遠く雨の音が聴こえてきて、新三郎は顔を上げた。襖の向こうから淀殿の訪れを告げる声が掛かる。返事を待たずに、大坂城の女主人は煌びやかな着物の裾を引きながら現れた。 「仕度は済みましたか」 新三郎は、頭を垂れて静かに答えた。 「江戸に行く身なれば、婚儀は無用かと」 「今さら何を言うのやら」 淀殿は美しい眉を軽くひそめて、笑った。 「秀俊殿が言われたのではありませんか」 「それは……」 そうすれば、一度は屋敷に戻れると思ったからだ。 江戸に行って欲しいと告げられた日、新三郎は屋敷に帰って身辺を整理したいと願い出た。けれども、淀殿はそれを許さなかった。そんな時、田多倉正長から「江戸に行く前に碧子と婚儀を挙げて欲しい」とのたっての願いが届けられ、新三郎は屋敷に戻る言い訳として、それを淀殿に申し出た。 「碧子姫とは大変美しい姫だと聞いていますよ」 あっさりと婚礼を許した淀殿だったが、式は大坂城内で行われることになった。 「田多倉殿の考えはわかります。豊家と姻戚になりたいのでしょう」 田多倉正長は、つい最近になってから新三郎の秘密を知らされた。娘の碧子は、知らずとも新三郎の妻になることを心から望んでいる。新三郎は屋敷に戻ったらきちんと話をして、婚約は解消するつもりだった。今の新三郎に、妻は要らない。 「江戸に連れて行くことはなりませんが、私が悪いようにはいたしませんよ」 淀殿は、おっとりと微笑んだ。 ほんの数日前、残酷な言葉を紡いだ唇で、 「あなたは、私の大切な子です。どこにいても、母が見守っていますよ」 この上なく優しげに囁いた。 「碧子姫を見たか」 「ああ、少しだけだったが。聞きしに勝る美しさだ」 「私も見たかったな」 控えの間で、御傍仕えの用人たちが囁き交わしている。 大坂城の一室に設けられた婚礼の席に、田多倉家からは父親の正長しか同席を許されなかった。碧子の先に立って部屋に入って来た正長を見て、新三郎はわずかに眉を寄せた。 いつになく無表情で、生気が無い。 (緊張しているのか?) どこかギクシャクとした動きで畏まった正長の後ろから、城の腰元に付き添われた碧子が静々と姿を現した。 (姫……) 申し訳ない気持ちで新三郎は下を向いた。ここで夫婦の誓いを立てても、自分の気持ちは碧子には無い。形ばかりの儀式の罪の重さに、新三郎もまた身体が強張るのを感じた。ふと、その碧子から強い視線を感じ、伏せていた目を上げた新三郎は思わず息を呑んだ。 (朱雀……!) 美しい花嫁の姿で隣に座るのは、まぎれもなく朱雀だった。 (何故?) 慌てて再びうつむくと、心臓が激しく鼓動を刻む。 (どうして、朱雀がここに居る――) 田多倉正長を見ても、生気の無い顔で、何事も無いように座っている。 何かの術でもかけたのか。隣に向かって問うことはできない。 碧子と入れ替わった朱雀との婚儀は、めでたい席には似つかわしくない静けさの中で粛々と進んだ。 夜が更けて、新三郎は礼装を解いた。寝所には、夢まぼろしではなく、白梅の薄物をまとった朱雀が居た。 「どうして」 新三郎は、溜息のように呟いた。 会いたかった。 どうしても屋敷に戻りたかったのは、朱雀に会いたかったからだ。必ず戻ると約束した以上、どうやってでも戻りたかった。それがかなわぬと知ってからは、江戸に行った後、中国の故事に倣い魂魄となって会いに行こうとすら考えていた。 「新三郎様」 その愛しい朱雀が必死の瞳で見つめてくる。 「朱雀」 小さく名を呼ぶと、朱雀は耐えかねたように新三郎に抱きついた。 「新三郎様、会いたかった」 「…………」 自分も――という思いはその深さのあまりに言葉にならず、新三郎はただ朱雀の細い身体を抱きしめた。 しばらくの間、互いを確かめるように固く抱き合っていたが、新三郎はゆっくりと身体を離すと、 「お前は、いつもこうやって私を驚かせる」 小さく笑った。 「よく皆をだませたな」 「薬を使って術をかけました。それに城の者たちには、碧子姫の顔は知られていないようでしたし」 「ああ」 「隣のお付き役も術で眠らせています。ここの会話は誰にも聞かれません」 「……そうか」 新三郎は、朱雀の薄紅色に染まった頬を指先でそっと撫ぜた。 「よく来てくれた」 最後に顔を見ることができて嬉しい――口にこそ出ない、新三郎のその思いを深い瞳の中に見て、朱雀は新三郎の腕を掴んだ。 「新三郎様。今度こそ、一緒に逃げてください」 「えっ」 「江戸に行くのだと聞きました」 「朱雀……」 「殺されに行くようなものです」 「聞いているのか、私のことを」 新三郎の問いに、朱雀は曖昧に瞳を揺らした。実のところ、明乃庄から戻って来た白虎とはきちんと話をしておらず、皆が止めるのを振り切って田多倉の屋敷に入った朱雀だ。新三郎が淀殿の命を受けて江戸城入りをするという話は聞いたが、それ以上のことは知らない。 「でも、この時期に江戸城に入るなんて、人質になりに行くようなもんだよ」 少年の言葉に戻ってポツリと呟く。 新三郎は、その素直な言葉に微笑んで頷いた。 「そうだ。人質として行くのだ」 朱雀が、大きな瞳をさらに見開く。 「な、なんで」 自分で言ったはずが、信じられないように首を振った。 「なんで新三郎様が人質になるんだよ」 何故、人質に「なれる」のか。 「前から思ってたんだ。新三郎様と淀殿って、何があるんだ。淀殿って、新三郎様の何なんだよっ」 「朱雀」 興奮してつい声が大きくなる朱雀の唇に、たしなめるように指を立て、 「黙って聞いてほしい」 新三郎は、朱雀を見つめた。 「淀殿は、私の実の母。私は、秀頼様の双子の弟だ」 「え……」 新三郎はゆっくりと語った。 今まで誰にも話せなかった我が身の上。十五の春に知らされた事実。 「それまで、母は私を産んですぐに死んだのだと聞かされていたから、本当に驚いたのだ。自分が太閤殿下の子だと聞いてもよく分からなかったが、淀殿にお会いしたときには、これが母というものかと胸が震えた」 言いながらどこか寂しげな新三郎の横顔に、朱雀は胸を詰まらせた。 「それで、その母親に言われたから、人質になりに行くって言うのか」 そんなの変だ、と朱雀は言った。 「なんで母親が自分の子にそんなこと言うんだよ。実の子に、そんな……そんなこと、言えるんだよ」 「しかたがないのだ」 大坂は追い詰められている。 「私のことは、もう江戸でも大坂でも重臣たちには知られているらしい。大坂を守るためには、私が江戸に行くことが……」 一番良いのだと、新三郎は、どこか遠くを見るように目を細めた。 「あの日、十五の私は、淀殿のためになら命を捨ててもいいと思った」 新三郎の言葉に、朱雀は唇を震わせた。 「俺が、頼んでもだめなのか」 目の奥が熱くなる。 (好きだと言ったのに――) 「俺が、一緒に逃げてくれといっても、母親の方が、大切なのか」 (俺のこと、好きだって言ったくせに――) 朱雀は嗚咽を堪えるように、唇をきつく噛みしめた。 新三郎はその朱雀の頭を抱き寄せ、 「捨ててもいいと思った命が惜しくなったのは、お前のせいだ」 苦しそうな声に、朱雀は新三郎の胸の中で目を瞠った。 「新三郎様」 「死ぬことは、恐ろしくない。ただ、お前に二度と会えないと思うと、そのことが、死ぬこと以上に辛い」 新三郎が生まれて初めて口にする泣き言だった。 「新三郎様」 朱雀は、顔を上げた。 「だったら、一緒に逃げよう」 袷を両手で掴んで、かき口説く。 「俺なら、新三郎様を守ってやれる」 「朱雀……」 「誰が追って来ても、俺が全部やっつけてやるから」 朱雀は、必死に言い募る。 「なあ、一緒にまた旅に出よう。前みたいに」 その瞬間、大和路の初夏の風が新三郎の身体の内を吹き抜けた。二人で歩いた京への道。眩しい日差し、土の匂い。鈴女の笑い声が、鮮やかによみがえった。 「二人で……また、あの日のように……」 「ああ、そうだよ。二人でさ」 朱雀が新三郎を見上げて、潤んだ瞳を輝かせる。 「またお前は、茶店の前を通るたびに団子をせがむのだろうな」 新三郎は小さく笑った。 「もうしないよ。俺、もうそんなわがまま言わないから」 朱雀も笑った。 「なあ、だからこんなところさっさと出よう」 「朱雀……」 新三郎は、朱雀の身体を抱きしめ、そのまま布団に押し倒した。 「新三郎様?」 朱雀は、驚いて自分の肩口に顔を埋める新三郎を見た。 「あの」 「朱雀……好きだ」 「あ……」 鎖骨に口づけられて、朱雀はピクリと身体を震わせた。 「朱雀、朱雀……」 繰り返し名を呼びながら、新三郎の唇が朱雀の滑らかな肌を吸う。朱雀は、戸惑いながら新三郎の背を抱いた。 「あ……新三郎様、あっ」 薄い着物の前をはだけられ、朱雀は羞恥に頬を染める。 夢に見た、いや、それ以上に甘い愛撫に、朱雀は息を飲んでうっとりと瞳を閉じた。そして、閉ざした瞳ではもう見ることはかなわなかった――新三郎が静かに流した涙を。 『家康の首を取って賜もれ』 人質として江戸城に入れば、少なくとも一度は、家康と対面する機会が与えられるだろう。そのとき、家康の命を奪えと淀殿は言った。 『豊家の為、われの為』 たとえその場で切り捨てられようとも、そうすることが豊臣家のためだということを、新三郎は十分わかっていた。 |
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