えに似た色が浮かんで、次の瞬間、伊織の唇が拓海のそれをふさいでいた。
「んっ…」
 突然の出来事に、拓海は頭が真っ白になった。目を開けたまま硬直する。
 伊織もそんな拓海の顔をじっと見たまま、閉じることを忘れたような口の中に舌を差し入れた。
「んっ…んん…ぅ…ふ」
 挨拶代わりに前歯の裏をくすぐって、縮こまっている舌を絡めとると、拓海は苦しそうな声を漏らす。その喘ぎにも似た声は、初めてのキスにしてはひどくいやらしかった。
 伊織は、散々弄って唇を離すと、
「すげえ、エロい顔」
 半分放心してしまっている拓海にささやいた。
 その言葉にハッとして、拓海の瞳の焦点があった。
「もちっと先までやってみるか、ん?」
 伊織がニヤッと笑う。拓海はその伊織の胸を突き飛ばして、ソファから跳ね起きた。
 そのままダダッとトイレに駆け込む。そう、トイレだけはちゃんと場所を確認しておいたのだ。
「あっ、おい」
 トイレに閉じこもった拓海を伊織は追ってきたが、カギがかかっているとわかってその扉の前に座った。
「何やってんだよ、出てこいよ。抜くんなら、手伝ってやるぜ」
 伊織の声は、当然拓海に聞こえている。
「一人でイクなよ」
「ちがうっ、バカ」
 拓海は、便座に座って、ぎゅっと両手を握り締めた。
 頭の中がガンガンする。心臓が血液をフルに送り出しているのだ。全身が真っ赤になっている。目を閉じるとまぶたの裏もまっ赤な気がする。
(なんで…なんで、なんで、なんで……)
 憧れの伊織が自分なんかにキスしたんだ。
 小学五年のときから、伊織一筋。もてない方ではなかったからバレンタインにチョコレートもたくさんもらったし、ガールフレンドが大勢いてもおかしくない拓海だったが、伊織以上に好きな相手はできず、当然、高校生になってもキスの経験などなかった。
 それが、ファーストキスで、いきなり――
(伊織と、ベロチュー)
 鼻血が出た。

 カラカラカラとトイレットペーパーを引き出し、鼻の穴に詰める。首の後ろをトントンと叩きながら、何でこんなことになったのかと、拓海はトイレの天井を見つめた。
 その間も、扉の外では伊織が何か言っている。
 最初は面白がっていた風が、あんまり長い間出てこないのでちょっとばっかりキレかかっている。しかし拓海としては、伊織の前に鼻の穴にトイレットペーパーを詰めたお間抜けな姿を見せることは絶対にできないから、ひたすら黙って閉じこもっていた。
「おいこら、返事くらいしろ」
「…………」
 拓海は、ぎゅっと唇を閉じる。鼻の穴をふさいだ黒柳てつ○のような声など聞かせられないのだ。
「いいかげん、開けろよ」
「…………」
「怒ったなら謝ってもいいから、とりあえずここ開けろ」
「…………」
 謝ってもいいという言いぐさが「まだ謝ってはいない」と高飛車に言っていて、拓海はほんの少しおかしくなって微笑んだ。でも、鼻血がとまるまでは、開けることはできない。
 開けろ開けろという声をがまんして耐えているこの姿は、
(あの琵琶法師の話に似ているなぁ)
 と拓海は思った。
 拓海の中では耳なし法一と牡丹灯篭が一緒になっている。

 そんな悠長なことを考えていると、
「開けないんなら、ぶち破る」
 伊織の物騒な声が聞こえてきた。
「えっ?」
 振り向くと、

 バキッ

 ものすごい音がして扉がずれた。壁と扉の間の掛け金が外れたようだ。

「うそっ」
 拓海が腰を浮かしたときにはトイレの扉は開かれて、まるでとらわれの姫を助けに来たかのように王子様然とした伊織が立っていた。
 そしてその王子様は、姫の鼻に詰まったトイレットペーパーを見て、大きく吹き出した。
「なんだ、そりゃ」
「ち、ちょっとばっかし、血の気があまっただけでぃ」
 得意の江戸っ子になった拓海は、プップッと片方ずつ鼻の穴を押さえて、鼻息でペーパーを吹き飛ばした。
「あははははは……」
 壊れた扉にすがって大笑いする伊織は、さっきまでの意地悪さが陰をひそめて、ちょっとかわいいと拓海は思った。





「で、何してんの?」
 渋滞のせいで予定よりもずいぶん遅れて到着した織田は、ちょうど伊織が笑い転げている真っ最中に入って来て、トイレの扉の惨状と二人の姿に目を見開いた。
「まあ、ちょっとね」
 伊織は機嫌よく織田を招きいれた。織田は、さっきの電話の剣幕から相当な覚悟をしてきたのが肩透かしを食らった格好。
 それでも、ソファに落ち着くと、伊織は聞くべきことはしっかりと聞いた。
「さて、織田さんよ、なんでコイツに嘘八百並べ立てたのか、ワケを話してもらおうじゃないか」
 コイツこと拓海は、ソファの端で小さくなってうつむいている。
「嘘八百ってことは無いよ」
 織田は、白い歯をキラリとさせて得意の微笑みを作る。しかし、伊織に利くはずが無い。
「菊さんが、やめたって?」
「ああ、それは嘘。それだけはね。拓海君に色々説明するのも面倒だったし、まあその場の冗談っつーか」
「本当は何か企んでるんじゃないのか」
「ないよ、そんな〜」
 伊織の厳しい視線に、織田は困ったように肩をすくめる。
「でもまあ、いっつもサブマネ、サブマネっていわれてるから、たまには本マネになってみたかったのかもね」
 かもね、などと他人事のように言う織田に、伊織は舌打ちをした。
「あと、何だよ。あのテレ多摩の新撰組」
「ああ」
「犬の役なんて、聞いてないぞ」
 伊織の台詞に拓海も、それまでポヤンとしていたのだが、一応関係のある話なので顔を上げた。
「ああ、あれは本当だよ」
「何っ?」
 伊織が眉をひそめ、拓海は首をかしげる。
「あの脚本家とは知り合いでね、茶助の役はぜひ入れてくれって頼んでるんだ。ただね、さっきも電話で話したんだけれど、犬ってのは難しくてね。犬が人間の姿で現れるってのが、視聴者に解りづらいだろうってことで、どうも幼馴染か何かになりそうなんだよね」
「幼馴染……」
「そう、それか『もう一人の総司』ってことで、全くの心の中だけの存在とかね」
 織田はチラリと拓海を見て
「その場合は伊織の二役になっちゃうかもしれないから、拓海君の出番はなくなっちゃうかもしれないけどね」
「いっ、いいえ、僕は」
 拓海は慌てて、両手を顔面で振る。
「いや、本当はね、僕はやっぱり拓海君は柴犬だと思うんだよ」
 織田はつくづくもったいないという顔で
「君ほど柴犬の似合う少年はいないよ。ベストオブ柴犬イストがあったら五年連続受賞間違い無し」
 わけのわからないことを言う。
 そして、伊織を振り返って意味ありげに笑った。
「首輪とか……似合いそうだよね」



 伊織と織田の間で視線だけの剣呑な会話がなされているのも気が付かず、拓海はまたさっきのキスを思い出していた。
(何で、キスしたんだろう)
 織田と話している伊織の、口許にばかり目が言ってしまう。
 それか恥ずかしくて下を向いていたのだが、こうして顔を上げると、また目が伊織の唇を追ってしまう。
(ダメダメ)
 無理に視線を引き剥がしても、目に焼きついた伊織の唇。
 思い出す、濡れた感触。

 しっとりと柔らかかった。
 
 自分の唇は、たぶん何もしていないからカサカサだったと思うと、とっても恥ずかしい。
 思わず、舌で唇を湿らせる。そしてついでにその舌で、伊織がしたみたいに自分の上あごを舐めてみたけれど、あのゾクッとする感覚は無かった。
「はあ」
 小さく溜め息をついて顔を戻すと、伊織と織田が自分を見つめているのに気が付いた。
「えっ、な、何……」
 動揺する拓海。

「ねえ、伊織。どうよ、この顔」
 織田がクツクツと笑う。
「やめろよ、前にも言ったけど、そいつは俺が目をつけてたんだ」
「わかってるよ。だから、お前の付き人にしようって言ってんだろ」
「付き人なんていって俺が連れまわしたら、見せたくない奴らの目にも触れさせることになるんじゃねえの」
「見せたくないって、誰? たとえば、菊原さんとか?」
「バカ、菊さんじゃねえよ」
「桂木伊織の付き人に手を出せるのが、そうそういるとは思えんね」
「ゲーノーカイ、ナメてんじゃねえよ」
 二人とも拓海を見つめながら、会話している。拓海には何がなんだかわからない。 

「あ、あの〜」
「何だ?」
 二人同時に聞き返される。
「俺、もうそろそろ帰らないと」
 学校帰りに伊織のグラビア撮影の見学に連れて行ってもらって、そこで数時間。それから伊織のマンションまで送ってもらって、そこでまたこうして時間が過ぎている。本当なら、とっくに家に帰ってご飯を食べている時間だ。

「ああ、本当だ。すっかり遅くなっちゃったね」
 織田が腕の時計を見た。伊織も、壁の時計を見上げて言った。
「悪かったな、引きとめて」
「う、ううん。俺、伊織君の家に来られて、嬉しかったよ」
「へえ…」
 伊織の瞳がキラリと光った。
「じゃあ、また来いよ」
「あ、うんっ」
 社交辞令でも、舞い上がる。
「送っていこうか」
 織田が腰を浮かすのを、
「あ、いいえ、ここからなら一人で帰れます」
 拓海は断った。
 なんせ何度もストーキングした、以前の伊織のマンションの近くだ。
「でも遅いから」
 やっぱり送ろうと言って立ち上がる織田の手を、伊織が引いた。
「織田さんにはまだ話がある。拓海にはタクシーを呼ぶよ。タクシーチケットあったよな」
「ああ」

 拓海は、たった今伊織から『拓海』と呼び捨てにされたのが信じられなくて、じっと伊織を見つめた。
「何だ?」 
「う、ううん」
 拓海の頬が薔薇色に染まっていく。

 間違いなく、伊織は自分のことを『拓海』と呼んでくれたのだ。
 




           少しはラプラブ路線が見えてきたでしょうか……あと4回でおわるのでしょうか(笑)

           キーワード  「琵琶法師」 でした。 次回は 「暑気あたり」


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