書いた人 カザン

 綾木拓海が桂木伊織のことを知ったのは、小学五年生の頃だった。
 当時流行りのドラマの中で、伊織は主人公のバツ一の女性弁護士の息子役で出演していたのだ。画面に映る伊織は、それはそれは愛らしく、拓海は最初、女の子だとばかり思っていた。
 伊織が同い年の男の子だと知った時は、少し驚いたが、それでも可愛らしいことに変わりはない。そのドラマが終わってしまっても、人気も演技力もあった伊織は、立て続けにドラマに出演し売れっ子子役になっていった。
 拓海はテレビでその姿を見かけるたびに、ナイターを見たがる父親に泣きついてチャンネル権を譲ってもらい、リモコンを抱き締めて画面に魅入った。伊織の黒い瞳、まっすぐ伸びた黒い髪、愛らしい仕種全てが拓海の心臓をこれでもかというほどバクバクさせる。
 それが初恋だと気付くのに、そう時間はかからなかった。
 しばらくして、母親から、実は伊織は隣町に住んでいるらしいと聞きつけた拓海は、何度かその自宅に行こうと自転車で近所を走り回った。しかし、アテもなく走り回ったところで、もちろん伊織の自宅を探し出すことはできなかった。
 疲労感にさいなまれながら家路に付く時には、決まって『もしも伊織と同じクラスだったら……』という妄想をガソリンに変え、ペダルを漕いだ。
 もしも伊織と同じクラスだったら、学校にいる間中、伊織を見つめることができる。隣の席だったら、教科書を忘れた振りをして見せてもらうこともできるじゃないか。
 テレビの中でアレなのだから、本物の伊織はそこらの女の子よりもずっと可愛いくて優しいのだろう。実際、男並み……いや、それ以上に逞しいゴリラみたいなクラスの女子とは、比較にならないに違いない。
 拓海はそんな、クラスの女子に知られたら袋叩きになりそうなことを考えては、一人悦に入っていた。

 伊織のファンだとは、両親には恐らくバレているが、クラスの友達には知られていない。男の子役が好きだなどと知れたら、面白がってからかわれるか、気味悪がられるだけだということくらい、拓海にも理解できた。
 しかしそんな切ないが楽しい日々も、不意に終わりを告げた。伊織が、ぷっつりとテレビに出てこなくなったのだ。ドラマにも、コマーシャルにも、あれほどたくさん出ていた伊織を見なくなって、二ヶ月ほど経った時、拓海の父親がパソコンを購入した。そして拓海は、こっそり見たインターネットで、伊織が中学受験を理由に子役を引退していたことを知ったのだ。
 この時のショックは、とても口で言い表せられるものではなかった。例えるなら、金ダライ100個が一度に頭に落ちてきたような衝撃だった。
 もう伊織のあの眩しいほどの笑顔が見れないなんて、そんなことがあっていいだろうか。拓海はこっそり録画しておいた伊織の出演しているドラマを何度も見返し、声を殺して一人涙した。





 あれから五年―――
 拓海は今、なんとあの桂木伊織と同じ高校に通っている。しかもなんと、同じクラスになってしまったのだ。


 桂木伊織が、芸能界に復帰したと知ったのは、拓海が中学二年の秋頃だった。
 その時の衝撃は、今でもはっきりと憶えている。それは大手のパソコンのコマーシャルだった。
 えらく整った顔をした超美少年が、楽しげにパソコン画面を覗き込み、続いて好奇心の強そうなビーグル犬が、飛び上がって御主人様と一緒に画面を覗く。それだけの、他愛のないコマーシャルだったが、あの美少年は誰だと、巷ではかなり話題になった。
 それが、三年前に引退していた桂木伊織だと知れると、人々はそのあまりの変わりように驚いた。
 確かによく見ると、あの美少女と見まがうばかりだった伊織の面影が残っている。が、復帰後の伊織は、どこからどう見ても男の子、しかも超美少年だった。
 いくら第二時成長期だとはいえ、人はたった三年で、ここまで変わるものだろうか……。
 拓海は、三年間で10センチしか伸びなかった自分の身長のことを思いながら、伊織の変貌ぶりを呆然と見ていた。
 そして、男の子っぽくなった伊織を見ても、やはり好きだと気付いた。つまり伊織なら何でもよかったらしい。
 そして復帰してからの伊織は、その王子様然とした風貌と確かな演技力で数々の映画やドラマに出演し、瞬く間にファンを増やして、若手俳優としての地位を確立していった。
 そんな伊織が、エスカレーター式の私立中学に通っていると知った拓海は、迷わず担任に第一志望の変更を申し出た。
 そして、伊織と同じこの白鳥学園の高等部に、どうにかこうにか入学することができたのだ。

 いきなり同じクラスになってしまった時は、あまりの幸運ににわかには信じられなかった。あの桂木伊織が、自分と同じ空間で授業を受け、自分に喋りかけることすらあるのだ!天にも昇る気持ちとは、まさにこういうことを言うのだと知った十五の春だった。
 実際に間近で見る伊織は、同じ人間とは思えないほど整った顔で、そして人当たりもよく、芸能人であることを少しも鼻にかけないいいヤツだった。まさに完璧だ。
 しかし本人の意向とは何ら関わりなく、伊織にはたくさんの取り巻きがいた。
 いついかなる時でも周りに取り巻きがいたんでは、繊細な伊織の気の休まるところがないのではないかと、心配でならない拓海だった。


「なんか桂木って嫌味だよなー。完璧すぎてさ」
 拓海と同じ受験組である田所などは、そんな伊織が気に食わないらしかった。
「知ってる?あいつの親、建設会社社長で、この学校にもかなりの額の寄付納めてんだって。だからドラマだ何だって授業休みまくっても、進級してるって話だぜ?」
「へえ……」
 拓海は、その話を複雑な心境で聞いていた。できればそんな話は聞きたくなかった。
「でも休みまくってるわりに成績良いんだよな?桂木君って」
「家庭教師でもつけてんだろ、どーせ」
 田所は、伊織の何もかもが気に食わないらしく、そう言って、険しい顔で鼻を鳴らした。拓海は、それは田所の僻みだと言おうと思ったが、寸でのところで堪えた。
 拓海も、少し女性的すぎるきらいはあるが、そこそこ顔立ちは整っている。それに(中味はオタクだが)明るく外面もいい。
 伊織はあまりにスター然としていて、近づきにくい存在だが、拓海なら……という感じで、女子にもかなり人気があった。
 しかし、拓海は脇目も振らずにただ伊織だけを見つめていた。側に行って、取り巻きの一人に混ざることすらできない。ただひたすら、遠くから見つめるだけだ。
 伊織を見ていると緊張してしまい、何を話せばいいのかわからないというのもある。それともう一つ、取り巻き達のように、その他大勢になりたくないというのもあった。
 もっと伊織に興味を持ってもらえるような存在になりたかったのだ。
 

 入学して十日ほど過ぎた頃、伊織と放課後の教室で二人きりになり、話すチャンスがあった。
「あれ、綾木君、まだ残っていたの?」
 伊織は切れ長の綺麗な目を、ちょっと見開いて拓海を見た。
 拓海は、恋い焦がれる伊織と二人っきり、しかも伊織が自分の名前を憶えていたという事実に感動するあまり、失神寸前だった。
 そしてパニックになりながら、やっと言った言葉が、
「いちゃ悪いのかよ?」……という最悪な一言だった。
 この言葉を言ってしまった瞬間、拓海は自分の血管の中から、血がザザーーーっと引いていく音を聞いたような気がした。
 しかし伊織は、少し驚いたようだったが、まるで気に触っていないように、にっこりと微笑んでみせた。そしてなんと、迎えの車が来るから、一緒に帰らないかと誘ってくれたのだ!
 しかし拓海は、そのまたとない申し出を瞬時に断ってしまった。もしも一緒に帰ることになったら、心臓が持たない。伊織と一緒に帰ることと、自分の命を天秤にかけ、泣く泣く諦めたのだった。
 しかしそれが、幼い頃からちやほやされて育ってきたであろう伊織にとっては新鮮だったようで、それ以後、何かと話しかけてもらえるようになった。
 それにまんまと味をしめた拓海は、それからも伊織には素っ気無い態度を取り続けている。


 それがのちのち、とんでもない事態を巻き起こすとも知らずに……。





 高校に入って初めての中間テストも終わり、皆取りあえずはホッとしていた六月の初め。授業もホームルームも終わり、拓海は鞄を手に立ち上がった。
 伊織は夏のスペシャルドラマのロケとやらで、早退していた。
 伊織のいない学校など、悪いが退屈なだけだった。とっとと帰るに限る。
 帰り際、何人かに遊びに誘われたが、バイトを理由に断った。
 拓海は今、コンビニでバイトをしている。欲しいものが山ほどあるのだ。

・伊織が出演した映画のDVD
・伊織が出演したドラマを録画するためのDVDレコーダー
・伊織の記事が載っている雑誌
・伊……(以下略)

 ……これらを買うためには、どうしても金が必要なのだ。
 伊織の顔ならほとんど毎日生で見ているが、それとこれとは話が別。演技をしている伊織は、本当に役が乗り移ったかのように凄くて、まさしく俳優になるために生まれてきたようなものだと思う。
 ぶっちゃけた話、北島○ヤだ。いや、ビジュアル面ではむしろ姫○亜弓だ。性別を考えると桜○路君か?まさか紫の○薇の人じゃないだろうなっ!?
 などと鼻息も荒く考えながら、拓海はバイト先のコンビニで雑誌整理をしていた。
 何気なくテレビガイドを手に取り、ハッとした。今夜九時には、伊織が出演するドラマが放送される。部屋のビデオで、もちろん予約録画はバッチリしてあるのだが……。
「やばいっっ!」
 悪い予感がして、拓海はテレビガイドを捲り、今日の番組表を見た。やはり今日は七時から九時までナイターがあり、時間延長の場合は、一時間の繰り下げと記されていた。朝はバタバタしていて、すっかり見落としていたのだ。
「クッソー!巨人阪神達めっっ!!」
 野球には何の興味もない拓海からしてみれば、シーズン中のナイターはまさに天敵以外の何ものでもなかった。
 壁の時計を見上げると、時刻は夜の九時四十五分。あと十五分で、録画は切れてしまう。もしも一時間の繰り下げだと、ドラマはまったく録れていない。
 急いでポケットから携帯を出した時、レジにいた須川が声をかけてきた。
「拓海〜、そっち終わったら、お菓子コーナーの補充してくれ」
「っせーんだよっ!今でーじな時なんだっ!邪魔すんな!!」
 拓海は血走った目で須川を睨み返し、一心不乱に自宅に電話をかけた。
 普段は真面目で明るい拓海のあまりの変貌ぶりに、須川は言葉を失い、あんぐりと口を開ける。
 須川の存在を0.1秒で忘却した拓海は、電話に出てきた母親に、テレビを見るように言った。
『今、ナイターやってるわよ〜。延長10回ですって〜』
 呑気な母の声の向こうで、父親の声も聞こえてくる。
『よし!赤星、そこでスクイズだ!』
 拓海はもつれる舌で、その後にやるドラマの録画を頼んだが、母は無情にも『あらまあ、困ったわねえ。お母さんビデオ録画できないからぁ』とのたまわった。
「もういい!この機械文明の落伍者め!」
 拓海はそう叫んで電話を切るなり、ガラス戸をブチ破りそうな勢いで店を飛び出した。
「おい!どこ行くんだよ!」
 驚いた須川が追ってくる。
「ちょっくら家にけえるだけだ!二十分、いや、十分で戻ってくっからよ!」
 拓海はそう言い捨てて、自転車に飛び乗った。
「……あいつ、あんなキャラだったっけ………?」
 残された須川は、タイヤが焼き切れるほどのスピードでペダルを漕ぎ、みるみる小さくなっていく拓海の背中を見ながら、ぽつりと呟いた。





         今回のキーワードは「スクイズ」でした。次回は「ズッキーニ」


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