「やはり風招丸は連れて行けないか」 新三郎はあきらめたように呟いた。 青龍は、その雄々しく立派な若駒の首を撫でながら、気の毒そうに答えた。 「ただでさえ人目をひく美男美女ですから、これで馬まで目立ってしまっては……」 「美女は偽物ですけどね」 「あぁら、どのお口がそんな憎まれ口をたたくのかしら」 「い、いひゃい……」 朱雀は、白虎のほっぺたを両手でつねっていたが、まだ残念そうな様子の新三郎を振り返って、 「とりあえず、山を降りるまではそいつと一緒に行ったらどうだ」 と提案した。 「山を降りるまで?」 「ああ、ふもとの村で落ち合おう。その方が早いだろ」 「朱雀も馬で行くのか」 「まさか。俺は走っていくよ」 当然、馬よりも自分の足の方が速いという顔。 「色々準備もあるし、先に下りてるから、愛馬とせいぜい別れを惜しみながら来るんだな」 青龍もうなずいた。 「朱雀が女の姿になるのも、山を出てからですしね」 こんな険しい山道を、桜色の小袖の女がヒラヒラ歩いているのはどう考えても変だろう。朱雀は朱雀で、忍びの姿でさっさとふもとに下りたいのだ。 「わかった」 「それじゃあ、相塚村の徳蔵のうちで落ち合おう。徳蔵は甲賀者で、昔から月神の家に仕えてくれているオヤジだ」 朱雀はくるりと踵を返して、 「そうと決まれば、さっさと準備だ」 部屋に帰ろうとしたけれど、 「朱雀、今日の分の薪割りはちゃんとやっていけ」 青龍の厳しい一言に、恨めしそうに振り向いた。 「風招丸、しばらくお別れだな」 新三郎は、愛馬の背に揺られながら山道を下っていた。来たときと違いことさら急ぐこともなく、鳥の声に耳を傾ける余裕もある。自分に課せられた使命を思えばそれほどのんびりはできないが、新三郎はむしろ、この先の道が平坦でないだけに、今を大事にしたいと思っていた。 「今度この道を登るのはいつのことだろう」 その日が果たして来るのかもわからない。 「でも、お前とはまた会える」 そう言って風招丸の首をたたいた時、前方にいきなり現れた人物に、新三郎は手綱を強く引いた。 (い、いつの間に……) 前方に人影などなかったはずだ。何かが飛び降りる気配もなかった。まるで地面から湧いてきたかのように道の真ん中に立つ男に、新三郎は得体の知れないものを感じて、首の後ろがチリリと震えた。 (忍び……なのか?) そうは見えなかった。いくらここが甲賀の里で、現れ方が尋常ではなかったとしても。なぜならその男は、顔こそ編み笠で隠しているものの、京の都でもお目にかかれないような銀糸使いの高そうな着物に、あろうことか派手な緋色の陣羽織。腰に差した大小も見るからに名のありそうな品だった。 影の世界に生きる忍びが、こんな目立つ格好をするはずがない。 「何者だ」 新三郎の問いかけには答えず、その男はゆっくりと編み笠を取った。 そこに現れた白皙の美貌に、再び新三郎は肌が粟立つのを感じた。南蛮渡来の白磁器のような、透き通るような白い肌、それとは対照的に、人でも喰ってきたかと思わせる赤い唇。何より印象的なのはその目だ。墨を刷いたような形の良い眉の下に、切れ長の大きな瞳が妖しく光っている。 男はうっすらと微笑んで、新三郎を見つめた。 「何者だ」 新三郎が再び問うと、男はゆっくり赤い唇を開いた。 「浅田新三郎秀俊殿か」 いきなり名を呼ばれ、新三郎は瞬間身を硬くした。 「兄上殿には、似てないな」 「何」 「そう怖い顔をするな。せっかくの男前が台無しだ」 クスリと男は笑って、 「今日は顔を見に来ただけだ。いい男で嬉しいぞ。命拾いしたな、秀俊」 再び編み笠をかぶって、背中を向けた。腰まである長髪の、毛の一筋まで隙がない。ゆっくりと立ち去っていくその姿は一町も行かないうちに、陽炎のように消えた。 (やはり、忍びか……) 心の中で呟いた新三郎は、風招丸が身動きできずに固まっていることに気がついた。 (気圧されたか) いったい何者なのだ。 その時、新三郎の頭に一つの名がひらめいた。 「夜叉王丸……」 * * * 「遅いじゃないか」 風招丸をなだめつつ相塚村の徳蔵の家に行くと、待ちくたびれたように朱雀が飛び出してきた。美しい小袖を着た美女の格好だが、口調は少年のまま。 「そんなにソイツとの別れが惜しかったのか」 「いや……」 新三郎は、夜叉王丸のことを言うべきかどうか迷い、 「ついのんびりと来てしまった。すまぬ」 告げないことにした。何も今話さなくても、いいだろう。 「ふうん」 朱雀は、何か感じたけれども、強いて尋ねたりはしない。 「じゃあ、さっさと着替えて、出発しようぜ」 「うむ」 新三郎がうなずくと、朱雀の後ろから白虎が顔を出した。 「そんなに急がなくても、少し休まれてからでも大丈夫ですよ。お茶の一杯も召し上がってください」 朱雀を向いて、 「兄者も、少しは気を使ったらいかがですか」 「ぶぅっ」 八歳の子供にたしなめられて、朱雀は頬を膨らました。 「白虎も来ていたのか」 「はい。風招丸を明乃庄に連れ帰るのに」 「ああ、そうか。すまぬな」 「いいえ」 白虎は風招丸を見上げて、 「何か様子が変ですね」 目ざとく見つけた。 「ああ」 新三郎は風招丸の背中をたたいた。やはり夜叉王丸のことは言わない。 「……これも、私と別れるのを惜しんでくれているのかも知れぬ」 「そうですね」 「俺だって、気づいてたよ」 馬の様子が変なのは。朱雀は小声で言って、唇を尖らせた。 「えっ?」 「お気になさらないでください。兄者のはただの負けず嫌いですから」 白虎は笑って、新三郎を奥に案内した。 「それじゃあ、ここで」 新三郎の仕度もすみ、二人は若侍とその妻といういでたちで、村のはずれまで来た。 「どうぞ、お気をつけて」 白虎は新三郎に深々と頭を下げた後、 「兄者」 おもむろに懐から守り袋を出して渡した。袋の中はゴロゴロと何かがたくさん入っている。 「何だ?」 朱雀は口を開いて中を見た。 「私が作った薬です。赤いのは痛み止め。身体が痺れてしばらく動けなくなりますから、考えて飲んで下さい。一日一粒以上飲んでは駄目です。緑色のは腹の薬です。くだったのを止めます。その前に食べるものには十分気を付けて、卑しく拾い食いなどしないで下さいね」 「俺がいつ、拾い食いなどしたことがある」 片手で白虎の頬をつねる。けれども、その手は優しかった。 「ありがとうな」 朱雀に言われて、白虎はちょっと照れたように横を向いた。 「もう男言葉はやめてください」 「うん」 朱雀はしおらしい声で、 「ありがとう。大切にしますね」 守り袋を帯の間にしまった。 「しばらく会えなくなるけれど、シロも元気で」 「兄者も……元気で」 白虎は、一瞬、瞳を潤ませた。本当は朱雀のことが大好きなのだ。 朱雀と新三郎は微笑んで、相塚村を後にした。 「本当に兄弟仲が良いのだな」 「はい」 うなずく朱雀は、もう女になりきっている。 「秀俊様にもご兄弟がいらっしゃるのでしょう」 「ああ」 新三郎は、あの男の言った言葉を思い出した。 『兄上殿には、似てないな』 あれはどういう意味なのか。 (何を知っている……) 「秀俊様?」 黙ってしまった新三郎に、朱雀は首をかしげる。 「あ、いや」 新三郎は我に返った。 「その秀俊様というのは、いかん」 「ああ、そうでした。沢木新三郎様」 隠密の旅の間は、偽名を使うことになっている。 「新三郎と呼んでくれ」 「はい」 「で、朱雀、お前のことはなんと呼べばいい」 「鈴女」 「雀?」 「雀じゃありません。鈴の女でスズメです」 「ああ」 「嫌ですけれど、女の姿の時の名前はそれと決まっているそうです」 朱雀は、本当に嫌そうに顔をしかめた。 「どうして嫌なのだ。とても可愛い名前じゃないか」 新三郎がそう言うと、その顔がフワリと赤らんだ。 |
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