新三郎が江戸に入ったのは、実に大坂を出て二十日目の朝だった。本多正純の使いという者が迎え出て、江戸屋敷の手配をしてくれた。 「大御所様とのお目通りは明日とのことでございます」 「そうか」 新三郎は、思いのほか落ち着いている自分が不思議だった。家康との謁見と聞けば、武者震いの一つも出るのを堪えるものだと思っていたが、どこか他人事のように思える。これではいかぬ――と、微苦笑した。 それというのも、ここ数日、たった一つのことしか頭に無いからだ。相模の国を越えるときには、朱雀との約束が何度も頭をよぎり、胸を詰まらせた。 (私の来るのが遅いと気にしているだろうか。それとも、不実を知って怒って甲賀の里に帰ったか) いずれにしても、もう二度と会うことは無い。そう思うと、新三郎はまた胸が塞がれて、明日のことも考えられない。だから執着するものを作りたくなかったのだ――と、新三郎は、癖になってしまった指で、帯の内に隠した朱雀のくないを押さえた。 家康との謁見は、翌朝五ツ辰ノ刻、白書院にて行われることになった。本丸の大広間から白書院に続く長い廊下を歩きながら、新三郎は江戸城の立派さに感心していた。古くは太田道灌が「我が庵は松原続き海近く」と詠んだ関東の片田舎の城である。太閤秀吉の築いた大坂城とは比較にならぬと侮っていたのだが、関が原の後、どれほどの改修を重ねてきたのか、 (大きい……) 城の大きさだけではない、威圧感が違うのだ。 ヒタヒタと、白書院が近づくにつれ、その気配は増していった。 「お腰の物をお預かり申す」 慇懃に両手を捧げられ、新三郎は刀を外した。帯刀を許されないことはわかっていた。だからこそ、帯の中の物が必要だったのだ。 (武士が卑怯よと、そしられようが) 朱雀のくないで家康の首を貫き、その直後、自分の腹も裂くつもりだ。 「こちらに」 下段の間に通された新三郎は頭を低くして進んだ。左右に控えるのは、徳川家の側近。上段に近い所に居るのは、重臣本多佐渡守正信だろう。 さすがに新三郎は緊張して、身体に力が入った。 「浅田新三郎秀俊か」 上段の御簾の向こうから、声が掛かる。 (遠い) 予想はしていたが、家康との距離は遠かった。 (しかし、跳べない距離ではない) 一瞬の隙を突いて跳べば、届かぬことも無い。両脇から邪魔は入るだろうが、 (一瞬のことであれば……) できなくはない――と、新三郎は伏せた姿勢で、そっと視線を走らせた。 「面(おもて)をあげよ」 許されて、そろそろと顔を上げる。御簾の向こうには小さな人影があったが、その顔は全く見えなかった。新三郎は、あることに思い当たって息を飲んだ。 (御簾の向こうに居るのが、家康だという確証は無い――) 家康は慎重な男だと聞いている。大坂から来た自分の前に、むざむざ現れるものか。 ここに至って初めて、新三郎はじっとりと背中に汗を滲ませた。 死ぬことは怖くない。御簾の向こうの影を討てと言われれば、そうする。しかし果たして、その影は家康なのか。もし違っていたら、無駄死にだ。 (ままよ――) 瞬時に色々な思いが交錯したが、新三郎は腹をくくった。もしも家康でなかったとしても、それならそれが己の運だったのだ。新三郎は、朱雀のくないを意識した。指も馴染んでいる。すぐに取り出すことができる。 そのとき、 「大御所様っ」 側近の一人が声を上げた。 新三郎もはっとして上段を見る。なんと、家康自ら、御簾を跳ね上げて降りてきたのだ。 「顔が良う見えぬ、近う寄れ」 言いながらも、家康は自分から新三郎に近づく。 新三郎は、突然の出来事に呆気にとられた。目の前に居るのは、家康その人に他ならない。今動けば、確実にその首を取れるとわかっていながら、新三郎は動けなかった。左右に並ぶ側近たちもみな同じように、どうすることもできずに息を詰めて見守っている。 「ほうほう、顔を見るまでどうかと思っていたが、やはりのう」 家康は、しわだらけの顔の中でひどく印象的な目を細めて、満足そうにうなずいた。言われた言葉の意味がわからず、新三郎は思わず家康の顔をまっすぐに見返し、そして非礼に気づいて慌てて平伏した。 「よいよい、面を上げよ」 しわがれた、それでも威厳のある声で、家康は言った。 「良い目をしている。気に入ったぞ」 言われて、新三郎は唇をかんだ。 (やられた……) 先手を取られてしまった。 「どうじゃ、秀俊、わしの側で仕えぬか」 「大御所様」 さすがに、本多佐渡守が止めに入る。 「わしは冶部少輔殿にはちと借りがあってのう」 冶部少輔とは、関が原で死んだ石田三成のこと。 「本当は、殺したくはなかったのだ」 「大御所様っ」 佐渡守にたしなめられ、家康は笑いながら元の席に戻った。 新三郎は、何故石田冶部少輔の名が出てくるのか、全く解らなかったが―― (負けた) 家康の首を取るたった一度の機会を失ってしまったことを知った。 近寄られたときには、不覚にも身がすくんだ。一見小柄な老人のくせに、どんな猛将にも感じたことの無い、周りを威圧する気を放っていた。 (あれが天下人の風格か――) 淀殿にも、秀頼公にも、そして大野殿はじめとする大坂の武将の誰にも無い。 新三郎は、関が原で大坂は負けているのだと、改めて思い知った。 その夜。屋敷に戻って新三郎は、静かに禊ぎをした。 淀殿の命を果たせなかった。その償いは、腹を切って詫びるしかない。不甲斐無いとは思うが、あの家康を討つ気にはもうなれなかった。 『どうじゃ、わしの側で仕えぬか』 戯れにしろ、言われて嬉しくないはずがない。天下人に、それだけの度量ある人物に、仕えるのは武士の本望だ。 (生まれが違っていれば、あるいは……) 命をかけて仕えたかも知れぬ――そう考えて、新三郎は首を振った。 「今さら何を」 新三郎は、新しい着物に袖を通し、死への準備を急いだ。 「それで腹を切ってしまいにするつもりか」 誰も居ないはずの部屋の隅から声がして、新三郎は、咄嗟に刀を引き寄せた。 「お前はっ」 夏の日、甲賀の山道で出会った白皙の美貌があった。 「おぬしはそれでいいかもしれぬが、あの紅スズメはどうするのだ」 「っ……」 瞬間、朱雀の顔を思い浮かべて、新三郎は息を飲んだ。 「……お前には、関係ない」 「無論」 新三郎の苦渋の言葉に夜叉王丸はあっさりうなずく。そして、飄々と言葉をつないだ。 「ついでに言えば、おぬしにも関係無いのだろう。あの可愛い紅スズメが抜け忍となって、一族から追われる身になっているとしても」 「なに」 新三郎は眉間にしわを刻んだ。くっきりとしたきれいな眉がひそめられる。 「どういう意味だ」 「おぬしがそそのかしたのだろう、里を抜けて待っていろと」 夜叉王丸の口元が、呆れたように歪む。 「忍びの世界で一族を抜けると言うのは命賭けのことだ。抜け忍は死ぬまで追われる。元の仲間からな」 「なん……」 新三郎は、耳を疑った。 (朱雀が……追われている?) 知らなかった。 甲斐の国で待っていろと言ったとき、あまりに朱雀は嬉しそうだったから。 「そんな……」 そんな覚悟を伴うことだとは、知らなかったのだ。 新三郎は、自分の迂闊さを呪った。 「それで、朱雀は?」 無事なのか。 夜叉王丸相手と知りつつ、朱雀を心配するあまり、必死の目で尋ねる新三郎。夜叉王丸は、薄く笑って横を向いた。新三郎は、さっと顔に血を上らせる。 「どういう真似だ」 「だから、死んでいくおぬしには関係ないだろう。まあ、逃げ切れなければおぬしの後を追ってくるだろう、あの世に」 新三郎の頬がピクリと痙攣した。 「しかし、あの美童をむざむざ殺すのは惜しい」 夜叉王丸は意味ありげに笑った。 「あの白い肌もまだ蕾だ。これからますます色づいてくる」 クスリと笑う横顔に、新三郎の胸が騒いだ。 「お前……何をするつもりだ」 刀の柄に手をかけ、今にも抜刀する勢いで、新三郎は夜叉王丸の前に進んだ。 「朱雀に何かしたら」 「おや?」 許さんという言葉を遮り、夜叉王丸は片眉を上げた。 「聞いていないのか」 「何をだ」 「朱雀の菊座を初めて犯したのはこの私ぞ?」 「……」 信じられない言葉に、新三郎は再び息を詰まらせた。 「知らなかったか、よほど鈍いな。まあ、朱雀を責めるな。言えなかったのだろう」 夜叉王丸は、新三郎を挑発するように見つめた。 「おぬしを助けに、大坂城に忍び込んだ夜のことだ」 「あ…」 細い手首に痛々しく浮いた、赤紫の痣。 「許さんっ」 叫んで、新三郎は夜叉王丸に切りかかった。 夜叉王丸は、刃をかわし、後ろ歩きのまま器用に廊下に出る。 新三郎は怒りにとらわれていた。朱雀を犯したと平気で言う男が許せない。 「待てっ」 その騒ぎを聞きつけて、屋敷中の者が起きて来た。 「何事ですか」 「ややっ、曲者」 新三郎が屋敷に忍び込んだ曲者を追っているのだと知り、それぞれ刀を抜いて取り囲んだ。 「ふふふ……」 夜叉王丸は、待っていたとばかりに立ち止まり、ゆっくりと左右を見渡し、最後に正面に立つ新三郎を見てニヤと笑った。 新三郎は、刀を振り上げ―― 「ごふっ」 次の瞬間、口から血を吐いて前のめりに倒れた。 「秀俊様っ」 地に伏すかと思えた身体は、いつの間にか夜叉王丸の腕の中にある。 「若様っ」 屋敷の者たちが目を瞠る中、 「浅田新三郎秀俊が命、この伊賀の夜叉王丸が、しかと貰い受けた」 夜叉王丸は高らかに宣言して、宙に消えた。 「ひっ、秀俊様ぁっ」 源之丞の声が闇にこだましたが、当然ながら、応える者はいなかった。 |
HOME |
小説TOP |
NEXT |