ビルの最上階にあるかもめグリルの窓際の席は、西新宿の夜景も見事で、修太郎のお気に入りの場所だ。そこで 「ほら、サラダのセロリもちゃんと食べなさい」 「…うん」 「ほっぺにソースがついているよ」 「…うん」 大好きなハンバーグを食べていても元気のない修太郎を、兄、津島は痛ましそうに見る。 「そうだ。来週はお祭りがあるから、一緒に行こう。たまにはお兄ちゃんと出かけるのもいいだろう?」 「…うん」 なんとか気を引き立てようとするのだけれど、修太郎の瞳はかげったまま。年齢よりも幼い弟の初めて見せる憂い顔が、歳の離れた兄にはたまらない。 「修太郎」 「部長っ」 津島の呼びかけに、広郷の声が被さった。 広郷が息を切らして立っている。かもめグリルの店長が「何事か」という顔で後ろに付いて来ている。 「広郷くん」 驚いた修太郎の、ソースのついたままの頬が赤く染まった。 「部長、お話が」 思いつめた顔の広郷に、 「何をしに来たんだね。今は、食事中だ」 津島は冷たい声を浴びせた。 「社長……」 「話なら、明日会社でしたまえ」 弟を泣かせた不埒者め、と眉間にしわを寄せる津島。 広郷はグッと唇を噛んだ。 「……今、話をしたいんです」 「いったい何の話だね」 「それは……」 と、言ったきり突っ立ったままの広郷のシャツの端を、修太郎がそっと引っ張った。 「ご飯食べた?」 「あ、いえ」 「じゃあ、いっしょに食べよ?」 「は、はい」 修太郎に誘われて広郷はホッとしたように椅子を引いた。それを見つめる津島の顔は憮然としたままだったが、 「今日はね、新しいのがあるの。ソースにナッツが入ってるの」 小さな手で大きなメニューを開いて指差す修太郎に、険を和らげた。 「じゃあ、それにします」 「うん」 うなずく修太郎の表情は、さっきまでとは大違い。 「あの、部長、口の横にソースが」 「ホント?」 広郷に言われた修太郎は、ナプキンでコシコシと口の周りをぬぐった。 「で、話というのは何だね」 津島がいくぶん優しい声で訊ねると、広郷はハッとして二人を交互に見た。 「それは、その……」 広郷はほんのしばらく口ごもり、そして言った。 「自分は、これからもこうやって部長とハンバーグが食べたいんです」 修太郎が目を見開く。 津島はほんの少し口許を歪めた。 「それだけか?」 「自分じゃない他の誰かと部長が、晩御飯を一緒に食べるというのが、耐えられません」 「つまり?」 「自分は、部長のことが……好きなんです」 広郷の告白に、修太郎は固まった。 「確か君には恋人がいるとか聞いたが」 「いません。あ、いえ、その、それに近い女性とは、別れました」 「ほう、別れた」 津島は目を細めた。 「それは、修太郎のために?」 「いえ、自分のためにです」 修太郎を好きな自分が、堂々と修太郎に申し込むために。 「なるほど」 津島はうなずいた。そして修太郎を振り返り、 「ということだが、どうする」 と訊ねようとして、 「修太郎?」 「部長っ」 二人して叫んだ。 顔から湯気を立ち上らせた修太郎が椅子ごと後ろにひっくり返る。 ガターン 椅子は倒れたが、修太郎の身体は、間一髪で広郷の腕が抱きとめた。 「大丈夫ですか、部長」 「ふぁ」 のぼせてしまった修太郎は、口もきけない。 「やれやれ、しかたないな」 津島は立ち上がり、 「食事どころじゃないらしい」 店長にクレジットカードを渡す。 「広郷君、修太郎を頼むよ」 「は、はい……」 「ただし、今日のところは、十時までに帰すように」 何が「今日のところは」なのかわからないが、釘を刺されて広郷は、それから三十分修太郎を扇いだり水を飲ませたりと介抱し、九時半には駐車場で待つベンツに乗せた。 「広郷くん……」 「はい、部長」 「さっき言ったこと、ホント?」 ベンツの後部座席の窓から、切なくも熱っぽい瞳で見上げる。 「ホントです」 微笑んでうなずくと、 「うそぉ」 修太郎は小さく呟いた。 「嘘じゃないです。本当はもっとお話をしたかったんですけど、社長にああ言われたので」 チラッと時計を気にして 「明日また、時間をください」 「明日、また?」 「はい」 「明日、あの新しいハンバーグ、一緒に食べる?」 「はい」 修太郎は、頬を薔薇色に染めてこの上なく幸せそうに笑った。 そして翌日。張り切ってまた早い時間にオフィスに入った広郷は、 「社長から、これを預かってきた」 いつになく早い出社の副部長から、A4サイズの封筒を渡された。中には何か書類の束が入っている。 「ありがとうございます」と受け取りながらも、 「なんだろう」首を傾げて取り出すと「第二期営業計画?」 戦略会議にもらったものとよく似ていたが、中をめくって 「なんじゃこらぁっ」 思わず叫んだ。 そこには『広郷祐二、第二期責任分担額』と毛筆書体で、その後には信じられないくらい大きな数字が、書かれていた。 ご丁寧に、次のページにはペース表が載っていて、パワーポイントで作られたグラフの一千万のところに『修太郎とチュウ』五千万のところに『おさわり』一億で『初エッチ』―――手書きで書かれていた。 (あの社長が書いたのかあっ) 「これは社長命令なので、冗談だと思わずにしっかり遂行するように」 副部長もこの中身を知っているのか。 広郷は唖然とした。そこに修太郎が飛んで来て、 「あっ、これ、お兄ちゃんが言ってたやつ」 広郷の手からその書類を取り上げる。ちょうど開いていたのは、ペース表のところだ。 「部長、あの、これは」 初エッチなんて言葉、見られたら大変だと取り返そうとしたが、修太郎はクルリと背中を向けてそれをかわすと、食い入るように見つめて言った。 「がんばろうね。広郷くん」 「はっ?」 振り返った修太郎の目が燃えている。 「お兄ちゃ、ううん、社長に言われたの。僕と広郷くんのこと、許すも許さないも、これ次第だって」 「ひっ」 「だから僕も、この数字ができるように協力するからね」 「協力?」 「うん。同行する」 修太郎は口許をきゅっと結んで力強く言った。 「だって、ぼく営業部長だもん」 (同行……) 広郷は、こみ上げてくる笑いをこらえて言った。 「部長が、俺に同行してくれるんですか」 「うん。僕の車で送ってあげるね」 「いや、ベンツで営業はマズイでしょう」 僕の車というのは、山田さんが運転するベンツだ。 「何で?」 修太郎はきょとんと目を丸くする。 (庶民の気を逆なでするから)とは言えないので、 「道が狭いので入れないし、都内は駐車場がないから停められません」 そう応えた。 「それじゃあ、どうやって行くの?」 「電車ですよ。それから降りたら、暑い中、足で歩くんです」 広郷は微笑んだ。 「できますか?」 「できるよ」 修太郎は即答した。広郷の腕を掴んで背伸びするように身を寄せて、勢い込んで言う。 「そういうの初めてだけど、できるよ。広郷君と一緒なら、なんでも」 「ありがとうございます」 思わず抱きしめそうになるのを、広郷はグッとこらえた。 何しろ、ここは会社だ。 「俺も、部長が付いていてくれれば、この数字、できそうな気がします」 「できるよ、絶対」 見上げる瞳は、キラキラ輝いている。 「部長……」 「広郷くん」 ゴホンと副部長が空咳をした。 「ええと、もうすぐみんな来ますが。今日の朝礼は?」 「あっ、はい」 修太郎は慌てて自分の席に手帳を取りに行った。広郷も鼻の頭を掻きながら、自席に着く。修太郎が小走りでもう一度やって来て、 「打ち合わせするから、七時にかもめグリルね」 囁いて戻って行った。 「……なんだかな」 OLの不倫みたいだと、広郷はクスクス笑った。 「おはようございまーす。あれ、何だ、何笑ってんだよ。朝から機嫌いいなあ」 池田が広郷の肩を叩く。 「昨日はなんか死にそうな顔していたくせに」 「そうでしたか?」 「ああ、俺はまた部長代理に陰でイジメられたかと思ったよ」 「まさか」 「冗談だよ。まあ、あの人のイジメじゃへこむより笑えるだろうな」 そこに噂の部長代理森崎がやってくる。カジュアルエブリディのおかげでなんとも間抜けな格好だ。 「オヤジはやっぱスーツが一番だよな」 池田の呟き。それは届かず、元気良く森崎は叫んだ。 「朝礼を始めるっ」 企画開発営業部の活気ある一日が始まる。 * * * 「初めて僕のことお前って言ったの、広郷くん」 「ああ」 「僕が、車の前の席に初めて乗ったのも」 「そうでしたね」 「営業同行も初めて」 「無理しなくていいですからね」 広郷は隣に座る修太郎の横顔に、優しく言った。 「ううん」 修太郎は首を振って、中央線の電車の窓から、立ち並ぶビルと民家の屋根を眺めながら小声で言った。 「広郷くんといると、初めてがいっぱいできるの――次は、どんな初めてが待っているのかな」 「部長―――」 広郷はさらに小声で言った。 「誘ってますか?」 完 2004年7月31日 |
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