信じられず朱雀は目を瞠った。溢れていた涙も止まってしまった。 (今、何て言った……?) 「お前が好きだ――朱雀」 新三郎の黒い瞳がまっすぐに見つめる。朱雀はようやくその意味を形となして、 「あ」 新三郎の胸に手をついて身体を離した。そのままうつむいて動けなくなる。 嬉しい――新三郎の告白に身体が熱くなるほどの喜びを感じた。けれども同時に、自分がほんの少し前まで夜叉王丸から何をされていたかを思い出してしまい、新三郎に合わせる顔を失ってしまった。自分のことを好きだといってくれる新三郎に、この汚された身体では触れられない。 「朱雀……」 そんな朱雀の態度を、拒まれたものと感じて新三郎は眉根を寄せた。 「すまない」 「新三郎様?」 「このようなこと、言うつもりはなかったのだ」 自嘲気味に口の端を歪め、いつもの新三郎らしくなく瞳を陰らせる。 「お前が、そんな顔するからだ」 「あ、あの」 「などと言うのは男らしくないな。……まさかこんな所まで来てくれるとは思わなかったから、つい……すまない、忘れてくれ」 「ま、待って」 朱雀は新三郎の袖を小さく掴んだ。 「あ、お、俺も……好きだよ。新三郎様のこと」 必死の想いで言うと、新三郎は戸惑うように朱雀を見返し 「では、伽を命じても良いか」 掠れる声で尋ねた。 ビクリと朱雀は身を硬くする。途方に暮れた瞳が新三郎を見つめて揺れる。 できるわけが無い、あんなことのすぐ後で――。 「すまない」 新三郎は、もう何度目かになる言葉を繰り返した。 「本当に、今夜の私はどうかしている」 今度こそあからさまに自嘲の顔で苦く笑い、 「朱雀、ここは危険だ。もう戻れ」 朱雀の肩を押し戻した。 「新、三郎様……」 押されて、名を呼ぶ唇が震える。 「さあ。見つからぬように、早く」 「い、一緒に」 「行けぬ」 「何故……」 朱雀は再び泣きたくなった。何故だなどと――理由は聞いたではないか。 「俺のこと、好きだって言ったのに」 一緒に帰ってはくれない。淀殿のため。 「淀殿って……」 (いったい、何なんだよっ) さすがに続く言葉は口には出せず、朱雀は唇を噛む。 「朱雀、私のことなら心配しなくていい」 ためらうように伸ばされた指が、朱雀の髪をそっと撫でた。 「近いうちに、戻れると思う」 いや、と新三郎は首を振って、 「少し、先になるやもしれぬ。けれども、必ず戻る」 「新三郎様」 「だから、心配するな」 でも、と言いかけた朱雀の耳にかすかな音が聞こえた。 何者かがこちらに向かっている。蔵の見張り役が起きたのか、それとも他の者か。 新三郎には何も聞こえなかったが、朱雀の顔色で理解した。 「行け」 朱雀はためらったが、一瞬だった。ここに居ては新三郎まで巻き込んでしまう。 「新三郎様、きっとですよ」 必ず戻る、と言った顔を目に焼き付けるように見つめて、 「ご無事で」 朱雀は闇に飛んだ。 新三郎の部屋からなるべく遠くに。朱雀は、暗闇を縫って駆けた。風を切る音がして、分銅の付いた細い鎖が飛んでくる。それを難なく避けて、朱雀は曲輪の外に出た。外に出ると、手裏剣が飛んできた。着物の裾も乱さずにトンボを切ってそれをかわすと、飛んできた方向にくないを投げた。小さなうめき声とともに、一人分の気配が消える。 (一、ニ……三人、か) 三人程度なら殺られるはずはない。いつもより身体は重かったが、ここで討たれるわけにはいかない。屋根に飛び移って、いつか転がった瓦の上をひた走る。身を隠す場所の無い所に出ると、追ってきた敵の姿もはっきりと現れた。大、中、小――と言ってしまえば安直だが、三人の体型はまさにそれ。顔を隠した黒づくめの忍び装束に、肩や腕には毛皮を巻いている。 「風魔か」 朱雀の呼びかけには応えず、三人は朱雀を取り囲んで、ジリジリと追い詰めるようにその輪を狭めた。朱雀はすばやく目を走らせて、 「はっ」 一番大きな男に向かって飛んだ。男が武器を出すより早く、朱雀のくないが男の太い首を下から上に掻き切っていた。 あとの二人が朱雀めがけて手裏剣を放つ。 「ぐふっ」 味方の手裏剣を腹に受けて、既に死んでいるはずの男が大量の血を吐いた。その間に朱雀の身体は逆方向に飛んで、宙返りとともに一番小さな男の額を割っている。これは声も出さずに倒れた。 「あと一人」 朱雀の声はするけれども、その姿は見えない。隠れる場所も無いはずなのに。残された男は、広い屋根の上で焦って四方を見やる。 「ここだよ」 あろうことか、自分の影の中から現れた朱雀に喉を突かれた。 「ぐぁ」 宙を舞った男は背中から真下に落ちていった。 わずかの間に四人の忍びを倒した朱雀は、返り血一つ浴びず綺麗な姿のまま、大坂城の天守閣に立つ。見下ろすと、死体は全て消えていた。 「すばやいな」 風魔が、死んだ仲間を人目に晒さないように片付けたのだ。けれども、これ以上追って来る様子は無い。 「このまま帰ればよし、ということか」 朱雀はちらりと新三郎のことを考えたが、唇をきゅっと結んで瓦を蹴った。 「兄者っ」 前もって約束していた半兵衛の屋敷で、白虎はまる二日眠らずに待っていた。 「おかえりなさい。大丈夫ですか」 ずぶ濡れの朱雀に、慌てて駆け寄る。 「ああ、ちょっと、疲れた」 風魔との戦いではない。精神的な疲れから、朱雀は顔を青白くしていた。 「秀俊様とは?」 一人で帰ってきたことを心配して尋ねるが、 「会えた」 それきり口を閉ざした朱雀に、白虎は何も聞かないことにした。 「身体が冷えています。湯を使ってください」 勝手知ったる様子で甲斐甲斐しく風呂の準備をした。 「朱雀、戻ったのか」 主の半兵衛も出て来た。 「青龍は玄武に呼ばれて里に帰ったぞ」 「うん」 この場にすぐ上の兄がいないことにホッとした。あの兄にだけは、嘘がつけない。 「ずい分良い物を着ているな」 朱雀の濡れた着物を見て、半兵衛は目を丸くした。 「お城のお姫様のだよ」 「はあ、なるほどね。勿体無いな、濡れてしまって」 「乾かせばいい。半兵衛にやるよ」 「俺が着るもんか」 「誰かいい人にあげればいいだろう」 「そんな綺麗な着物の似合うヤツなんざ、いねえよ」 半兵衛は、笑った。 「お前が着た方がよっぽど似合う」 「…………」 朱雀は応えなかった。応えなかったが、二度とこの着物を着ることは無いと思った。淀殿に関係するものを身につけるのは、今となっては、たまらなく嫌だ。 (淀殿……) 新三郎とどういう関係があるのだろう。自分のことを好きだといいながら、淀殿のそばを離れられない訳とは何だ。 思いつめる朱雀を白虎が呼んだ。 「兄者、お湯の準備ができましたよ」 「あ、うん」 風呂に入るために裸になると、夜叉王丸のつけた紅い痕が目に入って、朱雀は眉間にしわを寄せた。 (ちくしょう) 騙されていいようにされた自分が、情けなく、悔しい。 そして、あの瞬間の戸惑いを思い出す。 『伽を命じても良いか』 (伽……) 新三郎は、そう言った。 (新三郎様と……?) かっと頬に血が上る。 夜叉王丸にされたようなことを新三郎にされたら―― (恥ずかしくて、死んでしまう) 朱雀は、湯に顎まで浸けて、膝を抱えた。 『お前が好きだ――朱雀』 新三郎の声がよみがえって、朱雀は火照る頬を押さえた。嬉しい。けれども、その言葉にちゃんと応えることができなかった。それというのも、あの男のせいだ。 (夜叉王丸……今度会ったら、本当に殺してやる) そのころ、その夜叉王丸は大坂城内の一室に居た。 「やってくれたな」 ボソリと言われて、おかしそうに口の端を上げる。 「何がだ」 「お前が連れてきたネズミが仲間を四人消していった」 不機嫌な顔であぐらをかいた男の髪は赤く、目の色も常人と異なっている。風魔の小太郎、風魔一族の頭である。 「ネズミごときに始末されたなら、それまでの者だ。相変わらず手下に恵まれていないな」 「ぬかせ」 小太郎は、ひょうたんごと酒をあおった。夜叉王丸にも突きつけるように差し出したが、首を振って断られる。 「何が入っているか分からないからな」 「俺が今飲んだだろう」 「お前の口があてになるか」 冷たく言われて、 「けっ」 横を向くと、これ見よがしにまた口を付けた。 風魔の小太郎と伊賀の夜叉王丸、何故二人が一緒にいるのか。豊臣家に味方する小太郎と徳川に雇われた夜叉王丸とは、本来敵同士のはずだ。 「しかし、お前が今さら大坂方につくとはな」 夜叉王丸は、小太郎の横顔を見ながら言った。鼻が高く、彫りが深い。 「しかたないさ、我らは主命が絶対だ」 「お前の今の主というのは、誰だ」 「それは言えん」 「そうか」 北条家に関係のある者には違いないだろうが。 「いずれにしても、私にとって敵だな」 夜叉王丸の言葉に、 「俺は、お前と戦う気はない」 小太郎は慌てて言った。 「戦う気がなくとも、主の命令なら従うのだろう」 「そんな命令は下されない」 小太郎は、手の甲で唇を拭って、ニッと笑った。 「そんなことをしたら、貴重な戦力をむざむざ捨てるようなものだからな」 「ふふ……」 「それよりお前こそ、どうして徳川についた。伊賀の夜叉王丸は誰にも雇われないんじゃなかったのか」 「雇われたわけじゃない。手を貸してやっているだけだ」 「ほう」 「あの狸爺が、面白くてね」 「その狸の首を狙えと言われたよ」 狸とは、言わずと知れた徳川家康。 「そう簡単にはいくまいよ」 「分かってる」 小太郎は肩をすくめた。こんな仕草が似合うあたり、なりは大男だが、子供に見える。 「あの男の首も取れと言われたのか」 夜叉王丸の言う「あの男」というのが石見曲輪の人物と知って小太郎は肯いた。 「ああ、取り下げられたがな」 「淀殿か」 「知らぬ」 本当に知らない小太郎は、素直に首をかしげた。 いったん出た命令が、理由も告げられずに取り消しになることはよくあった。その事情まで知る必要は無い。 「しかし、お前もあの男の首を狙っていたとはな」 あぐらの膝を立てて、小太郎は夜叉王丸を見た。 「あの浅田新三郎秀俊というのは、何者なのだ」 「知らぬのか」 夜叉王丸は小太郎を横目で見た。自然と流し目になり、小太郎はその顔にドキリとする。 「知らん。知らんよ」 「ふふふ」 「知っているのなら、教えろ。勿体付けるほどのことでもなかろう」 小太郎の言葉に、夜叉王丸は柳眉を軽く上げた。 「勿体付けたくなるほどのこと――かもしれぬなぁ」 「どういうことだ」 夜叉王丸は、少し考える風に黙っていたが、ゆっくりと小太郎に美しい面を近づけた。小太郎の顔が赤くなる。 「あの男は、淀殿の子だ」 |
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