遠くから自分を呼ぶ声がする。応えようとするけれど身体が動かず、声も出ない。横になったまま闇の底に沈んでいく感覚。それを引き上げるのも、愛しい少年の声だった。 (朱雀……) 心の内に名を呼ぶと、ほんのわずか身体に力が蘇った。 まるで何かの呪文のようにその名を繰り返し念ずれば、ようやく己の身体が自分の元に戻ってきた。暗闇の中にぼんやりとした光が浮かぶ。泣きそうな目が自分を見つめている。 「新三郎様」 新三郎が小さく睫毛を震わせたのを、傍らから一時も離れなかった朱雀は見逃さなかった。 「……気がついた」 問いかけというより、安堵のつぶやき。 新三郎はゆっくりと瞬きをした。 「す、ざく……」 声は掠れてはいるけれど、はっきりとしている。 「はい。新三郎様、はい」 朱雀は、新三郎の手をふとんの上から握りしめた。 新三郎は起き上がろうとして、 「うっ」 鳩尾に走る痛みに、顔をしかめた。 「あっ、まだ動いてはダメ」 朱雀が慌てて、押し留める。 「骨が折れているんだ。熱も三日間ひかなかったし」 「骨……」 新三郎は、いきなり思い出した。 「夜叉王丸っ」 ぎりっと唇をかんで、新三郎は朱雀の止めるのも聞かず、傍らに置かれた刀を支えとして半身を起こした。 「あやつ……」 「待って、新三郎様」 起き上がった新三郎に縋るようにして、朱雀は言った。 「あいつはもういないよ。新三郎様をこの小屋の外に捨てて、どこかに行ってしまった。追いかけるなら怪我が治ってからにしよう、俺も一緒に行くから」 必死の朱雀の言葉に、新三郎は振り返る。 「私を、この小屋に……?」 どういうことだ。 そして、何故、朱雀がここいる。 大体、ここはいったいどこなのだ―― と、ようやくそういったことに頭が働き出したとき、 「新三郎様、よかった」 朱雀が感極まったように、唇を押し当ててきた。 「む……」 情熱的な口づけに、知らず新三郎も応えていた。ひどく喉が渇いていて、もつれる舌が朱雀の甘い舌を強く欲した。唾液をすする音が、淫猥に小屋に響いた。 「んっ…ふ…」 新三郎の身体を気遣ってやんわりと抱きしめていた朱雀の手が、堪えきれないように新三郎の背中を掻く。新三郎も、まだ力の入らない両腕で朱雀の身体を抱きしめた。 「ふ、あ……」 長い口づけの後、半開きの濡れた唇から切ない吐息を漏らし、朱雀は焦点の合わない瞳で新三郎を見つめた。新三郎もまた朱雀を見つめて、 「無事だったのだな」 小さな顔を両手で包んで、ホッとしたようにつぶやいた。 「仲間に追われていると聞いて、心配していた」 言われて、朱雀の瞳が見開かれる。 「あっ」 思い出したように、後ろを振り返る。新三郎もつられて見ると、 「ご、こめん、シロ……」 小屋の片隅には白虎がちんまりと正座して、恨めしそうに二人を見ていた。 『……不本意ながら』 あの時、懐から短銃を取り出した白虎は、その銃口を上の二人の兄に向けた。 「白虎っ」 「何の真似だっ」 慌てる玄武と青龍に、 「すみません、兄者」 泣いて赤くなっている目で、白虎は言った。 「朱雀の兄者を殺させるわけには行きません」 「シロ?」 朱雀も驚いている。 「兄者、ここは私が引き受けますから、早く逃げてください」 白虎は、朱雀を促した。 「何を言ってる、お前まで裏切る気かっ」 長兄玄武は、二人目の弟の裏切りに、こめかみに青筋を立てて怒鳴った。青龍は、白虎を見て呆れたように溜め息をついた。半兵衛に至っては、ポリポリと髷の付け根を掻いている。 「シロ、恩にきるぜっ」 朱雀とて、仲間同士で無駄な血を流したいわけではない、白虎の協力をこれ幸いと、その場からきれいに姿を消した。 「白虎……」 「お前と言うヤツは、もう少し賢い子だと思っていたが」 険悪な顔で詰め寄る二人の兄に、 「待ってください」 白虎は、両手を上げて言った。 「朱雀の兄者は、今、頭に血が上っているのです。私が説得して連れ帰りますから」 「む?」 「何だと」 「朱雀の兄者と本気でやりあったら、皆、無事ではいられません。四天王が仲間割れして全滅なんて、他家の笑いものですよ」 自分が朱雀に付きさえしなければ、全滅と言うことはなかっただろうと思いながら、白虎は得意の弁舌で兄たちを懐柔する策に出た。 「幸い、兄者のことは我々四人しか知りません。私が朱雀の兄者を連れ帰るまで、秘密にして、待っていてください」 「本当に、説得できるのだな」 「もちろんです。あの単純おバカな兄者ですから、どうとでも言いくるめて連れ帰りますよ」 そう言って白虎は、朱雀に先に聞いていた甲斐国の鹿音谷まで追いかけてきていたのである。 「気がついたのでしたら、この薬湯を飲ませて下さい」 白虎は小さな薬缶を指差して、のそっと立ち上がった。 「あ、どこ行くんだ」 とってつけたように、朱雀が尋ねると、 「おじゃまでしょうから、惟之助殿を手伝って参ります」 背中を向けたまま首だけ振り返り、小屋の外に消えた。 「いってらっしゃい」 「惟之助……ここは、惟之助の小屋なのか」 「うん、新三郎様がここで待ってろって言ったから、ずっと待っていたんだよ」 朱雀は薬湯をお椀に注ぎながら、嬉そうにうなずく。 「惟之助は」 「この時間は、いつも山に出ているんだ。本当に猪とか獲っているんだって。昨日は、山鳩だったけどね。あと、畑も作っていて、芋とか、いろいろ」 はい、と両手でお椀を渡す。 新三郎は、その苦さに顔をしかめながら、ゆっくりと飲んだ。 「新三郎様が目を覚まして、惟之助さんも喜ぶよ」 「うむ……」 小屋の外に出た白虎は、惟之助を探すことなく、裏山の川のほとりをホトホト歩いて、沼地に出ると岩に腰をかけた。 「ふう」と、子どもに似合わぬ溜め息をつく。 「どうされました」 そこに小屋の主、惟之助が現れた。突然やって来た朱雀と白虎を快く迎え入れ、寝るところばかりか食事の世話までしてくれる親切な男だ。 「あっ、あの、秀俊様がお目覚めになりました」 慌て言うと、 「おお、それは良かった」 惟之助は磊落に笑って、小屋に戻るかと思えば、白虎の隣に腰掛けた。 「顔を見に行かなくて良いのですか」 「急がずとも逃げはしないでしょう。それより今行けば、私はじゃまなだけです」 その通りだと、白虎はまた出そうになった溜め息を飲み込んだ。 「白虎殿は、あまり嬉しそうではありませんね」 惟之助が尋ねると、白虎は首を振った。 「いいえ、秀俊様がご無事だったのは、やはり嬉しいのです。嬉しいのですが……」 複雑な思いに、眉根を寄せる。 この間までは、新三郎に死んでもらうつもりだった。 新三郎が朱雀に「待て」といった鹿音谷に来ることなく江戸に入ったことは知っていた。そして、そこで家康の首を討てず――たとえ討ったとしても――死ぬだろうこともわかっていた。 だから、その後で兄を説得するつもりだった。 「死んだ者を想ったところで、何になりますか」 そう言って、甲賀の里、明乃庄まで連れ帰るつもりだった。 (けれど……) 「ねえ、シロ、新三郎様、遅くないか」 「このところ天候が悪いから。私たちのようには行きませんよ。昨日、ようやく三河を発ったそうです」 「そう」 「シロ、新三郎様、まだ?」 「もうじき、相模の国です」 「本当? 迎えに行こうかな」 「待っているように言われたのでしょう」 「でもぉ」 「かえって抜けづらくなりますよ。そう言われたのでしょう」 「……うん」 「秀俊様に何かあったらわかるようにしていますから」 月神一族の「耳」と言われる自分を信じろと、騙しつづけていささか気が重くなっていた。 一日千秋という言葉を額に貼り付けたように、ひたすら新三郎の到着を待つ朱雀がいじらしすぎて、どうにかなりそうなとき、いきなり、傷ついた新三郎が小屋の前に捨てられていたのだ。 「白虎殿?」 「あ、いいえ」 ぼんやりしていた白虎は、再び首を振った。 「嬉しいのですが、これで兄者は絶対に里に帰ってくれなくなった。そう思うと、少し寂しいのです」 「死ねば、里に戻ったと思うのか」 クスと笑う惟之助に、白虎は全身を緊張させた。 「あの男が死んだと知れば、朱雀は迷わず後を追ったぞ」 「何者っ」 跳び退って短銃を構えると、惟之助だと思っていた男の、マタギ風の毛皮の下から派手な着物が現れた。朴訥そうだった初老の男の顔が、白い美貌と入れ替わる。 「ふふふ……」 「夜叉王丸」 「明乃の庄一の知恵者『白虎』の名を告ぐ者にしては、愚か」 男にしては少し高めの声で嘲笑われて、白虎は顔に血を上らせた。 「しかし、まあ、子どもだから仕方ないか」 「なんだとっ」 キッと睨み上げる顔を見て、夜叉王丸は面白そうに目を瞠った。 「ほう、よく見れば兄に劣らず、なかなかかわいい顔をする」 「なっ、なっ……」 「しかし、ここまで小さいと、さすがの私も……」 短銃など目に入らぬ様子で、夜叉王丸は無造作に、自分のヘソの上くらいにしかない小さい頭をくるくると撫でた。 「やめろっ、何する」 何が「さすがの私も」なのか?―― 訳もわからず、ただ白虎は、天敵に触られた衝撃に、反射的に後ろに遠く跳んだ。 「すばしっこい。ウサギのようだ」 朱雀の紅スズメに続いて、白虎が白ウサギと名づけられた瞬間だった。 そのころ、何も知らされず戻ってきた本物の惟之助は、中で囁かれている睦言に顔を赤くし、入るに入れず、大根の山を抱えたまま小屋の入り口に座り込んでいた。 * * * 「ほう、伊賀の夜叉王丸が秀俊を――のぅ」 本多正純から報せを受けた家康は、しわの奥の目を細めた。 「しかたあるまい。あれの首を取れと先に命じたのは、このわしじゃ」 「けれど大御所様、その命は、お取り消しにならなかったので?」 「ふ、ふふふ……」 (もともと命令など、どうでもいいのよ) それが夜叉王丸という忍びなのだと、家康は笑った。 「となれば、正純」 「はっ」 「いよいよじゃの」 「……はっ」 後に大坂冬の陣と呼ばれる戦は、この三年後のことである。 「それでは、兄者、お達者で」 「うん、シロ、色々ありがとう。みんなにも宜しく伝えて」 「何言ってんですか、宜しく言えるわけ、ないでしょう」 白虎は白い額にしわを刻んで、朱雀を見上げる。 「あっ、そっか」 コクンとうなずく朱雀の髪は短く切りそろえられ、首の振りと同時にさらさらと揺れた。 「明乃庄の朱雀は死んだんです。伊賀の夜叉王丸にやられたんです。これが結構あっけなく、みっともなく」 「なんか、やな感じ」 「こうして遺髪を持って帰るのですから、兄者」 白虎は懐の包みを握り締め、キッと朱雀を睨んで言った。 「二度と、我らの前に姿を現してはなりませんよ」 「……うん」 さすがに、しゅんと朱雀はうな垂れる。 その肩を、そっと新三郎が抱く。 「秀俊様、いえ、新三郎様」 白虎は、あらたまって新三郎に呼びかけた。 「兄者のこと、お願いします」 「うむ」 あいわかった――と、うなずくと、 「新三郎様も、その侍言葉、何とかした方が良いかもしれませんね」 白虎は眉をへの字に下げた。 「浅田新三郎秀俊様も死んだのですから」 「……そうだな」 「これも夜叉王丸に、江戸屋敷で……こちらは、最後まで勇敢に戦って破れたと」 「俺んときと違うじゃねえか」 白虎の言葉に、ふくれる朱雀。 「いや、実際は、夜中襲われ屋敷中の者が見る中で、みっともなく倒されたのだ」 新三郎は、苦笑して言った。 (あの男が、私を助けたとは思いたくないが……) 今こうしているということは、やはり、助けられたのか。 『あの美童をむざむざ殺すのは惜しい』 夜叉王丸の言葉を思い出すと、胸の奥底に炎が燃える。その炎が、今、己を生かしているのだと思う。武士の体面を捨ててでも、あの男に朱雀を渡したくない。 新三郎は、散々逡巡した結果、朱雀とともに生まれ変わる道を選んだ。 「新三郎様?」 肩を抱かれた手に力がこもって、朱雀は新三郎を見た。 「あっ、いや」 何でもないと手を離すと、今度は朱雀がその腕に自分の腕を絡める。 「えへ」 白虎との別れの寂しさを、こうして甘えることで紛らわせようとしている。 「白虎殿、お待たせしました」 惟之助が自分の仕度を済ませ、荷物を背負ってやって来た。 「できましたか」 「はい」 白虎にうなずき、惟之助は、二人に頭を下げた。 「留守の間、宜しくお頼みします」 「気をつけて」 「シロが一緒なら、安心だよ」 近江に戻る白虎に付いて、惟之助も途中まで一緒に旅して行くことになったのは、身体の自由が利くうちに父母の墓参りもしたいし、妹にも会いたいと言い出したからだ。もちろん、多分に、若い二人に遠慮してのこともある。 「春には戻ってまいりますので」 ここ数日で、冬支度をこまごまと教えた惟之助だが、正直、今ひとつ不安ではある。冬越しのことだけではない。これから先、本当にこの二人が、今までの自分を捨て新しい生活を始めていけるものなのか。 けれども―― 「いってっしゃい」 幸せそうに笑う少年と、その傍らに立つたくましく成長した若者を見ると、何とかなるだろうという気になるのだった。 完 2005.7 |
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