書いた人 カザン
「君、本気?僕の付き人やるって」 伊織はチラリと拓海に視線を送り、低く尋ねた。 「お、おう!」 拓海は内心の動揺を押し隠し、伊織に向き直る。 「ちょっとお小遣いも欲しいし。い、伊織君が嫌なら、僕はやらないけどな……」 拓海はそう言ってしまってから、普段は『桂木君』と呼んでいるのに、『伊織君』などと、親しげに呼んでしまったことに気付いてドキリとした。 しかし伊織は、意にかいした風でもなく、軽く溜め息をつてみせた。 「別に嫌じゃないけどさ……」 そう言ったきり、腕を組んで押し黙ってしまった伊織の横顔を見て、拓海はやっぱり断るべきだったと悔やんだ。 自分は、伊織に嫌われているのだ。伊織を意識するあまり、いつもいつも肝心なところでドジをする。今まで伊織にしてきた行為を考えれば、嫌われても仕方ない。 「織田さん」 伊織は、電話を切った織田に向かって身を乗り出した。 「ん、何?」 「綾木君も、僕の家で降ろしてくれる?」 「えっ!?」 驚いたのは拓海である。いきなり、本人の了解も得ずにそんなことを言い出すなんて、思慮深い伊織にあるまじき行為だった。……と、それよりも……。 (伊織君の家?ぼ、ぼ、僕がぁっ!?) 一体全体、どうして自分を家に招き入れようなんて考えたのだろう。 「ね?いいよね。綾木君」 至近距離でにっこり微笑まれれば、もうコクコクと頷くしかない。 「あ、ああ。わかった。こっちとしても助かるよ」 織田は少し戸惑いぎみにそう言った。そして、バックミラー越しに拓海と視線が合うと、わざとらしく眉を跳ね上げておどけた表情をつくる。 十分もしないうちに、ワゴンが豪華な高層マンションの前に止まる。 (……あれ?ここ……) 拓海はそのマンションを見上げ、首を傾げた。 確か、伊織の住むマンションは、ここからもう少し行ったところにあるレンガ作りのマンションだ。ここではない。 しかし伊織は、戸惑う風でもなく扉を開けると、バッグを担いで降りた。 「ここだよ。綾木君」 そう言われたら、降りないわけにはいかない。 「じゃあ拓海君。付き人の件、よろしくな」 織田はいやに爽やかな笑顔を振りまきながらそう言うと、車を発車させた。 「じゃあ行こうか」 伊織はワゴンを見送り、歩き出した。 「お、おい……」 その後ろ姿に呼び掛けたものの、後が続かない。本当にこのマンションでいいのか聞きたかったのだが、それを聞いてしまうと、拓海が伊織のマンションを知っていることをバラしてしまう結果になる。 実際、拓海は伊織のマンションにもうかれこれ十回近く通っている―――といってもただ遠くから眺めているだけだ―――のだが、そんなことが知れようものなら、目一杯引かれるのは目に見えている。 「最近、ここに引っ越したんだ」 当惑顔の拓海を見て、伊織はクスリと笑い、そう言ってエレベーターに乗り込んだ。 「あ、ああ……そうなんだ。へえー」 拓海は何でもない振りで頷きながら、そんな重要な情報を知らなかったとは、伊織ファンにあるまじき失態だと落ち込みそうになった。 「両親が別居してね」 何でもないことのように伊織が口にした言葉に、拓海は驚いて顔を上げた。 「え……別居?」 「うん」 目的の階に到着し、伊織がエレベーターを降りてスタスタと歩いて行く。 「あ、待って!」 拓海は慌てて後を追い、目の前で揺れている、拓海より少し広い背中を見つめた。 「ここだよ」 伊織はドアを開け、拓海を振り返った。伊織に促されるまま、部屋に入り、室内を見渡す。 「お邪魔します」 まさか自分が、伊織の家に入る日が来るなんて……。 拓海は、感動と興奮でそのまま失神してしまいそうだった。 (うわー、うわー、部屋入っちゃったよ!ソファ座っちゃったよ。ふかふか〜〜!) 拓海はいちいち心の中で実況しながらも、体は緊張でコチンと固まっていた。 さっきの話について、何か言葉をかけるべきか、それとも違う話題を振るべきかしばし悩み、結局前者を採用することにした。 「別居って、あの……どうして?」 「コーヒーでいいよね?」 伊織は、拓海の疑問に答える気はないのか、クスリと笑ってコーヒーをセットした。 拓海はコクコクと頷きながら、膝の上に置いた手を揉み搾るように絡み合わせた。小さな時からの、緊張した時の癖だ。 沈黙が流れる。 伊織は、拓海の斜め前に座り、ぼんやりと虚空を見つめていた。 やっぱり違う話題を振ろうと、拓海が口を開きかけた時、先に伊織が喋り出した。 「僕は父親に嫌われているんだよ」 「え?あ、の……」 突然何を言い出すのかと、拓海は驚いて顔を上げる。 「父さんは、僕が仕事に復帰したのが気に入らなかった。それで母さんとしょちゅう喧嘩するようになってね。で、ついに先月、僕は母さんと一緒にこっちに移り住むことになったんだ」 伊織はそれだけ言って、ふうっと重い溜め息をついた。 それでは、別居の原因は伊織だということか?事の真偽はともかく、伊織はそう考えているらしい。 拓海は何と言葉をかければいいかもわからず、ただ黙ってぎゅっと唇を噛んだ。 「コーヒー、砂糖とミルクは?」 「あ、ミルクだけ」 拓海は礼を言って、目の前に出されたコーヒーをジッと見つめた。伊織が、自分のために入れてくれたコーヒーだ。飲んでしまうのは、あまりにももったいない。できることなら、このまま持って帰ってしまいたい! 「どうした?飲まないの?」 伊織は、コーヒーを見つめたまま固まっている拓海を、不思議そうに眺めながら尋ねた。 「あ、ううん。飲む」 拓海は慌ててそう言って、一口飲んだ。 「美味しい」 「そう?そういえば君、コーヒー好きだったよね」 「え?うん、まあ……」 実際好きだったけれど、伊織は知らないはずだ。どうしてそんなことを言い出したのだろう。 不思議に思っていると、伊織はにやっと笑ってみせた。 「僕が残したコーヒー、飲んじゃうくらいだもんね」 「あっ!」 その言葉に、拓海は思わず腰を浮かしかけるほど驚いた。以前、確かに自分は伊織の飲み残しのコーヒーを勝手に飲んでしまったことがある。そして、あろうことかそれを伊織にかけてしまったのだった。 「俺が気付いてないとでも思ったのか?見くびられたもんだぜ」 伊織はそう言って、意地の悪そうな笑みを見せた。 「あ、あの時はすげえ喉が乾いてたんだ」 「へえー、そうかい。……熱かったなぁ、あの時かけられたコーヒー……」 伊織がにやにや笑いながら、顎を撫でる。 そういえば、まだあの時のことを謝っていない。 「あんときゃー、悪かったよ。わざとじゃねえぜ?」 拓海がぼそりとそう言うと、伊織はますます図に乗ったようにふんぞり返って腕を組んだ。 「ふん、それくらいわかってるさ。俺があんまり格好いいんで緊張しちまったんだろう?」 拓海がその言葉に驚いて顔を上げると、長い足を組んで、こちらをじっと見つめている伊織と目が合った。 「そ、そんなこと……」 ない―――と言いかけ、伊織のその美しい瞳にジッと見つめられ、絶句してしまった。 「お前、入学して以来、ずっと俺の回りうろちょろしてやがったじゃねえか。俺が気がつかないとでも思ったのか」 伊織は、得意そうに唇の両端を吊り上げて笑った。 「な、なに言ってんだてめえ……」 否定しようとする言葉は、弱々しく消えていった。 「俺はなぁ、お嬢ちゃん。六歳の頃から大人に混じって仕事してんだよ。わかるか?てめえらが、やれ遠足だやれプールで水遊びだって言ってる時分から、汗水垂らして働いてるわけ。てめえが俺に気があるのなんか、目ぇ見りゃすぐにわかっちまうんだよ」 その乱暴な言葉が、伊織の口から出てきたとは、にわかには信じられなかった。あの上品で穏やかな桂木伊織は、一体どこに行ってしまったんだ! 「どうした。図星すぎて声も出ねえか」 伊織はそう言って、クックッと喉を鳴らした。あの伊織が、こんな顔をして笑うなんて……。 「な、な、なっ……」 拓海はショックのあまり、目を剥いて口をパクパクと開いた。 (伊織君が、こんな……こんなヤツだったなんて!) しかし、伊織の演技力をもってすれば、学校で猫の十匹や二十匹被るくらい屁でもないだろう。拓海はそれに思い当たり、ギュッと唇を噛んだ。 「お前が好きなのは、成績優秀、品行方正を絵に描いたような桂木伊織だろ?だがお生憎様、もともとの俺はこんなヤツでね」 伊織はあまりのショックで口もきけない拓海を見て、興が逸れたようにひょいと肩を竦めた。 「織田の野郎に何吹き込まれたか知らねえけどよ、俺は付き人なんか必要ねえよ。だからバイトなら他で探しな」 「お、俺は織田さんと約束したんだから……だから、やる!」 伊織は、きっと自分の事が大嫌いなのだ。拓海は、情けなくてやるせなくて仕方なかったが、それでも引き下がらなかった。伊織の本性を知っても、やっぱり嫌いにはなれない。 「ちっ!わかんねえ野郎だな、お前もよう。付き人なんて、給料も安いしキツいだけだ。まあしかし、織田が何言っても、菊さんの許可がなけりゃ勝手なことはできねえだろうがな」 「菊……さん?」 「ああ、菊原さん。俺のマネージャだよ」 伊織は、その名を呼んだ時だけ、わずかに微笑んでみせた。余程菊原の事を信用しているのだろう。 「でも、辞めちゃったんだろう?実家の家業を継ぐとかで」 「ああ?んなこと、誰が言ったんだ?」 「織田さんが……」 拓海がそう言った瞬間、伊織の目がギラリと光った。 「そうか……。あの野郎、何考えてやがんだ。他には?他には何か言ってなかったか!?」 伊織のあまりの迫力に、拓海はテレビ三多摩の年末時代劇で、犬の役で出ないかと誘われている話をしてしまった。 「犬の役だぁ?なんだそりゃ。俺はそんな話聞いちゃいねえぞ」 伊織が憮然としながら言い放った。 「ええ!?」 「大体、どうやって人間が犬の役をするんだ。バカ野郎め!着ぐるみでも着る気か」 「そ、それはでも沖田総司の良心の……あの……」 長々と説明されたが、何を言っていたのかイマイチ思い出せない拓海だった。 「担がれたんだよ、てめえは!クソッ!面白くねえな。織田の野郎、サブマネのくせに調子に乗りやがって」 伊織はガルルッと凶暴な顔つきで低く唸ると、立ち上がってそのまま玄関に向かった。 「ど、どうするんでぇ?伊織よう」 拓海も立ち上がり、慌てて伊織の後を追う。 「決まってらぁ。織田に会いに行くのよ。どうしてお前にそんなデタラメ吹き込んだのか、聞き出してやるぜ!」 伊織は勢い込んで振り返り、拓海に頷きかけた。 「お前も来い!」 「おう、合点承知の助!」 完璧に自分のキャラ設定を忘れた二人は、怒鳴るようにそう言い合いながら、部屋を飛び出した。 |
本当に自分のキャラ忘れてるよ〜(笑) どうなるんだ?
キーワード 「水遊び」 でした。 次回は 「琵琶法師」
HOME |
小説TOP |
NEXT |