「少し遅れたか」
 真上にのぼった陽を見上げ、浅田新三郎秀俊は小さく呟いた。
 涼しげな目元をほんの少し眩しそうに細め、来た道を振り返る。追ってくる者はいない。いや、このような険しい山道、すれ違う人すらいない。
「急がねばな」
 愛馬に語りかけ、その腹を蹴った。風招丸(かざおきまる)は疲れも見せず、その名の通り風塵を巻き上げて疾走した。
「すまぬ。もうしばらくの辛抱だ」
 目指す甲賀の里は近い。もう一刻も走れば着くだろう。
 大坂を出て三日、人目を気にし、供一人連れない旅は想像以上に不便で、懐にある物のせいで常に緊張し続けだった。けれどもそれももうすぐ解けるのだと、新三郎は安堵した。







* * *

「朱雀はどこに消えた」
 甲賀の里、明乃庄(あけのしょう)では、頭領の玄武が額に縦じわを刻んで、歳の離れた弟を捜していた。
「おそらく裏の森でしょう。暑い暑いとこぼしていましたから」
 答えたのは玄武のすぐ下の弟、青龍。兄よりも頭ひとつ大きな体躯を正装に包み、窮屈そうにしている。
「私もこの暑さでは、こんなもの脱いで湖に飛び込みたい」
「何を言ってる」
 玄武は青龍を睨んで、
「待て。朱雀は湖なんぞに行ってるのか」
 ギョッと目をむいた。
「あの子が暑いといえば、それしかないでしょう」
「何を遊んでいるんだ、あいつは。まったく、これからどんな客人をお迎えするのかわかっていない」
 総髪の髪に手を当てて、玄武は大きくため息をついた。その言葉に青龍は、
「そりゃそうでしょう。あの子よりは、まだ白虎の方がわかってます」
 白い歯を見せて笑った。



 その明乃庄の森に、新三郎はようやくたどり着いていた。この森を抜ければ目指す屋敷があるはずだ。緑深い森の涼風に一息ついて、新三郎は愛馬をいたわって鞍から降りた。
「疲れていないか、風招丸」
 しとどに汗の浮いた風招丸の首を撫ぜ、どこかに湧き水は無いかと目を配ったところ、数歩も行かないうちに水音がした。
 誘われるように近づいて、
「湖か」
 思いがけず大きなそれに、新三郎は目を瞠った。
 主でも潜んでいそうな湖の、清閑で美しい眺めにしばし見蕩れ、ともかく風招丸に水を飲ませてやろうと近づいたとき、
「あっ」
 湖の真ん中で大きな魚が跳ねた。
 魚の影はするすると岸辺に近づき、新三郎の目と鼻の先で、ざぶりと水しぶきを上げて少年の姿になった。
(や、そうではない。人間だ、初めから……しかし……)
 目の前の少年は、まだどこか幼さの残る小さな顔も、雫をきらめかせたしなやかな肢体も、そのへんの子供とは全く違う不思議な雰囲気をまとっている。
(美しい)
 声も出せずにじっと見つめると、その少年は、
「お前、誰だ」
 訝るように眉をひそめて言った。
(口をきいた)
 黙ったままの新三郎を、少年は値踏みするようにジロジロと見ていたが、突然フッと顔を上げた。
「呼んでる」
 独り言を呟いて、傍の木の枝にかけていた着物を取ると手早く身につけ、瞬きする間に姿を消した。
「……今のは、何だったのだ」
 しばらく経って、呆然と呟く新三郎。
 その後ろでお預けを食らっている風招丸が、不服そうにいなないた。





「秀俊殿、お待ち申し上げておりました」
「遅くなって、すまぬ」
「いいえ、いいえ。わざわざこのような田舎までおいでいただき、恐悦に存じます」 
 玄武は頭領である自分が一族の先頭に立って出迎えることで、若い新三郎に礼をとった。
「お疲れでございましょう。湯殿の準備が出来ております。まずはゆっくりされて、それから……」
 湯殿ときいて、新三郎は喜んだ。
「それは嬉しい。埃まみれで辟易していたのだ」
 さっきの湖で自分も泳ぎたいと思ったほど。もちろん大事の前にそんな真似をするような愚者ではないが。
「あと、馬をたのむ」
「ご立派な馬でございますな」
 飼葉とたっぷりの水を下男に言いつけて、玄武は新三郎を奥に案内した。 




 時は慶長十六年、関が原の戦が終わって十年あまり。この年の三月、二条城で徳川家康と豊臣秀頼の会見が行われ、天下の覇者は家康であると諸大名に知らしめられた。しかしながら太閤秀吉の恩顧を忘れぬ武将もいまだ大勢おり、新三郎の父親もまた大坂方に味方する大名の一人だった。そして、玄武はじめとする明乃庄の者たちも、代々豊臣家に仕えた忍びである。
 玄武とは甲賀五十三家の一つ月神氏の頭領が引き継ぐ名前だ。頭領だけは世襲制。そして青龍、朱雀、白虎は一族の中でも特に優れた忍者に与えられる名で、血のつながりがなくとも四人は互いに兄弟と呼んだ。

 今、長兄玄武は、新三郎秀俊の出迎えに間に合わなかった朱雀をつかまえて、小姑のように小言を言っていた。
「あれほど、今日は大切な客人がみえるから、大人しくしておけと言っただろう」
「だって暑かったんだよ」
「忍びが暑い寒いを我慢できなくてどうする。心頭滅却すれば火もまた涼し」
「何で火が涼しいんだよ。忍術でもできることとできないことがある。火に包まれれば熱いよ。そんな言うなら、兄者一度焼けてみろ」
 綺麗な顔をして、朱雀の口は大そう悪い。
「朱雀っ」
「まあまあ、兄者」
 二人の仲裁は青龍の役目だ。一回り年の離れた二人のちょうど真ん中、数えで二十歳。年齢だけでなく全てにおいて、青龍は二人の中間どころ。
「秀俊殿には、後ろにいた我々なぞは眼に入っていませんよ。この後、きちんと挨拶すればよいことです」
「む」
「そうそう」
 いい気になって朱雀がうなずくと、
「けれど、兄者の言いつけを守らなかった朱雀にはちゃんと罰を与える」
 青龍は厳しい顔を作って言った。
「なんだよ、それぇ」
 朱雀は情けない声をあげた。昔から青龍にだけは弱いのだ。





 風呂に入り、着替えを済ますと、新三郎は立派な若殿の姿に戻った。 それまでの質素な旅装は徳川方の目をくらますため。馬もあまり立派なものに乗っているのは宜しくないといわれたが、風招丸だけは譲れなかった。
 座敷に案内される頃には、すっかり日が落ちていた。
「改めまして――秀俊殿には大坂からはるばるのお越し、恐悦至極に存じます」
 玄武が両手をついて深々と頭を下げると、青龍もそれに倣った。
「うむ。これが淀殿からの書状である。玄武殿にお渡しするよう申しつかった」
 玄武が青龍を紹介し終わると、新三郎秀俊は懐から一通の封書を差し出した。この三日間の緊張の原因。玄武は、恭しく押しいただいて、美しい墨の跡をゆっくりと目で追った。
「いかが」新三郎の短い問いに、
「かしこまりました」玄武はうなずいた。 
「そうか」
 淀殿の手紙の内容に関しては後々触れるとして、重責を果たして新三郎は破顔した。その顔は思いのほか無邪気で、玄武の後ろに控えていた青龍は、目の前の大人びた美丈夫が自分よりも年下なのだということを思い出した。 
「これより我ら明乃庄の一族は、秀俊殿にお仕えし申す」
「心強い。よろしく頼むぞ」
 新三郎がうなずいたその時、
「よろしいでしょうか」
 涼やかな女の声がした。
「おお、入れ」
 玄武が唐紙の向こうに答えると、
「失礼いたします」
 するすると開いた襖から、つややかな黒髪を背中で束ねた美しい少女が姿を現した。新三郎はその顔を見て、小さく息を呑んだ。
「秀俊殿、これはわが妹の朱雀にございます」
(妹?)
 確かに少女にしか見えないが―――
「弟。ではないのか」
 新三郎が尋ねると、玄武は驚いて目を瞠った。
「さすがは秀俊様、眼力恐れ入りました」
「あ、いや」
 新三郎は、昼間この美しい少年の裸体を目の当たりにしている。それが無ければ疑うことはなかっただろう。新三郎と目が合って、朱雀はクスッと笑った。その顔がひどく愛らしくて、新三郎は、らしくもなくうろたえた。
「秀俊殿を謀るつもりはこざいませんでした。この者は確かに男ですが、明乃庄の朱雀とは、くの一。忍びの務めでは女として働いております。朱雀、挨拶せぬか」
 玄武に言われて、朱雀は丁寧に額づいた。
「明乃庄月神一族四天王がひとり朱雀にございます。よろしくお頼み申し上げます」
 その声も女性のものとしか聞こえず、新三郎は不思議なものを見るようにしげしげと朱雀を見つめる。そして、
「秀俊殿のお傍に召し抱えていただきたい」
 玄武の声に我に帰った。
「私のそば?」
「さよう。隠密に動かれるならば、女との二人旅のほうが怪しまれませぬ」
「それは、そうかもしれぬが」
「こう見えても腕はたちます。術に関しては明乃庄に並ぶものはおりませぬ」
 玄武が言うと、うつむいていた朱雀は口の端で微笑んだ。照れているのではない。腕にはおぼえがあるのだ。次に顔を上げたときには、
「役に立つよ、俺」
 少年の声で言った。
「朱雀っ」
 思わず声を荒げる玄武に、青龍が苦笑する。
 朱雀は気にせず、
「昼間は小汚いカッコしてたから、まさかお殿様だとは思わなかったよ」
 大きな瞳をクルンとまわした。
 新三郎は、コロコロと変わる朱雀の表情に心奪われて言葉も無い。



 これが新三郎と朱雀の出会いだった。
 










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