「この中にスパイがいるっ!!」 森崎の叫びに、企画開発営業部が一瞬シンとなった。 「スパイってあの007みたいな?」 「バカ、会社でスパイって言ったら産業スパイだろ」 コソコソとささやき合う声。 広郷は何が何だかわからずに、黙ったまま首を傾げた。 「部長代理、相変わらず話を大げさにするのはやめてください」 呆れたように部屋に入ってきた大崎の後ろに、見たこともない難しい顔をした修太郎がいた。 発端は今朝の日経新聞だった。注目の新製品のコーナーにツシマが開発中の『年金おまかせ君』とよく似たソフトが紹介されていた。大手のニチデンからこの秋発売予定の新ソフト。 「偶然じゃないですか」 「偶然でここまで似るものかっ」 ペペッと唾を飛ばす森崎。 「でも、うちではまだ開発途中なんでしょう。ニチデンでは完成しているっていうなら」 「いや、ニチデンの方も完成しているという訳じゃない」 課長の言葉に、大崎が応える。 「今秋発売予定ということでの、まあ、予告だ。おそらく進み具合はうちとそう変わらないだろう」 「でも、だからって産業スパイなんて……ねえ」 池田が場を和ませるように笑って肩をすくめる。 「このアットホームな企開ダーにどうやってスパイが入り込むんです」 「いるじゃないか」 森崎が重々しい声で言った。 「つい最近ここに来て、新ソフトの情報にも通じてしまった男が」 その言葉に、全員が広郷を見た。 「お、俺……?」 青天の霹靂に、広郷は呆然とする。森崎が畳み込むように言う。 「今まで一度もこんなことはなかった。しかし、君がやってきていきなり情報が漏れている。これはどう考えても」 「冗談っ!」 広郷もさすがに声を荒げた。 「俺がそんなことするわけないでしょう」 「じゃあ、他に誰だというんだっ」 森崎は全員を指差して叫ぶ。 「きみでなければ、この中の誰だというんだっ」 つられたように見回すと、皆気まずい顔で広郷を見返し、すぐに目をそらした。 「………………」 孤立したような気持ちになって、広郷が何も言えずにいると、 「広郷くんじゃありません」 修太郎の声がした。 「部長……」 修太郎はキリッと顔を上げ森崎を睨むと、ゆっくりと繰り返した。 「広郷くんは、そんなことをする人じゃありません」 「な、何でそんなことが言えるんです」 森崎の言葉に、修太郎はキッパリと 「広郷くんは、僕の友達だからです」 (部長……) 広郷は、不覚にも感激のあまり目の奥が熱くなった。 さすがに大人だから泣きはしないが、もし自分が中学生だったら、そして教室で孤立してしまった時に委員長にこんな風に庇われたら、たぶん抱きついてしまっただろうと思った。 「と、友達、って……」 森崎は修太郎と広郷の顔を交互に見て、その後に続ける言葉を失った。 「とにかく今回の件は、僕のほうでも調べてみます。うちのコンピューターに外部から侵入することは不可能だと思いますが。何から情報が漏れたかははっきりさせないと」 「まだスパイと決まったわけでもないですからね」 副部長の言葉に、修太郎は口許を引き締めてうなずいた。 「部長、先程はありがとうございました」 広郷が神妙な顔で礼を言うと、修太郎はきょとんと首を傾げた。 「何? 先程?」 「スパイ容疑の件。俺じゃないって断言してくれて」 「ああ」 修太郎はニッコリ笑って、 「そんなの、あたりまえじゃない。それより部長代理が変なこと言うから、広郷くんが怒ったんじゃないかって心配しちゃった」 「部長」 「それに、広郷くんじゃなくても、僕は僕の部にスパイがいるなんて思えない」 営業部の中をゆっくりと見渡しながら言った。 「みんな僕の、大切な、信頼する仲間です」 広郷は、その修太郎の小さな横顔を見ながら、 (一見小学生でも、ちゃんと部長だ) アイツなんかよりずっと……と、前の上司とつい比較して、 (俺、修太郎部長になら、ついて行けますよ) 心の中でつぶやいた。 産業スパイ事件は、あっけなく片が付いた。 「新年のパーティーでニチデンの部長と飲んだってね。僕がそういうの出られないから部長代理に行ってもらった」 「はっ?」 修太郎に呼ばれた森崎が、ひどく驚いた顔をする。 「その時、年金の話題が出たでしょう」 「そんなことがありましたか」 森崎の返事に、修太郎は大きく溜め息をついた。 「社長が聞いてきてくれたの」 結局のところ、同じようなソフトが同じタイミングで出たのは、その時の会話からツシマが次に開発するのが年金シミュレーションソフトだと知ったニチデンが自社でも取り組んだというだけで、コンテンツが似てしまったのはソフトの性質上仕方のないことだった。 「部長代理のおしゃべりが原因だったんだよ」 「ううう……」 「それなのに、ひとをスパイ扱いして」 「申し訳ございませんっ」 いきなり土下座で謝る森崎。 「あ」 怒ったふりをしていた修太郎は、慌ててしゃがんで森崎を引っ張りあげる。 「もう、そんなことしないで」 「この私が原因だったなんて、なんとお詫びをしたらいいのか」 「いいよ、もう。大したことじゃないもん。どうせどこでも同じようなソフトは出てくるんだから、うちがもっともっと良いものを作ればいいだけなんだから」 「部長〜っ」 森崎に抱きしめられて、 「やだ。暑いっ。離して」 修太郎はジタバタと暴れた。 大崎が飛んで来て森下を引き剥がす。思わず一緒に駆け寄っていた広郷の背中に修太郎はとびついて隠れた。 「部長、私は〜っ」 手を伸ばす森崎を大崎が部屋の外に連れ出す。 「もういいから、部長代理、鼻水出てるから、顔を洗って」 「ぶちょ〜〜う」 「自分で歩けっ」 「………………」 「………………」 広郷と修太郎はそれを見送って、二人顔を見合わせて笑った。 そうして暑い七月が終わり、八月の声を聞こうとするある日、 「ねえ広郷くん、今度の日曜日、空いてる」 修太郎がハンバーグを食べながら言った。このところ毎日のように修太郎と夜ご飯を食べている広郷は、サラダのプチトマトをフォークで突き刺すのに苦労しながら聞き返した。 「日曜ですか?」 「うん」 こういう場合、普通サラリーマンが誘われるのは接待ゴルフだが、 「お兄ちゃんがディズニーランドのチケットを二枚くれたの」 修太郎は嬉しそうに言った。 「広郷くんと行っておいでって」 「ディズニーランド」 あまりの奇遇に思わずつぶやく。実は、紗江子からも誘われていて、今度の日曜に行きたいと言われていた。 「今度の日曜から、新しいパレードが始まるの」 (ああ、それで) どっちもディズニーランドに行きたがっているのかと納得していると 「だめ?」 修太郎が悲しげに眉を寄せて、広郷を見つめた。 「や、いや」 その顔を見て広郷は、 「行きます。ぜひ」 即答した自分に、内心驚く。 紗江子には悪いが、修太郎と行きたいと思った自分。 「本当? やったぁ」 うって変わって嬉しそうな顔の修太郎に、広郷の頬も緩む。 「じゃあ、僕、迎えに行くね」 「は?」 迎えに行くとは? 「まさか、会社の車で?」 広郷は、修太郎を送り迎えしている運転手の山田の顔を思い浮かべた。今夜も時間になれば、地下駐車場で黒塗りのベンツとともに待機している。 「うん」 「休みの日まで、山田さんを引っ張り出したらかわいそうでしょう」 たしか初孫が生まれたばかりで、休みの日にゆっくり顔を見られるのが楽しみだと言っていた。 「だって」 たしなめられたようで修太郎はシュンとした。 「俺が車出しますよ」 「広郷くんが?」 「ベンツみたいにいい車じゃないですけどね」 「ううん」 修太郎は興奮して、真っ赤な顔になった。 「僕、広郷くんの車、乗りたい」 「や、だから、そんないい車じゃ」 「ううんっ」 ブンブンと首を振る。 「乗りたいっ。広郷くんの車っ」 「じゃあ、俺が迎えに行きますね」 「うんっ」 両手にナイフとフォークを握り締めたまま、修太郎は何度もうなずいた。 「デカ……」 刑事のことではなく、修太郎の屋敷を見ての広郷の感想。インターフォンで自動開閉の門扉を開けてもらってから優に五分は走らせて着いた玄関に、修太郎は待ちきれないように出てきていて、 「広郷くんっ、おはよう」 運転席から降りた広郷に抱きつかんばかりに駆け寄って来た。 「おはようございます、部長」 「もう、今日はお休みの日だから、部長って呼んじゃダメだよ」 修太郎は唇を尖らせる。 「えっ、じゃあ、なんて」 「お前でもいいし、修太郎でもいいよ」 赤いほっぺを光らせて、満面の笑み。 「じゃあ……修太郎、くん」 さすがに部長を『お前』とは呼べない。 「うんっ」 修太郎は、嬉しそうに広郷の車を見て 「うわあ、真っ白でかわいい車だねえっ」 無邪気に叫んだ。 「ハハ……小さくてすみません」 証券マン時代にボーナスを頭金に買ったスポーツタイプの国産車。決して安くはないものだが、普段修太郎が乗っているベンツから見れば小さいのは否めない。 「後ろは狭いから、前に乗ってくださいね」 助手席のドアを開けると 「えっ。いいの?」 修太郎は、目を丸くして広郷を見上げパチパチと瞬きする。 「はい」 「前の席、初めて」 「えっ」 VIP修太郎は、後部座席しか知らない少年だった。 「嬉しい」 いそいそと乗り込んでシートベルトをカチャカチャいじる。 しかし本当に初めてらしく、上手くはめられない。 「あ、やりますよ」 助手席に上半身突っ込んで、広郷は修太郎のシートベルトを締めた。 顔が修太郎に触れるほどに近づいた時、フワリといい匂いがした。修太郎の髪の匂いだとわかって、もう一度吸い込む。 (バカ、なにやってる、俺) 自分突っ込み。プール以来、いや、あのおかしな妄想以来、時たま修太郎に変な気になっている自分を感じる。しかし、 (俺は、ロリコンじゃねえっつーの) ひと回り近くも下の子に欲情してどうする。しかも相手は男の子だ。 「広郷君」 「わっ」 いきなり背中から低い声がかかり、広郷はビクッと振り返った。ミニチュアダックスフントを片手に抱いた私服の津島が微笑んでいる。 「あっ、社長。おはようございます」 「今日はよろしく頼むね」 「はい」 「修太郎、暑いから帽子は必ず被るんだよ」 「わかってるよぅ」 「楽しんでおいで」 津島は目を細めて、修太郎の頭を愛しそうに撫でた。 「じゃあ、広郷君、くれぐれも修太郎のこと、頼むよ」 繰り返し言われた言葉に、 「精一杯努めさせていただきます」 かしこまって応えると 「フッ……」 津島は笑って、ゆっくりと踵を返した。 「友達同士で出かけるんだから、そんなにかたくなることはないよ」 (あんたが、プレッシャーかけたんだろ) 広郷は、玄関に消える背中に言い返した。勿論、心の中で。 そしてそのディズニーランドでは、思いもかけないことが広郷を待っていた。 |
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