閉園の時間まで探し回ったけれど、修太郎の姿はどこにも無かった。駐車場で待っていないかと淡い期待をしてみたが、やっぱりいない。
「帰ったのか」
 無事に帰れたのならまだいいけれど、万が一どこかで迷っていたり
「事故にでもあってたら……」
 不吉な考えに、身体が震えた。

 携帯電話は何度かけても留守番電話になるだけで、そのたびにメッセージを入れていたけれど、最後のメッセージはかなり深刻に吹き込んだ。
「心配してます。無事かどうかだけでも連絡ください。たのみます、お願いします、部長」
 悲痛な叫びが通じたのか、その十分後に広郷の携帯が鳴った。
 車を走らせるでもなく運転席にぼんやり座っていた広郷は、着信表示を見て勢い込んで出た。
「部長っ」
 ところが、聞こえてきたのは
「広郷君」
 修太郎ではなく、津島の声だった。
「社長」
「心配かけて悪かった。修太郎は家に帰っているよ」
「そうですか」
 一応、ホッとはしたけれど、
「あのすみません。できれば部長と話を……」
「いや、疲れたらしくて、もう寝てしまっていてね。申し訳ないが」
「……そうですか」
 津島の応えに苦い気持ちになる広郷。
 修太郎は電話に出たくないのだ。
「色々と、気を使わせて申し訳ない」
 広郷の沈黙の隙を突いて、携帯はぷっつり切れてしまった。
 広郷は大きな溜め息を吐いて、ハンドルにすがるように突っ伏した。




 翌日。修太郎のことが気になってろくろく眠れなかった広郷は、いつもの時間よりずっと早く会社に着いて、修太郎の出社を待った。しかし、そんなときに限って、
「部長は直行だそうだ」
 森崎が一人張り切って朝礼をする。
(直行……)
 やはり自分と顔を合わせたくないのだと広郷は気落ちした。しかし午後になって営業部にやってきた修太郎は
「みなさん、今日も暑いのにお疲れ様です」
 屈託の無い笑顔で、一見、いつもと変わりなかった。
「部長」
 広郷は飛んで行って
「昨日のことですが」
 頭の中で何度も繰り返していた言い訳を口にしようとしたけれど、
「うん。昨日はどうもありがとう」
 修太郎がニコッと笑ったので、一瞬、気勢をそがれた。
「先に帰ってごめんなさい。あ、でも今お仕事中だから、そういう話はしちゃダメだよね」
「あ、あの」
「そうだ。あの年金おまかせ君のシミュレートできてる?」
「あ、はい」
「副部長にも見てもらわないとね」
 修太郎は立ち上がると
「副部長っ」
 大きな声で大崎を呼んだ。そこからは仕事の話になってしまい、広郷は二度とディズニーランドの話をできなかった。
(じゃあ、お仕事中じゃなきゃいいんだな)
 五時半の鐘の音とともに改めて修太郎のところに行こうと広郷は決心したが、修太郎は何か察したのかその鐘の音とともに部屋を出て行った。急いで追いかける広郷。
「部長、待ってください」
 あっという間に追いつかれて、修太郎は困った顔で振り向いた。
「昨日のこと、話をさせてください」
 人気(ひとけ)の無い廊下で、二人は向かい合った。いや、向かい合ったというよりも、正確には広郷が見下ろす形。広郷は自分を見上げる修太郎の大きな瞳をじっと見つめた。心なしか修太郎の目の周りが赤く見える。
「昨日、紗江子が言ったことですが」
「ごめんなさい」
 いきなりペコンと頭を下げられて、広郷はひるんだ。
「僕、広郷くんに無理させてたって、知らなかったの」
「えっ、いや、違います」
 そうじゃないのだと言おうとするのに
「昨日ね、僕、ビックリしてショックで、それで先に帰っちゃったの。心配したんでしょ。それもごめんなさい」
「いや、そんなことはいいんです」
 そうじゃなくて、と言っているのに修太郎は聞きもせず
「僕ね、広郷くんに無理して付き合ってもらっていたの、全然気が付かなくって、それで悲しくなって……泣いちゃったんだ」
 小声でうつむく。
「でもね、お兄ちゃんが、それは広郷くんの思いやりなんだから、泣くことじゃないって慰めてくれたの。思いやりに気が付いたなら修太郎も思いやりで返せばいいって」
 下を向いた修太郎の表情は見えないが、幼い声で一生懸命話す様子に広郷は何も言えなくなってしまった。
「それでね、広郷くんの恋人さんの話もしたの。そしたら、お兄ちゃんが、今度から広郷くんを夜ご飯に誘うのは遠慮しなさいって。それが僕からの思いやりだって」
(それは……)
 違うと心で言う広郷。
 修太郎はいきなり顔を上げて、
「だからね、今日は、お兄ちゃんと、かもめグリルに行くの」
 いつものような愛らしい笑顔を作るが、目じりには涙がたまっている。
「今度から……ほかの人も……誘うように……」
 言いながら、次第に笑顔が消えていく。
「今まで、ありがとう」
 踵を返してそれだけ言うと、修太郎はパタパタと走って行った。
 広郷は一人残されて、修太郎の姿が見えなくなると、ゆっくりと壁に背中をあずけた。





 残業も無いのに、どうしても家に帰る気になれず、広郷は自分の席でぼんやりパソコンの画面を眺めていた。スクリーンセイバーはおまかせ君シリーズのCMで大活躍のテディベア。画面の右から現れて、跳ねたり踊ったりしながら左に消えていく。その丸い目をした二頭身の子グマを見ていると、修太郎の顔が浮かんでくる。
「部長……」

 
『今度から……ほかの人も……誘うように……』
 震えるような声を思い出すと、胸が締め付けられた。


 自分の代わりに、誰かが修太郎とご飯を食べに行く。
 あのレストランフロアを、修太郎と手をつないで歩く。
 自分じゃないほかの誰かが―――。
「嫌だ」
 ほかの誰かが、自分の代わりに修太郎の隣に立つ、そう考えるだけで胸がかきむしられる。この気持ちは何だと自分に問うまでもない。嫉妬――激しい嫉妬だ。けれども、それじゃどうしてこんな気持ちになるのかと問えば、その答えを口にするのははばかられた。

 相手は、自分より一回りも年下の、しかも男の子だ。

 大きく椅子に仰け反って、天井を見る。そのずっと上のフロアに、かもめグリルがある。今頃、兄と一緒にハンバーグを食べているのだろう。修太郎と津島の仲睦まじそうな姿を思い浮かべたときに、携帯の着信音が鳴った。
 着信表示には紗江子の名前。昨夜から着信履歴が何度も残っていたが、掛け直す気にならなくて、悪いとは思いながらもそのままにしていた。今も、出るかどうか一瞬迷ったけれど、
「はい」
 さすがに無視し続けるのも良くないと、通話ボタンを押した。
「もうっ、やっと出たわねっ」
 呆れたような声が耳を突く。
「昨日、あれからどうなったの。心配したわよ」
「悪かった」
「…………元気ないわね」
 たった一言返事しただけなのに図星を指されて、広郷は苦笑した。
「別に」
「あの男の子と何かあったの?」
「えっ? いや」
 今度は本当にうろたえる。
「何かって……何だよ」
 わざとぶっきらぼうに言うと、
「エビ子が、アレは痴話喧嘩だって」
「は?」
「まさかって私も笑ったんだけど、色々レクチャーされちゃったわよ」
 紗江子は酔っ払っているかのように声が大きかった。
「あの子のこと部長って呼んでたのは、意味わかんなかったんだけど、でも、祐二が付き合わされてる上司って言ってたのはあの子なのね?」
「…………」
「エビ子が言うにはね。あの男の子が拗ねたのは、私と祐二が恋人同士だってエビ子があの子に言っちゃったからだって」
「いや……拗ねたってわけじゃないだろう」
「じゃあ、何?」
「……怒った……違うな」
(傷ついた、の方が正しい)
 そう思ったとたん、自分の胸もズキンと痛んだ。
「祐二?」
「傷つけたのか。俺が」
 呟いたのは、独り言。しかし、紗江子は聞き逃さない。
「あの子を傷つけたってそんなに暗くなってんなら、ついでに私のことでも落ち込んで欲しいわね」
「え?」
 何が『ついでに私のこと』なのかと思わず聞き返せば、
「親友の目の前で男にふられたのよ。しかも、あんな小さな男の子に取られたって、そんな間抜けな話ある?」
「なっ」
「私は信じられなかったんだけどね、あのあとエビ子がやおい書きの友人呼び出して、浦安の居酒屋で二人掛かりで説得されて、挙句の果てに慰められてるの、どうよ」
 どうよも何も。
 広郷には、ヤオイカキという言葉も理解できなかったが、要するに
「祐二は、私よりあの男の子の方が好きなのね」
 紗江子にビシリと言われて、何かが吹っ切れた。


「……そうだって言ったら?」
 広郷が言うと、紗江子はしばらく黙っていた。
「そうだって言ったら、怒るか?」
 重ねて訊ねる広郷に、
「べっつにぃ」
 紗江子は吐き捨てるように言った。
「ディズニー、一緒に行くの断られた時点で勝負はついてるし。もともと私たち、そんな仲じゃないしね」
「紗江子」
「まあ、男の子っていうのが、ショックじゃないって言ったら嘘になるけど」
「軽蔑するか」
「しないわよ。私の周り見なさいよ。ホモとホモスキーばっかじゃないのっ」
(ホモスキー?)
 どこかのペットフードのような、怪しいロシア人のような。言葉の意味はよくわからないが、
「じゃあ……ゴメン、紗江子」
 広郷は、携帯を強く握り締めた。
「俺が、別れてくれって言ったら、別れてくれるか?」
「だから、そんな仲じゃないし! って言ってっだろっ」
 紗江子は、やはり酔っていた。
「ったく、このショタコンヤロウ」
(ショタコン??)
 一瞬、眉を寄せたけれど、
「ありがとう、紗江子」
 広郷は、今日初めて清々しい顔になって言った。
「おかげで、目が覚めた」
「寝てたのか、ボケ」
「ホント、サンキューな」
「なぁにが産休よ。そっちが産休ならこっちは一休よ。ひと休み、ひと休み」
 一休さあ〜ん♪ と歌う声を後にして、広郷はオフィスを飛び出した。

 目指すは、レストランフロアのかもめグリル。
 







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