「秀俊様」
 不意に、新三郎を呼ぶ声が聞こえた。置いていかれた碧子が、待っていられず捜しに来たのだ。朱雀を抱いていた新三郎の腕が、ゆっくりと離れた。
「行くのか」
 朱雀は声を震わせた。潤んでいた瞳はそのまま涙を浮かべたが、それは悔し涙だった。
「あの姫のこと、好きなんだな」
 真っ直ぐな問いかけに、
「言ったであろう」
 新三郎は苦く笑った。
「私は誰のことも、好きにはならない」
 朱雀の肩がビクリと震える。新三郎はそれに気付いて目を伏せた。
「……好いたとしても、甲斐がないのだ」
「ど…して……」
 朱雀は納得できず、新三郎の袖を掴んだ。
 じっと自分を見つめる瞳に耐え切れず、
「朱雀、私は明日大野殿に会って話をして、そして、それから淀殿にお会いする」
 新三郎は話を変えた。
「この屋敷で待っていてほしい」
 その言葉に、朱雀は顔色を変えた。
「一緒に行くって言ったじゃないか」
「状況が変わったのだ」
「嫌だ。俺も行く」
「無理だ、朱雀 ――わかってくれ」
 新三郎は、静かに微笑んだ。
「必ず戻って帰る」

 そう言ったはずの新三郎だったが、登城したきり、帰ってこなかった。



「むちゃです。兄者」
「うるさい。とにかく、大坂城の絵図面を出せ」
「全部はわかっていないのです」
「わかってるとこだけでいい」
「そんなんで忍び込もうなんて、むちゃだと言っているんですっ」
 聞き分けの無い兄に、白虎は珍しく大声をあげた。
「だって、こうしている間にも……新三郎様が……」
 言葉を詰まらせうつむく朱雀に、白虎は慰めの言葉を捜したけれど、
「まだ、秀俊様の身に何かあったと決まったわけじゃありませんよ。ほら久しぶりにお城にお入りになったから、色々とお仕えごとがあってお帰りが遅くなってるだけとか……」
 自分で言って、空々しさに語尾が消える。
「それなら、新三郎様なら、そう連絡をよこすはずだ。何も無いというのがおかしいじゃないかっ」
 白虎もまったくその通りだと思うので、返す言葉が無い。
「とにかく、俺は、新三郎様を助けに行く」
「兄者……」
 



 城造りの天才と言われた秀吉がその巨万の富を投じて、石山本願寺の跡地に作らせた大坂城は、三国無双の巨城であった。五重の天守閣が堂々そびえる本丸は三段の複雑な曲輪で囲まれ、内堀、その外周に二の丸、さらにそれを囲む外堀があり、その外に三の丸、惣構(そうがまえ)
 複雑に組まれた石垣や広く深い堀が敵の侵入を固く拒む、まさに難攻不落の要塞を見上げて、朱雀は眦をきつくした。
(あの中に、新三郎様がいる……)

「兄者、本当に行くのですね」
「ああ」
「城内にも忍びの者が大勢いるはずです。油断なさらないように」
「わかってる」
「堀を泳ぐならこれを」
 忍びが水に潜る時に使う竹筒を渡そうとしたけれど、
「ばあか、俺を誰だと思ってる」
 朱雀は白虎の額を弾いた。
 だてに子供のころから毎日湖に潜っていたわけではない。朱雀は鳥の名を持ちながら、水に入っては魚のように泳いだ。初めて会った日、新三郎が見まちがえたほど。
「それでは、これを」
 白虎は、油紙に包んだ小さな玉を渡した。
「何だ」
「狼煙です。本当に危なくなったら、これを使って知らせて下さいね」
 どこにいても駆けつけると言わんばかりの顔に、
「そんなことにはならないように気ぃつけるよ」
 安心させるように笑いながら、朱雀はそれを懐にしまった。白虎はそれでもまだ心配そうにしていたが、
「青龍の兄者には適当に言ってごまかしとけよ」
 言い終えると同時に、朱雀は闇の中に消えた。


 長い堀を泳ぎ渡り、石垣に手をかけると、朱雀はするするとよじ登った。 斜めに反った岩肌は、普通の人間ではとても登ることはできないが、朱雀は指の先に仕掛けた鉤爪で器用に取り付いた。天井にも張り付ける忍びの者だけが、この砦を侵せるのだ。それだけに忍びに対しての用心は幾重にも張り巡らせてあった。朱雀はその罠を一つ一つ見破り、本丸へと近づいていったが――
(おかしい……)
 野性の勘が、危険を知らせた。
(上手く行き過ぎている)
 いくらなんでも、天下の大坂城の本丸に、こんなにたやすく忍び込めるはずが無い。
 もともと忍び込む気満々の朱雀だが、こうすんなり行くとは思っていなかった。駆けながら、一瞬躊躇したその瞬間、
「チッ」
 四方から、朱雀めがけて矢が降ってきた。
 間一髪で逃れた朱雀は、屋根に飛び移ろうとした、そこにいきなり火の手があがる。
「なっ」
 まさか、本丸の中で火薬を使うなどと――驚く朱雀の目の前で、その火は一瞬で消えた。代わりに自分に向かって火の縄が飛んでくる。トンボを切ってそれをかわすと、かわした先にも炎が浮かぶ。
(まさか、風魔か)
 火薬を得意とする一族の話を朱雀も聞いていた。かつては北条家につかえた素性の知れぬ闇の集団。その頭はどこか異国の者だという噂もある。不気味な存在だ。
「くっ」
 どこからとも無く火の雨が降る。それをきれいに避けられるのも朱雀ならではだが、まったく姿を見せない相手に、朱雀はしだいに焦れてきた。飛んでくる火の方角からあたりをつけて投げる手裏剣も、無駄に闇に吸いこまれている。
 炎を避け、複雑に組まれた曲輪に沿って走りながらも、しだいに追い詰められている気がする。このままでは、じきに敵の術中にはまってしまう。
(いっそ、あの中に入るか)
 天守閣の中では炎はつかえまい。朱雀は思い切って飛ぶと屋根に取り付いた。そのまま天守閣目指してひた走ろうとした時、
「うっ」
 闇から伸びた腕に、身体を抱きしめられるように拘束され、次の瞬間屋根の上を転がった。同時に、ダン、ダン、ダン、ダン……と、続けざまに、激しい鉄砲の音がした。




「愚か者よの」
 涼しい顔で目の前にいる人物が信じられず、朱雀は大きな目を瞠って
「何のつもりだ、離せっ」
 大声を出した。
「そんな声を出さずとも聞こえる。離しても良いが、さすがにここから落ちれば死ぬぞ」
 いつ誰が用意したのか大きな凧のようなものにぶら下がって、夜叉王丸と朱雀は大坂城から遠ざかっている。
「なんで、お前がっ」
「お前が忍んでくることなど、読まれていたのだ。あのまま進めば、待ち受けていた鉄砲で身体中に穴が開いていた」
「…………」
「さぞ風通しがよくなったろう」
 朱雀は、転がりながら聞いた鉄砲の音を思い出し、夜叉王丸の言っていることは
(嘘ではない……)
 と、唇をかんだ。
「……なんで」
「ん?」
「何で、俺を助けた」
 屈辱だ、と、言わんばかりに声を震わせる。
「言ったであろう、かわいいおぬしが気に入ったのだ」
 耳元に唇を寄せられて噛まれた痛みを思い出し、朱雀はビクリと震えると、激しく身を退いた。はずみで凧が大きく揺れる。
「暴れるな、危ないではないか」
「おまえがっ」
 恨みがましくなじると、
「ふ、ふふふ……」
 闇に映える白い顔は、紅を塗ったような唇の端を上げ、妖しい笑みを浮かべた。
「続きは、降りてからしようぞ」
「ふざけるな。降りたらその喉、掻き切ってやる」

 凧は、地上で誰かが操っていたとも思えないが、上手い具合に北の山地に飛んで、朱雀と夜叉王丸はそれぞれ高い樹の天辺に飛び降りた。
「約束どおり、切ってやる」
 言うなり刀を振り回す朱雀。
「命の恩人に対してそれか」
 夜叉王丸は、楽しげだ。
「何が恩人だ」
 叫んで、くないを投げつける。
「せっかくお城に入ったのに、またやり直しだっ」
 鉄砲のことなど忘れたように、朱雀は夜叉王丸に毒づいた。
「すぐそばまで行ったのにっ」
 新三郎の、と言葉には出さなかったが、
「あの男なら無事だ」
 夜叉王丸はくないを一つ一つ扇で弾きながら、しらと答えた。
「えっ」
 朱雀の動きが止まる。地面に降り立つと、夜叉王丸も目の前に立った。
「知っているのか、新三郎様を」
「無論」
「ど、どこにいるんだ」
 朱雀は、さっきまで敵と戦っていた相手を、すがるように見つめた。
「さあ」
「さあじゃなくて、言えっ」
 夜叉王丸の袷を両手で掴む。
「何故、教えねばならぬ」
「それは……」
 朱雀は泣きそうな顔になった。
「いいじゃないか、教えろよっ」
 子供のように駄々をこねる。
「新三郎様は、無事なのかっ」
 夜叉王丸は、そんな朱雀の顔をしばらく楽しげに見つめて、
「無事だと、さっき言ったであろう」
 意外にも優しい口調で言った。
「淀殿の目がある限り、大坂はあの男を殺したりはできぬ」
「どういうこと?」
 朱雀は、首をかしげる。夜叉王丸はただ笑うばかり。
「おぬしは、何も知らぬのだな」
「知らないって、何をだよ」
 思わせぶりな言葉に、朱雀は夜叉王丸の胸をつかむ手に力を込めた。
「例えば、あの男が淀殿の情夫で、夜な夜な寝所に侍っていると聞いたら?」
「え……」
 虚を突かれて、朱雀は途方にくれたような顔になった。
「う、嘘だ……」
 ずいぶんしてから呟いた言葉にも、力が無い。

『淀殿も、そうお考えなのか』
『淀殿に会って、誤解を解かねば』
『淀殿にお会いする』
 いつもいつも新三郎の口から聞かされた『淀殿』――噂では、たいそう美しいかただという。
『……好いたとしても、甲斐がないのだ』 
 あれは、誰のことだった――?

「嘘……」
 朱雀の手から力が抜けた。
 胸のうちに抱いていた新三郎の凛々しくさわやかな笑顔が、湖面に石を投げ込んだときのように、ゆらゆらと揺れて散っていく。
(新三郎様……)
 無意識に朱雀は、自分の痛む胸を抱いた。

「会わせてやろうか」
 不意に聞こえた言葉がすぐには信じられず、朱雀は目の前の冷たい美貌を見つめた。
「できるの?」
「方法ならある」
「でも……何で、俺……」
 昨日まで敵だったのだ。いや、今の今まで――。
「言ったであろう、お前のことが気に入ったのだと」
「そんな話じゃ信じられない」
 睨み付けて、首を横に振る。
「ふふ、では本当のことを言おう」
 夜叉王丸は長い指で朱雀の後れ毛を撫で付けて言った。
「風魔が気に入らぬのだ」
「何?」
「見たであろう、本丸の奴ら」
 朱雀は黙ってうなずく。
「家康に誘われたときには応えなかったのに、今ごろ大坂についている阿呆の集団だが、あそこの頭領にはちと恨みがある」
「恨み?」
「ああ、そやつの所為で以前、酷い目にあった」
 言葉と裏腹に、夜叉王丸はおかしそうに目を細めた。
「風魔の頭領、って、風魔小太郎?」
「代々その名だな」
 異国から来たという噂の男。その男と夜叉王丸に、どんな関係があるのか。
「小太郎の鼻をあかすため、おぬしに手を貸してやろう」 
 







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