朱雀は正面の門から戻ったけれども、青龍と白虎はあえて外から屋敷に忍び込んだ。夜叉王丸の話を聞いた為である。

「簡単に忍び込めましたね」
「ああ、秀俊殿にお話して、用心していただかないと」
「兄者からの伝言も、この屋敷の中で話さない方がいいのかも」
「うむ……」
 ところが二人の心配をよそに、新三郎は涼やかに笑った。
「それは気を使わせてすまない」
 そして、自分のいる部屋を見回して言った。
「たしかにここで話をするのは、往来で話すのと変わらないだろうな」
「秀俊様」
 それでは困る、と言う顔の白虎に、
「それでは、場所を変えよう」
 新三郎は微笑んで立ち上がった。

 
 新三郎が朱雀たち三人を案内したのは、離れの和室だった。
(ここで?)
 話をするのかと思えば、新三郎は柱の洞に懐から取り出した木型を差し込んだ。どこからか音が聞こえてきて、三人は無意識に身構えた。
 新三郎が床の間の掛け軸をずらすと、ぽっかりと穴が開いている。
「一人ずつしか入れない。気をつけて入ってくれ」
「隠し扉……」
 朱雀が呟く。
「それだけではないよ」
 青龍、白虎、朱雀と続き、最後に入った新三郎は何をしたのか再び扉はピタリと閉じ、狭い通路は墨を流したように真っ暗になったが、闇に慣れた忍びの目には支障ない。新三郎もまた慣れた足取りで進む。わずかも歩かないうちにぽっかりと明るい部屋に出た。
「ここ?」
 話をするにはひどく狭い部屋だ。
「いや」
 新三郎が壁の綱を引くと、
「あっ」
「これは」
 足元がぐらりと揺れて、妙な浮遊感。
「部屋が、動いている」
 明らかに下に向かって移動している。
「さあ、着いた」
 入口が再び開き同じように外に出ると、最初に入った離れのそれと寸分たがわぬ瀟洒な和室。
 朱雀と青龍は、狐につままれたような顔でお互いを見た。
「同じ部屋ではありませんね」
 クンと白虎が鼻を鳴らす。
 朱雀も、わずかながら空気が違うことを感じた。
「この部屋には窓が無い。天井の上も岩なのだ」
「地面の下に隠し部屋ですか」
 青龍が感嘆の声を上げる。
「ここなら誰に聞かれることも無い」
「確かに」
「屋敷に忍び込み易くしているのは、むしろわざとそうしているのですね」
 白虎が天井を見上げてつぶやいた。
「さて、玄武殿からの話を聞こう」





 青龍が話し終るのを、新三郎は最後まで口を挟まず聞いていた。わずかに伏せた目の奥には色々な感情が浮かんでは消えたが、最後まで取り乱したりすることはなかった。代わりに――、
「待てよ、兄者」
 叫んだのは、やはり朱雀だった。
「それじゃあ、秀頼公が新三郎様の命を狙ってるってことじゃないか」
「兄者、お静かに」
 白虎が朱雀の袖を引くが、朱雀はかまわずに声を張り上げる。
「徳川から狙われるのはわかる。でもなんで大坂までっ。大野様が怒ってるのは俺が一条家の連中を殺ったからだろ? それだって夜叉王丸に、徳川に、はめられたんだ。新三郎様は豊臣家のために働いているのに、どうして大坂から、秀頼公から、命を狙われるんだよっ」
「朱雀。まだはっきりそうと決まったわけではない」
 青龍も困った顔でたしなめる。
「だって秀頼公の忍びがそう言ったんだろ。おかしいじゃないかっ。おかしいよ、そんなのっ。何で」
「朱雀……」
 新三郎が静かな声をかけると、ようやく朱雀は口を閉じた。泣きそうな顔で新三郎を見る。
 新三郎は、小さく微笑んで見せた。
「秀俊様……」
 青龍が言い辛そうにうつむいて、膝の上の拳を握り締めた。
「我々が知りたいのもそこなのです。何故、秀頼公は貴方様の命を奪おうとなさるのでしょう。いえ、まだ本当のところはわかりません。先ほど申し上げたとおりです。けれども、秀頼公直属の忍びの一人が貴方様の首を取るよう言いつかったという話は、おそらく事実です」
 新三郎は黙ったままだった。
「貴方様が大坂を裏切って徳川についたとは考えられない。徳川家も貴方様の首を狙っています。その為に夜叉王丸が雇われたとも」
 夜叉王丸と聞いて、朱雀の頬がピクと痙攣した。
「貴方様は、徳川からも大坂からも狙われるおひととなった」
 青龍は顔を上げ、じっと新三郎を見た。
「貴方様には何か――私どもに隠しておいでのことがおありですね」
「青龍殿」
 新三郎はゆっくりと首を振った。
「何も申せぬ」
「秀俊様」
「すまない」
 頑なに口を閉ざした新三郎に、それ以上何も聞けず青龍は頭を垂れた。朱雀は唇をかんで、白虎はそんな兄の横顔を心配げに見つめた。




「朱雀、その耳はどうしたのだ」
 隠し部屋から出るときになって、新三郎が朱雀に尋ねた。髪を下ろして隠してはいたが、白い布を貼り付けたそこは、明らかに怪我をしていると知れた。
「……犬に噛まれました」
「犬に?」
 新三郎は驚いて目を丸くする。朱雀ともあろうものが、犬に耳をかじられるなどという失態をするだろうか。
「いったい、どうして」
 思わず伸ばされた手を、朱雀は振り払った。
「あ……すみ、ま、せん」
 顔を赤くしてうつむく朱雀。新三郎は拒まれた手を宙で握り締めた。
 奇妙な間が生じてしまったその時に、
「さあ、秀俊様、早く戻らねば、家中の人々が心配されます」
 白虎のやけに元気な声がその場を救った。
「ああ」
 微苦笑して、新三郎は朱雀に背を向けた。朱雀は顔に血が上り、傷ついた耳が疼くのをこらえた。
 



「秀俊殿は何を隠していらっしゃるのだろう」
 屋敷の屋根の上で、大きな月を見上げながら青龍がポツリと言うと、
「さあ」
 隣で白虎が同じ月を眺めて首をかしげた。
「たぶん、とても大きな秘密があるのでしょう。あの部屋を見てもわかります」
「そうだな」
 あれほど大掛かりな隠し部屋を作らなければならなかった訳があるのだ。
「気になるが、話していただけないならしかたないな」
「ええ」
 うなずきながらも白虎は、別のことを気にしていた。
 単純で、真っ直ぐで、乱暴者で、ひどくかわいい、すぐ上の兄のこと。



 その朱雀は、自分用に与えられた部屋で眠れない夜を過ごしていた。

 色々なことがありすぎた。夜叉王丸のことも、青龍から聞いた話も、朱雀の心を乱すのに十分だったが、目を瞑って浮かんでくるのは、やはり新三郎と碧子のこと。
(今ごろ二人は……)
 一つ屋根の下に許婚同士がいるのだ。朱雀は自分の勝手な想像に傷ついて、知らず涙を流した。自分のこめかみを濡らしたものに驚いて起き上がる。慌てて拭いて、そして普段ならとても似合わない溜息をついた。
「俺、新三郎様のことが、好きなんだ」
 口に出してみるとすべてが腑に落ちた。この胸の苦しさの理由(わけ)も。
 旅の間の出来事が次々思い出され、新三郎の様々な顔や言葉が浮かび、朱雀は、
(あのまま、ずっと二人で旅していられたら良かった……)
 両手のひらで目を覆った。

 ふと、一つの考えが頭に浮かんだ。
「二人でずっと……旅」
 新三郎は、徳川からも豊臣からも命を狙われているという。その理由はともかく、それならば、ここにいては危ないのではないか。自分なら、追われる新三郎を守ってやることができる。子供らしい発想だが、朱雀は真剣だった。
 思いたったらじっとしていられず、朱雀は寝所を出た。畳敷きの広い廊下を渡り、新三郎の部屋に向かう。そして新三郎の部屋にあと少しと近づいたとき、女中二人に前を塞がれた。

「どちらに行かれます」
 冷たい声で咎められたが、朱雀は怯まず、
「新三郎様のお部屋だ」
 睨み返すと、女二人は声を震わせた。
「新三郎様などと」
「なんと無礼な」
 無視して通り抜けようとすると、
「お待ちなさい。ここから先は通しませぬ」
 二人がかりで腕を取って、朱雀の前に回った。
「若殿様の所へは、今、姫様がおいでです」
「まさかそのお二人の寝所に、割り込もうなどと考えているのじゃあるまいな」
 年配の女中の下世話な物言いに、朱雀の顔に朱が散った。
「違う。俺は、大事な話があって」
「話なら、明日になさいませ」
「そう、稚児風情が、姫様の邪魔をすることは許さぬ」
 朱雀が自分を俺と呼んだことも耳に障ったらしく、
「少し顔がきれいだからと、どこの馬の骨とも知れぬ子供を傍において、若殿も物好きな」
 女中は、これ見よがしに袂で鼻を押さえた。
 朱雀は、カッとしたけれど、女相手に暴れるわけにもいかず、踵を返した。
(ちくしょう)
 悔しさに唇をかんで、朱雀は庭に降りた。とてもこのまま部屋に戻って眠ったりできない。

『若殿様の所へは、今、姫様がおいでです』

 想像していた通りだったが改めて聞かされると、身体中炎に焼かれるような思いがした。

 池のほとりに立って暗い水を覗き込む。夜だからか、昼間は美しい鱗を煌かせていた鯉の姿は一匹もない。何か投げ込んでやるものはないかと首を巡らしたとき、
「あっ」
 新三郎が、すぐ後ろに立っていた。
「どうしたのだ」
 微笑む新三郎に、朱雀は何も言えず、ただ大きな瞳で見つめ返した。
「松緒たちと揉めていただろう。部屋まで聞こえてきた」
「…………」
「私に話があったのではないか」
 最後まで言わせず、朱雀は新三郎の胸に飛び込んだ。新三郎の着物の袷を握り締めて、
「耳……噛まれた、の」
 口から出たのは、自分でも思いがけない言葉だった。
「俺の耳、噛んだの、夜叉王丸なんだ」
「え」
 新三郎は、胸の中の朱雀をどう扱っていいかためらっていたが、その言葉に固まってしまった。
「夜叉王丸に、噛まれた」
 繰り返し言った朱雀の声には、どこか甘えた響きがある。
「……何故」
 新三郎は、ようやく声を絞り出した。
「何故、そのようなこと」
 耳を噛むという行為に淫靡な気を感じ、新三郎は胸を騒がせた。
「俺のこと、気に入ったって言った」
 朱雀は、自分が何故こんなことを言い出しているのかわからない。わからないまま、新三郎の胸に傷ついていないほうの耳をすりつけ、言いつのる。
「俺に、自分のところに来いって……」
「朱雀」
 新三郎の両手が、朱雀の肩を抱く。
 朱雀は、広い胸の中で顔を上げ、新三郎を見つめた。
「夜叉王丸に……」
 黒目がちの瞳が潤み、月を映して妖しくきらめく。
「口も吸われた」
 新三郎の両手に、ぐっと力がこもった。
 朱雀の薄く開いた薄桃色の唇に目が吸い寄せられる。

 






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