額にあたる指の感触に重い瞼を開けると、新三郎の優しい瞳が見つめていた。
「大丈夫か」
 囁くように尋ねられて、朱雀はゆっくり二回瞬きをした。ふわふわとした夢の世界からようやく意識が戻ってきた。いつの間に気を失っていたのだろう。身体に残る甘い痺れが照れくさい。朱雀は、うっすら頬を染め、
「新三郎様」
 名前を呼んだが、声が掠れてうまく出ない。代わりに、自分の前髪をすく指をとって口づけた。
「朱雀」
 その指はそのまま唇を撫ぜ、愛しげに頬を包む。朱雀は再び目を閉じて、新三郎に擦り寄った。新三郎の匂いを嗅ぐように鼻を肩口に埋めると、力強い腕が、背中を抱いてくれた。
「新三郎様、好き」
 新三郎の胸に乗るようにして囁くと、新三郎は目を細めて頷いてくれた。
 だから、朱雀は疑わなかった――新三郎は、自分と一緒に行ってくれるのだ。城を出て、大坂も江戸も関係なく、二人でまた旅をするのだ、と。



「あまりゆっくりはしてられないね」
 名残惜しそうに朱雀が身を起こすと、新三郎がやんわりと引きとめた。
「ダメだよ、もう……」
 朱雀が赤い顔をして首を振ると、新三郎は困ったように微笑んだ。
「朱雀、私は江戸に行かねばならぬ」
「えっ」
 朱雀の顔が強張る。
「なんで」
 新三郎は答えず、ゆっくりと起き上がった。
「なんでっ、俺と一緒に行くんじゃないのかっ」
 黙って着物を羽織る新三郎に、朱雀は裸のまま詰め寄る。
「ねえっ、黙ってないで何とか言えよ」
「…………」
「俺のこと、好きなんだろ? 違うのか?」
 半ベソの顔でしがみ付かれて、新三郎は耐え切れず眉間にしわを寄せた。
「……すまない」
「嫌だっ」
 新三郎の背中に両腕を回して、
「嫌だ、嫌だ、嫌だっ」
 何とか言えと言った朱雀が、全身で新三郎の言葉を拒んだ。
「新三郎様は、俺と一緒に行くんだっ」
「すざ…」
「俺、新三郎様と一緒だから。ずっと一緒だから。絶対、離れないから」
 朱雀は、ひらめいたように顔を上げた。
「もし新三郎様が江戸に行くんなら、俺も一緒に行く」
「朱雀」
「江戸に付いて行く。そして、俺が新三郎様を守る」
 新三郎は、愛しい少年の必死の眼差しに胸を打たれた。
 打たれた胸の奥深く、様々な思いが渦を巻く。
「……わかった」
 渦巻く思いをどうにか静め、寝所に座りなおすと新三郎は、朱雀の細い肩に薄物を羽織らせて言った。
「ならば、甲斐の国の鹿音谷で待っていてくれ」
「鹿音谷?」
 朱雀が小首をかしげる。
「ああ、赤子の私に乳をくれた女の兄がそこにいる。私の、乳母と言ってもいいのだろうが、その者は、私が物心つく前に屋敷を下がっていて顔も知らぬ。けれどもその兄の惟之助は、私の幼き日の遊び相手で、槍の師でもある」
「その人が甲斐に?」
「父親は武田家の足軽大将だったと聞いたことがある。三年ほど前に左腕を不自由にして、故郷に帰ったのだ。今は山で雉や猪を捕って暮らしていると便りがあった」
「雉や猪」
 朱雀の頭には、生まれ育った甲賀の山が浮かんだ。
「惟之助を訪ねて行って、そこで私を待っていてくれ」
「待っていれば、新三郎様は、そこに来るの?」
「ああ」
 頷く顔に嘘を見つけることはできなかった。いや、信じたい気持ちが朱雀の目を暗ませている。
「江戸には向かわないといけない。逃げたとなると色々と問題もある。けれども江戸に向かう途中で不測の事態が起きたとしたら、皆も諦めてくれるだろう」
「不測のって、どんな」
「そうだな。相模の国あたりで、徳川の間者にでも襲われたことにしようか」
 微笑む新三郎に朱雀は嬉しくなって、
「じゃあ俺が、その徳川の間者のふりをする。俺が新三郎様をさらいに行くよ」
 はしゃいだ声をあげた。
「それはいけない。私がちゃんと細工をして、皆に迷惑が掛からぬようにして抜け出すから、朱雀は惟之助の所で待っていてくれ」
「だって、一人で大丈夫?」
「一人だから、かえって大丈夫なのだ」
 朱雀は、しぶしぶ頷いた。
「わかった。じゃあ、待ってるから、絶対来て」
「ああ」
 そして、新三郎は思いついたように言った。
「朱雀、くないを一つもらえないか」
「えっ?」
「お前の代わりに、旅の間、身に付けておきたい」
「あ……」
 朱雀は、頬を染めて頷いた。いそいそと帯を引き寄せ、その中に隠していた得物を取り出す。自分の代わりに新三郎の供をするのだと思うと、少しでもきれいな物をと選りすぐり、ついでに息を吹きかけて帯の端で磨いた。
 その姿がまたひどく愛しくて、新三郎は、胸が苦しくなった。
「じゃあ、これ……」
 包んで差し出された小さな剣。それごと朱雀の手を握り、新三郎はもう片方の手で朱雀の首を抱き寄せた。朱雀は、待っていたように薄桃色の唇を開く。
「ん……っ、ふ」
 切ない吐息と水音を漏らし、朱雀は新三郎の舌に自分のそれを絡めた。貪るような口づけは、別れがたい二人の気持ちそのままにいつまでも続いた。







*  *  *

「何を言ってるんですかっ」
 白虎の怒鳴り声に、朱雀は耳を押さえた。
「新三郎様と一緒に暮らす? 猪がなんですって?? 兄者、自分の立場というものをわかってるんですかっ」
「わかってるよ」
 朱雀は頬を膨らまし、
「新三郎様の妻だもん」
 上目遣いに、六つも下の弟を見た。
「つ、つ、妻、って……」
 わなわなと震える白虎。そんな様子には一向に構わず
「婚儀もしたんだ。そりゃはじめは入れ替わっただけだけど、夜は……ちゃんとしたし……」
 朱雀は、恥らって目を伏せる。
「ちゃんと…って」
 白虎は、朱雀の袷を掴んだ。
「ちゃんとっ、てえっ?!」
「言わすなよぅ」
「聞きたくありませんっ」
「どっちだよ」
「いいですか、兄者、ここに座りなさい」
 白虎は畳を指して、自分の膝をペチペチと叩いた。
「座ってるよ」
「そうじゃなくて、きちんと正座」
 妻だとかかわいいことを言いながら胡座をかいていた朱雀は、白虎の剣幕に押されて、素直に正座した。
「いいですか、兄者。あなたは、まがりなりにも、明乃庄月神一族の四天王の一人なのですよ」
「うん」
「そのあなたが、簡単に明乃庄を抜けられると思っているんですか」
「…………」
「抜け忍には玄武の兄者も厳しい処置を下しています。そうしないと、一族の規律が守られないからです」
 言いながら、興奮に染まっていた白虎の顔が次第に青ざめていく。
「たとえ兄者でも、抜けるとなったら……」
 声を震わせる白虎に、朱雀は、さすがに神妙な顔をして、
「ごめんな」
 うつむいて、ポツリとあやまった。
「お前に心配かけるのは、俺も嫌なんだけど……」
「兄者……」
「でも、俺、新三郎様と一緒にいたいんだ」
 顔をあげて、朱雀は、花がほころぶように微笑んだ。
「お前も、本当に好きな人ができたらわかるよ」
 言われて、白虎の目から、ぶわっと涙が吹き出した。
「シロ?」
 朱雀は慌てる。
「シロ、泣くなよ」
 白虎は、大粒の涙をこぼしながら首を振る。
 白虎にとって「本当に好きな人」というのは、実のところ、この綺麗で無鉄砲な兄に他ならない。
「なあ、泣くなって」
 背中をさすったり涙を拭ったり、なんとか泣き止まそうとしたけれど、白虎はますます激しく泣いて、朱雀は初めて見る白虎の年相応の泣き顔に、ただオロオロとするばかりだった。
 しばらくたって、ようやく白虎が静かになった。
「大丈夫か?」
 泣かしたのが自分だとわかっていて、朱雀は顔色を窺うようにして、首をかしげた。
「…………」
 白虎は、何度か小さくしゃくりあげ、真っ赤になった目を上げて朱雀を見つめた。
「……兄者は、そんなに、秀俊様のことが、好きなのですね」
「うん」
 迷いのない瞳が頷く。
「どこに逃げても、追われますよ」
「うん」
「幸せになれるかどうか、わかりませんよ」
「なるよ」
 朱雀は、にっこり笑った。
「新三郎様と一緒にいられれば、それが幸せってヤツだから」
 そこに、
「そういうわけには、いかないよ」
 二人のよく知る兄の声がした。
「青龍の」
「兄者」
 驚いて振り向くと、青龍の後ろには、玄武も家の主半兵衛もいた。
「朱雀、一族を抜けられるとは思うな」
「たとえ朱雀でも、抜け忍となればその命、貰い受けねばならん」
 三人からは、いつになく暗い気が立ち上っている。
 片膝立てた朱雀も、瞬時に、少年から忍びへとその「気」を変えた。
「もう一度言う」
 青龍は、低い声で、朱雀に向かって言った。
「おとなしく明乃庄に帰るんだ」
「できない」
「それでは、お前を討たねばならん」
 玄武の言葉に、朱雀は薄く笑った。
「覚悟の上さ」
 たとえ相手が兄、仲間、だとしても――
(これだけは、退けない)
 懐から、得物を取り出す。
「白虎」
 朱雀を見据えたまま、玄武が白虎を呼ぶ。
「お前も、朱雀を止めるんだ」
 白虎は、ぎゅっと拳を握り、朱雀を横目で見た。
 前を見つめる朱雀は、身体中から戦う気を発している。
「……不本意ですけど」
 白虎も立ち上がり、懐から飛び道具を取り出した。
 







「この雨だと、もう一日待ったほうがよさそうです」
 高倉源之丞が、濡れた袴の裾を気にしながら入って来た。
「そうか」
「江戸には、使いを出しておきますから」
「うむ」
「せっかくですから、名物の海の物でも取り寄せてもらいましょうか」
 気遣う源之丞に軽く頷いて、新三郎は強くなる雨脚の音に耳を澄ませた。大坂を出て十日、三河の国岡崎城下まで来て、激しい雨のために足止めを食らっている。
(家康が、私を拒んでいる――とは、考えすぎだな)
 ふっ、と口元をほころばす。
「朱雀……」
 小さく呟いてから、誰もいないことを確かめる。
「今ごろは、甲斐に着いたか」
 朱雀の足なら、十日もあれば往復もできよう。惟之助には、会えただろうか。
(朱雀)
 隠したくないに帯の上からそっと触れる。
 差し出された指、はにかんだ小さな顔が、よみがえる。
(騙されたといって怒るだろうか……)
 待っていろと言ったのは、一緒に江戸に来るというのを止めるため。


「秀俊様」
 源之丞が戻ってきた。新三郎の供を命じられた、気の好い若侍だ。
「食事を頼んでおきました。岡崎味噌で作った魚介汁は絶品だとのことですよ。それと、酒も少々。よろしいですよね。あっ、人足にもちゃんと振舞いましたよ」
 詳しい事情は何も知らず、珍しい旅を楽しんでいる源之丞。
「こんなに強い雨ですが、明日にはあがるだろうと宿の者が言っております。よかったですね」
「ああ」
 急ぐ旅ではない。相模の国を行き過ぎ、江戸に入れば、朱雀に嘘をついたことがはっきりしてしまう。
(朱雀、許してくれ)
 もう一度くないに触れて、愛しい名前を胸に呟く。
 武士の世界に育った新三郎は、忍びの世界の掟を知る由もなく、ただ朱雀は自分を待って鹿音谷にいるのだと思っていた。そして、全て終わった後は、また甲賀の里、明乃庄へ戻るのだと。
 







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