翌日、登城の仕度を整えるために久しぶりに自分の屋敷に戻った新三郎を思いがけない人物が出迎えた。 「秀俊殿、お帰りか」 「これは、正長殿」 田多倉正長。幼き頃は秀吉の側小姓としてその才知を愛でられ、長じては朝鮮出兵時にめざましい働きをし、十万石の大名となった名将である。かつての美丈夫も、今では鬢に白いものが目立つようになっている。 「留守中にあがりこんですまぬ」 「とんでもございません。お久しぶりでございます」 新三郎は丁寧に頭を下げた。 「どうしても伝えておきたき事があって、な」 「ご心配をおかけしてしまったようです」 新三郎は微苦笑してみせた。 「あらぬ誤解も生んでいるようなので、至急、淀殿にお目通りをと願っております」 「そのことよ」 正長は眉間のしわを深くして、 「今しばらく、登城を控えていただきたい」 「えっ」 「いや、それが御身のためなのだ」 なだめるように言った。 新三郎の後ろに控えていた朱雀は、行きがかり上、このやり取りを聞いてしまう。 「秀俊殿、この者は」 正長が朱雀に気付いて尋ねると、新三郎は振り向いて 「かまいません。信頼できる者です」 朱雀の瞳を見つめた。今日は小姓姿の朱雀はペコリと頭を下げる。 「それより、登城を控えろとおっしゃるのは」 「うむ。実は一条殿から大野殿に貴殿の話が伝わり――」 大野治長の誤解を解くまでは、城に入ると新三郎の命が危ないのだと言う。 「それほど……」 酷い話になっているのかと、新三郎は青ざめた。 けれども心配そうな朱雀の視線を感じて、無理に平静を装う。 「まずは大野様にお会いすべき、ということですね」 「私も間に立ちたいが、なにぶん」 正長は、大野治長と仲が良いとは言えなかった。 「淀殿は」 「もちろん、貴殿のことは信頼している」 正長はうなずいたが、 「ただ、秀頼公が」と、言葉を濁した。 「秀頼公が?」 新三郎はオウム返しに訪ねて、眉を寄せる。 「いや、これはまだ申し上げることではない」 「何か」 「すまない。まずは大野殿と会って、それからだ」 「……そうですか」 新三郎は、気にはなったけれども、それ以上追求しなかった。 口を滑らせてしまったことを後悔した正長は、場をつくろうように視線をさまよわせた。 「実は碧子も心配して来ているのだ」 「碧子殿が?」 新三郎が驚いて目を瞠る。 「誰か」 正長が声をかけると、待ち構えていたかのように襖が開いた。奥女中たちを従えて一際華やかな着物を羽織った姫が姿を現す。 「秀俊様」 瞳を潤ませ小走りに寄ってくる姫がそのまま自分に縋り付くのを、新三郎はどうして良いかわからないまま抱きとめた。困ったように正長を見ると、 「すまぬ。どうしても一緒に行くといってきかなくて、な」 正長は父親の顔で苦笑いした。 「悪いお噂があると聞き……碧子、胸がつぶれる思いに眠れませんでした」 碧子は新三郎の胸で、袂で顔を覆うとヨヨと泣いた。 「それは……すみません」 新三郎の手がそっとその肩を撫でるのを見て、 (誰だよ、この女……) ただならぬ様子に、朱雀の胸が重苦しくなる。 あまりにじっと見つめていたからだろう、ひとしきり新三郎の胸で甘えていた碧子が、朱雀の視線に気付いて振り向いた。 「秀俊様、この者は?」 父親同様、誰何する。訝しげに寄せられた眉に、朱雀の目にも剣が浮かんだ。 「私の小姓です」 「小姓?」 碧子は新三郎の旅の本当の理由を知らない。当然、この小姓が甲賀一の使い手で、新三郎の身を守るために使えている忍びだなどとは知る由もない。ただ、ひどく綺麗な顔をしているのが単純に気に障った。 「今まで、そのようなもの、側に置かれませんでしたのに」 「旅の間は何かと不自由で」 言葉少なに理由を言えば、碧子は新三郎に寄り添い、 「そうでしたのね。でも、もう必要ありませんわ。わたくしが身の回りのこともすべていたしますゆえ」 甘えた口ぶりにも、美しい小姓への牽制が滲んでいる。 「碧子、もう良いだろう。まだ我らは話があるのだ」 正長が取り成し、碧子は渋々新三郎から離れた。 気取ったそぶりで着物の裾をつまむとヒラリと翻して、しずしずと部屋を出て行く。 その後、正長と新三郎が打ち合わせをする間ずっと、後ろに控えた朱雀は胸苦しい思いに耐えていた。 「さっきの姫は何だよ」 正長がいなくなるとすぐに朱雀は口を開いた。 新三郎は、一瞬間を置いて、 「田多倉正長殿のご息女、碧子殿」 背中を向けたまま、静かに答えた。 「私の許婚(いいなずけ)だ」 (許婚?!) 朱雀の大きな目が見開く。 「許婚がいるなんて、言わなかったじゃないかっ」 当然自分は知っているべきだといわんばかりの口調に、新三郎はうつむいてわずかに微笑んだ。 「家同士が決めた相手がいるのは、武家では当たり前のことだ」 「そんなの……」 叫んだきり、朱雀は唇を噛む。新三郎はゆっくりと振り返った。 「文を書かねばならない。紙と筆を」 取ってくれと言う言葉を最後まで聞かず、朱雀は部屋を飛び出していった。 瞬く間に数里を駆け抜け、町を出ると、朱雀は深い森に入った。 「ちいっ」 木から木に飛び移り、手当たり次第に枝を切っていく。 (なんだよあの女っ) 見下すように自分を見た碧子の顔が浮かんできて、朱雀はかんしゃくを起こした子供のように森の木に当り散らした。 「くそっ」 太い枝が、葉を舞い散らして落ちていく。 「ちくしょう」 碧子の女らしい丸い肩を抱いた新三郎の手。振り向きもせずに「許婚だ」と言った背中。朱雀は、生まれて初めて知る嫉妬という感情に、自分自身を抑えきれずに暴れた。 肩で息してようやく収まったとき、静かな笑い声が聞こえた。 「誰だっ」 見上げると、木の上にすらりと立つ影がある。 「夜叉王丸!」 朱雀が叫んだと同時に影はふわりと目の前に立った。木の高さから考えると羽でもあるかのような動きで。 「今日は稚児衣装か。よく似合っている」 微笑む夜叉王丸に、朱雀はものも言わず切りかかった。 ヒュンヒュンと空を切る剣先。夜叉王丸は、自分の刀の柄には指一本触れず、舞うように軽やかにかわす。 「死ねっ」 朱雀は頭に血を上らせている。甲賀一の術者といわれた朱雀も、夜叉王丸の前では子供と同じだった。 「荒れているな」 「うるさいっ」 「そんなに、あの男に許婚がいたことが嫌か」 夜叉王丸の言葉に朱雀は固まった。刀を握った腕がだらりと下がる。 「なん、で……」 それは新三郎の屋敷内での話だ。 (こいつ……) 夜叉王丸の目と耳は―― (いったいどこまで……) あの浅田屋敷の中にまで潜んでいたのかと思うと、朱雀の汗が冷たく引いた。 夜叉王丸は、懐から扇子を取り出すと閉じたまま、口元を覆ってクツクツと笑った。 「本当におぬしはかわいい」 「なにっ」 顔を上げて睨んだ先に、もう夜叉王丸の姿は無い。 「うっ」 いつの間にか後ろに回られ、朱雀は両腕を背中に拘束された。握っていたはずの刀が彼方に落ちている。 「あんな男はやめて、私にしておけ」 「ふざけるなっ」 叫んだとたん頭の芯が痺れ、朱雀は、顔の前に広げられた扇子から薬を嗅がされていると気がついた。急いで息を止めたけれどもわずかに遅く、身体に力が入らない。 「徳川につけ、朱雀。今度の戦、大坂に勝ち目は無い」 夜叉王丸の唇が耳元で囁く。扇子を閉じた片腕が、そのまま腰にまわる。 「私はお前が気に入った。むざむざ殺したくは無い」 朱雀は身をよじったが、華奢な身体は夜叉王丸に抱きしめられて、胸の中にすっぽりと納まったまま。 「私のもとに来い、朱雀」 耳たぶを甘く噛まれて、朱雀はビクリと身体を震わせた。 「んんっ」 息を止めたまま、嫌がって精一杯抵抗すると 「うっ」 耳に鋭い痛みが走った。 「安心しろ、ちぎれてはいない」 朱雀の耳から流れ落ちる血が、薄い肩を真っ赤に染める。 「うう……」 涙を滲ませ、背中の男を睨みつけると、男は血に染まった唇で冷たく笑った。 「そんな顔をするな。ますます苛めたくなる」 赤い唇がゆっくりと、朱雀のそれに下りてくる。痺れた身体で朱雀が、呆然と受け止めたとき、 「兄者から離れろっ」 叫び声とともに、大きな音が響き火花が散った。二人のすぐ傍の大木が吹き飛んだ。 「朱雀っ」 白虎と青龍が木の陰から飛び出してきて、爆薬に虚を突かれた夜叉王丸から朱雀を奪い返す。 「大丈夫か、朱雀」 血にまみれた弟の顔を、青龍は心配そうに覗き込む。 「兄者っ」 自分で作った鉄砲型の武器を夜叉王丸に向けて構えて、白虎は横目で朱雀を見た。朱雀は紙のように白くなった顔で、小さく「大丈夫」とうなずいた。 夜叉王丸は、 「やれやれ、この私としたことが油断した」 朱雀を見て、 「また会いに来る」 一言残し、まだ火薬の匂いの残る中まさに煙のように消えた。 「兄者、耳をどうされたのですかっ」 「大丈夫だ、シロ……」 「とにかく、急いで手当てを」 青龍の言葉に、白虎はいつも持ち歩いている薬入れを出す。 「ここじゃダメです。血止めだけして、急いで近くの家に」 「よし」 青龍は朱雀を抱きかかえて、目にもとまらぬ速さで、甲賀者の住まう屋敷に向かった。 「これで本当に、大丈夫です」 「ありがとう。シロ」 「血があんまり出てたから、食いちぎられたのかと思ったぞ」 「心配かけて、ごめん、兄者」 手当てしてもらった耳を押さえて、朱雀はうつむいた。まだ身体の痺れは残っているが、起き上がれないほどではない。 「肉を持ってきたぞ」 大坂城下の甲賀屋敷。主の半兵衛は、玄武の古くからの友人である。 「血を流したあとは、肉を食え」 あまり肉が好きでない朱雀は、生の肉を見て嫌な顔をしたが、そんなことは言っていられなかった。 「夜叉王丸にやられたのか」 半兵衛は朱雀の足元に腰を下ろした。 「ひどいことをする」 痛ましそうに耳を見られ、朱雀は落ち着かない気持ちでモソモソと肉を噛んだ。指先についた血が気持ち悪い。舌で舐めとると、夜叉王丸の唇を思い出した。 「青龍の兄者まで来るなんて、何かあったのか」 嫌な感触を振り切るように尋ねると、 「ああ、玄武の兄者からの使いでな」 青龍はうなずいた。 「何?」 「秀俊殿に聞いていただくことだ」 「…………」 朱雀は再び、新三郎と碧子のことを思い出して暗くなった。 「戻れるか」 ここから浅田家の屋敷は、忍びの三人にとっては目と鼻の先だ。 「うん」 正直、今、新三郎の顔は見たくなかったが―― 「大丈夫、帰れるよ」 朱雀は立ち上がった。 今は、そんなことを言っている場合ではないのだから。 |
HOME |
小説TOP |
NEXT |