書いた人 もぐもぐ

「ふう、危ないところだった」
 無事に録画のセットをし直して、拓海は額の汗をぬぐった。急いで、バイトに戻って、
「店長、須川先輩、すみませんでしたっ」
 明るく元気に謝る拓海は、もういつもの拓海だ。
「拓海、大丈夫か?」
 須川が怪訝な顔で訊ねる。
「はい?」
 きょとんと首をかしげる拓海。
「なんか、さっき、死んだ江戸っ子のじいさんが乗り移っていたみたいだった」
「何言ってんですか、須川先輩」
 須川の背中をペチペチ叩きながら、あははは…と笑う。ビデオが上手くいったので、機嫌がいい拓海。
「さあ、張り切って仕事しましょう」
 コンビニの制服は半袖なのに腕まくりせんばかりの拓海に、それまで黙っていた店長が言った。
「綾木君、テレビガイドの代金払ってね」
 拓海は、さっき雑誌の棚から手にとったテレビガイドを、興奮のあまり丸めて折じわまでつけていたことに気がついた。
「あーあ。時給の三分の一がパアだ」
 小声で呟いたのに、
「いや、それくらい抜けてたでしょ、君」
 店長は聞き逃さなかった。





 ロケに行っていた伊織が三日ぶりで学校に来た。拓海は、顔には出さないが、浮かれている。久しぶりに見る伊織は、若干日に焼けて美少年ぶりに精悍さも加わっている。今日から一週間は早退も休みも無いという情報も掴んでいて、また毎日に張りが出る拓海だった。
 拓海はお昼のパンを食べながら、お取り巻きに囲まれている伊織を見ていた。
 白鳥学園の中庭には、お昼休みをおしゃべりで過ごす生徒のためのベンチがたくさん置いてある。運動したい生徒はグラウンドや体育館に行くのだけれど、勉強と同じくらい運動も得意な伊織は、けがをするといけないと言う理由で(マネージャーに禁止されているらしい)昼休みはもっぱら中庭派だった。そうなると、当然、拓海も中庭派。毎日、四時間目が終わるとすぐに、伊織がよく見える場所を確保するのに余念がない。今日もナイスポジションをゲットできて満足だった。
 焼きそばパンを食べ終わった拓海は、そのまま木にもたれて本を読むふりをしながら、伊織の横顔を盗み見る。
 サンドイッチを食べ終えた伊織は、お取り巻きの一人が買ってきたコーヒーを飲んでいる。伊織の唇に触れると、たとえ近所のスーパーで十個98円で特売されているような安っぽい紙コップでも、ウェッジウ○ドやノリ○ケに負けない高級カップに見える。(庶民の高校男子にはノ○タケも高級食器ブランドだ)

「あの紙コップになりたい……」
 呟く拓海の前を誰かが走っていって、伊織を呼んだ。お取り巻きもみんな立ち上がって、ゾロゾロと移動する。拓海も後を追いかけようとしたのだけれど、
「あ……」
(あれは!!)

 伊織が飲みかけていたコーヒーがベンチの上に置きっぱなしだ。慌てて、忘れて行ったらしい。
 拓海は、そっと近づいた。
 白い紙コップには、まだ半分以上コーヒーが入っていた。
(伊織が口をつけたコップ)
 ドキドキと心臓が音を立てる。あたりをそっと見回したけれど、幸い他人のけはいは無い。
 拓海は伊織が唇をつけたところを探して、コップをクルクル回した。女じゃないから、口紅の後など無いけれど、ほんの少し湿っているところがそれらしい。
(か、間接…キス……)
 ゆっくりと唇を近づけて、同じところからコーヒーを飲んだ。


 砂糖もミルクも入ってないのに、こんなに甘いのは何故だろう。

 ほわわわわん

 舞い上がっていると、突然背中から声をかけられた。
「綾木君」
「ひっ」
 よく知る声にゆっくり顔だけ振り返ると、伊織が立っている。その後ろにはお取り巻きたち。拓海は、背中を向けたまま、手の中の紙コップを握り締めた。
 コーヒーを飲んだところは、見られてはいなかったと思う。けれど、このカップを持っているのは、隠せない事実。
(ど、どうしたらいんだ……)
 悩んだのは一瞬で、拓海はそのコップをいきなり伊織の前に突きつけた。
「ごみは、ちゃんと捨てていかないと、ダメじゃねえかっ」
 伊織は目をみはって
「うん。だから、捨てようと思って戻ってきたんだよ」
 微笑んで、右手を差し出した。

 カップを渡せと言われているのだと理解したが、拓海は固まったまま。
(コーヒー、減ってる)

 グイッと一口飲んだ分、明らかに中身が減っている。いや、普通そんなの誰も気がつかないだろう。しかし、後ろめたい拓海には、
(俺が飲んだって、ばれちまう) 
そうとしか思えなかった。
 動揺した挙句、拓海は

 ジョボボボボ………

 差し出していたコーヒーを地面に吸わせた。不幸にも、カップを受け取ろうとした伊織の右手を濡らして。
「あっ、伊織君っ」
「手がっ」
 お取り巻きたちが叫ぶ。さすがの伊織もこの仕打ちには驚いたようで、長く細い指をコーヒーまみれにしたまま、拓海の顔をジッと見た。拓海は、内心、卒倒しそうになっていたが、あまりのショックに却って顔は無表情のまま。しばらく見つめ合っていたが、
「て、てやんでぇーっ」
 拓海は、訳わからなると出てくる十八番(おはこ)の『べらんめえ』で叫ぶと、その場を逃げ出した。





(ど、どど、どうしよう)
 拓海は自分の部屋に帰って、布団を頭からかぶった。もちろん、午後の授業はすっぽかしだ。あんなことをした後に、伊織と同じ教室の空気を吸えるはずが無い。しかし、明日になったら、いやでも顔を合わせるのだ。切れ長の大きな目を見開いて、自分を睨むように見た伊織の顔が頭から離れない。
(ばか!ばか!!俺のばか!!! なんで、あんなマネしちまったんだよぅ)
 布団の中で、ポカスカと自分の頭を叩く。今まで伊織に話し掛けられてもぶっきらぼうにしていたのは、照れ半分にわざとが半分だった。そうすることで、ちやほやするお取り巻きたちとは違うと印象づけたかった。けっこう姑息。けれども、今日のあれは違う。間接キスがばれるという恐怖に、頭と身体がパニックを起こしてしまったのだ。
(きっと、怒ってるよ……)
 怒っているだけならいい、嫌われてしまったら―――。
「わあぁーんっ」
 拓海は、声を上げて泣いた。
「あらあら、拓海、どうしたの?」
 母親が階段を上がってくる。
「今日の晩ご飯は、拓海の好きなズッキーニとキャベツのスープ付きよ」
「どうせ、スープストックで買ってきたんだろぉっ」
 しかもそのメニューは、朝限定の安いやつだ。ローカルな話題で母親に八つ当たりしながら、拓海は明日からどうすればいいんだと泣きつづけた。
 
 
 翌朝は、白鳥学園に入学して初めて、伊織が登校しているのに学校を休みたいと思ってしまった。ズル休みしようとした拓海だったが、母親にはすぐにばれてしまい、当然、許してもらえなかった。
「そんなことしたら、桂木伊織君のポスター、襖ごと捨てちゃうわよ〜」
「う」
(その伊織に会いたくないから、休みたいのに……)
 ちなみに、小学生時代、少ない小遣いで買い集めた伊織の子役時代の生写真やポスター、雑誌のピンナップなんかは、拓海の宝物だ。何かするたびに母親に「捨てるわよ」と脅されて、多くはカギの掛かるところに保管したが、部屋に貼っているポスターだけは隠せなかった。剥がせればいいのだが、子どもの浅知恵で押入れの襖にベッタリ貼り付けてしまったので、どうにもならないのだ。拓海の部屋では、少女のような十一歳の伊織が微笑んでいる。


 
 重い足取りで学校に行くと、とんでもないことが待ち受けていた。
「おい、拓海、やったな」
 田所が妙に嬉しそうな顔でやってきて、拓海の背中を激しく叩いた。
「っ、た。な、なんだよ」
 叩かれた場所を擦りながら、顔をしかめる拓海に、
「お前もやっぱアイツのこと気に入らなかったんだよな。まあ、そうじゃないかとは思ってたんだ」
 田所はペラペラと話し掛ける。
「だいたい、普段から、おま」
「何の話」
 動物的本能で嫌な予感を覚えて、拓海は田所の言葉を遮った。
「あ?」
「何の話をしているんだよ。田所」
「だから、お前の、桂木伊織への宣戦布告の話だよ」
 拓海は、頭の中でラッパの鳴る音を聞いた。



 あの伊織の手にコーヒーをぶっ掛けてしまったことが、いつのまにか拓海が伊織に喧嘩を売ったことになっているらしい。昨日、拓海が午後の授業をすっぽかしている間に噂が噂を呼んで、いまや拓海は、芸能人桂木伊織に並ぶ時の人(白鳥学園内)だった。

「綾木君、桂木君のこと、ライバル視してたんだって?」
「そういえば、みんな伊織君のことちやほやするけど、綾木君って、伊織君にはつっけんどんだったよね」
「他の人にはそうでもないから、変だなって、私も思ってたんだ」
 クラスメイトが、好き勝手なことを言ってくるのを、拓海は呆然と聞いた。
「ねえねえ、伊織君に対抗して、オーディションも密かに受けてたって、ホント?」
(な、なんで……)
 こんなことになったんだ。
 拓海は、頭を抱えた。
 肝心の伊織はまだ登校していない。斜め前の席をチラリと見て、この噂を伊織はどう思っているのか、それだけが気になる拓海だった。
 その伊織は、一時間目の始業のベルとともに教室に入ってきた。席につく前に、一瞬、拓海と目が合う。
(伊織……)
切ない思いで見つめたが、すぐに伊織のほうから目がそらされてしまった。
(いおりぃ〜っ)
 拓海は、またまた泣きそうになるのを何とかこらえた。



 その日から三日、ストーキングどころか、勘違いした連中の応援を受け、伊織の半径十メートルにも近づけないようなありさま。拓海は、伊織切れで禁断症状が出そうだった。
 伊織は、ときおり拓海と目を合わせるのだけれど、その度に、不快気にわずかに眉を寄せる。拓海は、それが辛くて、もう自分から伊織を見ることもできなくなった。
 しだいに元気をなくす拓海を、田所は伊織派の嫌がらせでも受けているのだと思い込み、
「俺は、お前の味方だからなっ!」
 伊織に対抗して派閥を作ろうと躍起になっている。
(かんべんしてくれぇ〜っ)


 ある日、学校からの帰り道。
 どうにかして誤解を解きたいと悩んでいた拓海の前に、突然、その男は現れた。
「うーっ、つーっ、くしい人生をぉっ、かぁぎりない喜びをぉおぅ♪」
 どこかで聞いたことのあるメロディを口ずさみながら、
「こぉの胸のときめきを、あなった、にいぃ〜♪」
 胸のポケットに差していた薔薇の花を抜き取り、拓海の鼻の前に突きつける。
 日に焼けて真っ黒な顔、それに対して何か塗っているんじゃないかと思える真っ白な歯、スーツも白だが、中のシャツは紫で、胸元を大きく開いたそこには、金色の太いチェーンが光っている。
「だ、誰ですか?」
「松崎しげ○です。なんちゃってーっ」
 男はおちゃめに笑ったが、残念ながら拓海は『松崎し○る』を知らなかった。
「よく似ているって言われるんだケド」
 馴れ馴れしく話し掛けてくる男が、とてもまっとうな人間には見えず、拓海は後退さった。
「ああ、逃げないでよ」
 逃げるなといわれると、逃げたくなるのはなぜだろう。
 拓海は踵を返したが、その男の大きな手に、右手首をつかまれてしまった。
「ひゃあ、手首細いねえ」
 親指と中指でクルンと輪を作られて
「逮捕する! なんちゃってぇ」
 手首を捕らえられたまま笑いかけられても、無気味なだけだ。
「だ、誰ですか、あなた」
 さっきよりも低姿勢に訊ねる拓海。
「あ? ああ、そう。俺は、松崎…もうええっちゅーに」
 光速の一人ボケ突っ込み、しかも空振り。
「俺は、織田有匡(ありまさ)、伊織のマネージャーだよん」





          キーワード 「ズッキーニ」でした。 次回は 「二本差し」 


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