「納得いきませんね」
 広郷の予想通りだったが、今回の異例の人事は企画開発営業部に波紋を呼んだ。いや、正確に言えばただ一人の人間に。部長代理の森崎が露骨に顔をしかめている。
「何で、入社したばかりの新人がいきなり部長補佐なんですか」
「社長がそう決めたんだから、かまわないだろう」
 副部長の大崎は森崎に冷たい視線を送った。

 この状況は、朝礼で広郷への辞令を突然発表した修太郎に森崎が立ち上がって反対したもの。森崎という男はキカイダーの命名といい、歳のわりに子供っぽい男である。

「たとえ社長が決めたことでも、社員が納得しなければ、今後の士気にかかわる問題。なぜ、この広郷君が部長補佐なのか納得のいく説明をもらいましょうか」
 ビシッと指差されて、広郷は
(知るかよ……)
 頭を抱えた。広郷にしても、好きでもらった辞令じゃない。
「でも、広郷君は社長自らのヘッドハンティングなんですよね。初めからそのつもりで呼んだんじゃないですか」
 池田が手を上げて意見する。
「主任ごときが、口を挟むなっ」
 腰に手を当てた森崎がいつものごとく口から泡を飛ばして叫ぶので、池田は苦笑して手を下ろした。
「だいたい総勢二十名程度のこの部で、なんで部長がいて副部長がいて、その上部長補佐までいるんだ」
 森崎は、興奮して、身振り手振りも交えてしゃべる。
「これではまるで、部長が役立たずみたいじゃないか」
「ふえ……」
 森崎の言葉に修太郎が涙ぐむ。大崎はそれに気付いてサングラスの奥の目を険しくしたが、当然、森崎は気づかない。ガシッと修太郎の手を握って、
「そんなに部長の補佐が必要ならば、私が今まで以上に懸命に補佐を努めさせていただきますっ」
 熱く叫んで
「広郷くんがいい」
 あっさり振られた。

「はい。そういうことだ」
 大崎が、硬直したままの森崎を、修太郎から引き剥がす。
「これは社長の決めたことで部長もそれに納得されている。この人事については決定だ。みんなも異論は無いな」

 ぱち ぱち ぱち ぱち ぱち……

 もともと反対したのは森崎だけ。皆の拍手を受けて広郷の部長補佐は承認された。
 しかし広郷のたっての希望で、仕事内容はそのまま。席も同じく池田の隣。呼び方も―――
「広郷のままで、お願いします」
「なんで? 部長補佐でいいじゃん」
「いえ」
「まあ確かに、広郷部長補佐ってのは、長くて言い辛いな」
「広郷補佐は? 『さ』が二回あるから言いづらいか」
「じゃあ、シンプルに、ホサで」
「スペイン系だな。ホサ・メンドゥーサっていたな」
「ホセだろ? それは」
「それって、だれだっけ?」
 いつの間にか、話はそれていった。
(もう、どうでもいいけどね)


 結局のところ、広郷の呼び名は
「広郷くーんっ」
 修太郎が呼ぶように、ただの「くん」付けになった。
「広郷くん、広郷くんっ」
「はい、なんでしょう。部長」
 上着に袖を通しながら、部長席に飛んでいく。
 部長補佐の肩書きをもらってから、広郷が修太郎に呼び出される回数は格段に増えた。
「今度の年金おまかせ君に、株式や投資信託での運用シミュレーションも選択できるように入れたいんだけど」
「はい」
「それでね」
 親密そうに話し合う広郷と修太郎を、森崎が恨めしそうに見ている。 何となく不穏な気配は拭えないが、とりあえず何事も無く数週間が過ぎた。





*  *  * 

「朝から暑いなあ。今年の暑さは異常じゃないか」
「今日も35℃だってよ」
「外回りには、こたえるな」
「有森さん、車じゃないですか。辛いのは電車組みですよ。なあ」
「いや、どっちにしろ、この暑さは異常だって」
 朝礼前、企画開発営業部の営業マンたちが口々にこの夏の猛暑に文句を言っていると、
「みなさん、おはようございまぁす」
 明るく元気な挨拶とともに修太郎が現れ、その姿に皆、目をみはった。
「部長、どうしたんですか、その格好」
 池田が尋ねる。

 修太郎は、半袖シャツと半ズボンという海水浴にでも行くような格好だった。

「みなさん、連日の猛暑の中、営業活動ご苦労様です。皆さんのお仕事が少しでも快適になるように、今日からうちの部はカジュアルエブリディ制度を導入しました」
「カジュアル…エブリディ……」
 広郷は、思わず呟いた。
 カジュアルフライディなら前の会社でもあった。金曜日だけはスーツを着ないで楽な服装で出社していいという決まり。しかし、いつ営業先から呼び出しがあるか分からないのでそれほどくだけた服装はできず、ノーネクタイ程度のカジュアルがせいぜいだった。
(そういや、あのアブラハゲがポロシャツの襟を立ててきたときは、あまりのダサさに泣けたな)
 つまらないことを思い出していると、
「エブリディってことは毎日ですか? 営業先に行くときはどうするんです」
 有森が真っ当なことを聞く。修太郎はニッコリ笑って
「このビルの二階にあるスポーツクラブと契約しました。そこの更衣室を自由に使っていいとのことです。法人会員になってますから、営業から帰ってきてのシャワーや、六時以降のプール、サウナ、ジムの使用ももちろん、かまいません」
「おおおっ」
 どよめきが起きた。
「じゃあTシャツで出社して、そこで着替えてから営業に行って、帰ってからシャワー浴びてまたTシャツ、ってのも可ですか」
「可です」
「おおおっ」
 再びどよめき。
 そこに
「朝礼始めるぞ、席に着けぇ」
 森崎が入ってきて、全員が目をむいた。
 森崎までが、半ズボンだった。
「率先垂範」
 と、胸を張る森崎。しかし、すね毛が目に痛い。
「半ズボンは、やめた方がいいんじゃないか」
 池田が、ボソリと呟く。森崎は耳ざとく聞きつけて、
「部長を見習って、どこが悪い」
 と、言い返す。
(悪いよ)
 全員が、心の中で突っ込んだ。


 
「では、まあ……カジュアルといっても、不意の来客が驚かない程度、常識の範囲内で……」
 副部長に怒られて下だけ履き替えた森崎が、渋々といった調子で朝礼を始めた。
(当たり前だ)
 弘郷はチラリと修太郎を見る。
 修太郎の半ズボンは似合いすぎていて、誰も止めさせることなどできなかった。
「広郷くん、広郷くん」
「はい」
 朝礼後、呼ばれて行くと、
「夜、一緒にプールで泳ごうね」
 嬉しそうな顔で誘われて、複雑な気持ちになる。
 修太郎は、本当に自分のことを、友だちだと思っている。
(ひとまわりも下の友だち……)
 

 その日の夜は、

『企開ダー納涼祭り、ドキッ☆ 男だらけの水泳大会』

 森崎の訳の分からないネーミングと企画で、全員が貸し水着でプールに集合した。


「貸切りなのか?」
 池田が、キョロキョロと周囲を見渡す。
「いや、ほら、ほかのサラリーマンらしい男はいるから……」
 広郷はかなたをそっと指差して
「女性はこれ見て入りづらいんじゃないの」
「まあ、気持ち分からないでもないな」
 本当に男だらけの水泳大会だった。
「僕、広郷くんと二人で練習したかったのにな」
 ビート板を持ってやって来た修太郎が、広郷の隣で唇を尖らす。
「僕が広郷くんとプール行くって言ったから、部長代理がこんなこと企画したんだよ」
「ははは……」
 乾いた笑いを返して、
「部長は、泳げないんですか?」
 広郷が訊ねると
「うん」
 修太郎は顔を赤くした。
「あのね。顔を水につけるのが、ちょっと怖いの」
「それは、困りましたね」
「うん」
「でも、部長、毎朝、顔は洗うでしょう」
「もちろんだよ」
「だったら、大丈夫ですよ。まず、顔を水につけて目を開けられるようになりましょう」
「うん」
 修太郎は、左手にビート板をかかえると、右手でいつものように広郷の手を取って
「こっちのほうが浅いの」
 トコトコとプールを案内する。
 すべすべの背中の肩甲骨が小さくてかわいくて、広郷は思わず目が吸い寄せられた。
(あ……)
 いきなり先日の妄想をよみがえらせて、広郷は焦った。
「どうしたの?」
 振り返る修太郎が上半身裸だというのに、今更ながら気が付いて、
「いや、何でもありません。えっと、早く水に入りましょう」
 自分の腰を冷やそうと、とっとと水に浸かった。
「ここ、まだ深いよ?」
「大丈夫ですよ、ほら」
 胸の下あたりまでしか水が無いことを教えるのに両手を広げて見せると、
「えいっ」
 ドボンと修太郎がその胸に飛び込んできた。
「えっ? うわっ」
 抱きつかれて広郷は慌てた。これは、予想外の行動だ。
「やっぱり、深いよぅ」
 広郷の首にしがみ付く修太郎。
「い、今、もっと浅いところに行きますから」
 自分の足で立ってくれと、切実に願う広郷。

 ガシガシと水中歩行する広郷の腕に腕を絡めて引っ張られていく修太郎は、それがとても楽しいらしくはしゃいだ声を上げた。

「ああ、修太郎が笑っている」
 広いガラス張りの向こう側、双眼鏡を用意してまでプール風景をのぞく津島圭太郎の姿があった。
「あんなに、楽しそうに……」
「よかったですね。社長」
 津島の横には、ここでもサングラスを外さない大崎。
「法人会員になった甲斐があったな」
「はい」
 カジュアルエブリディもスポーツクラブの法人会員も、実は修太郎のために津島が考えたことだと知るのは、大崎だけだった。



 そんなある日、企画開発営業部に激震が走った。







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