「おはよう。広郷くん」 「うわわっ」 いきなり後ろから声を掛けられて、広郷は素っ頓狂な声を上げた。 「どうしたの?」 修太郎が目を丸くして見上げる。 「あ、いえ、おはようございます。その、ちょっと、考えごとをしていまして」 広郷は、挙動不審に目をそらした。昨日の夜から妖しい妄想に取り憑かれてしまっていて、修太郎の顔がまともに見られない。 「広郷くん……」 心配そうに見上げる瞳。 「何か悩んでいるの?」 「えっ、いいえ」 「僕じゃあ頼りにならないかもしれないけど、なんでも相談してね」 微笑む顔が愛らしい。広郷は、自分のいかがわしい妄想を、心の底から反省した。 「申し訳ありません」 深々と頭を下げる広郷に、 「何であやまるの?」 修太郎はクスクス笑った。 「今日は午後から企開ダー戦略会議だから、忘れないでね」 「はい」 「公的年金制度についても色々と騒がれている昨今ですが、企業にとっても退職金年金制度というのは、大きな問題になっています」 正面のスクリーンに投影されたパワーポイントのグラフが展開する。 「適格退職年金制度の廃止によって、今後十年の間に退職金制度の再検討を迫られる中小法人は……」 午後からの戦略会議の内容は、第一期業績の現況と見通し、二期の計画、そして最も重要な議題は新開発ソフトおまかせ君シリーズ第五弾「年金おまかせ君」についての商品説明及び意見交換だった。 「ちなみに401K年金については、広郷君から説明してもらいますね」 修太郎に促されて 「はい」 立ち上がって説明しようとする広郷に、 「座ったままでいいよ」 正面に座る社長の津島が笑いかけた。 「では、失礼します」 広郷の無駄のないポイントを押さえた説明を聞きながら、修太郎はいちいちコクコクとうなずき、副部長は会議の席でも外さないサングラスの奥の目を満足そうに細め、そして、部長代理は少し不愉快そうに眉間にしわを寄せた。 * * * 会議が終わって退出しようとした広郷を、 「広郷君、いいかな」 津島が呼び止めた。 「はい」 「私の部屋で、今の話の補足をしてもらいたいんだが」 それを耳にした修太郎が立ち止まって 「僕も行ったほうがいい?」 兄の顔を見上げる。 「いや、広郷君だけでいい」 津島は小さく笑って、修太郎を帰した。 「補足といいますと」 社長室に入った広郷は、何か説明が不十分だったかと、恐縮しながら訊ねた。 「ああ、それは方便だよ。まあ、そこに掛けて」 津島は笑って、革張りの立派なソファに広郷を座らせた。 自分もその正面に座ると、優雅な手つきで煙草を取り出し火をつける。 「どうだい、企画開発営業部は。もう慣れたかな」 「はい。おかげさまで」 勧められた煙草を、広郷はジェスチャーでやんわり断った。 「吸わないのか」 「やめました」 「それはいい。私は意志が弱いのか、何度も禁煙してはいつの間にかまた吸い始めている。なにかコツでもあるのかな、禁煙の」 「自分の場合、ストレスが無いと吸いたいとは思わないんですよ。だから、前の会社を辞めたときからきっぱり煙草とも縁が切れています」 広郷は、微笑んで応えた。 「うちじゃ、ストレスを感じなくてすんでいるということか」 「おかげさまで、今のところは」 広郷の返事に津島は声を上げて笑った。そして、ゆっくりとうまそうに煙草を吸って、おもむろに言った。 「修太郎が、君によく懐いていると聞いた」 「えっ」 何故かドキッとする広郷。 「このところ、夜、家で食事をしないと思ったら、君にご馳走になっているそうじゃないか」 「あ……」 そう。毎回誘いに来るのは修太郎だったが、その実、お金を払っているのは、広郷だった。修太郎のような子供にどうして払わせることができるだろう。 「本当なら上司の修太郎がお金を出すべきだろうが、あの子はそういったことはまったくわからないから」 津島は苦笑いする。 「いいえ、そんな、たいしたものご馳走しているわけじゃないですから」 せいぜい千数百円のハンバーグセットだ。二人で食べても三千円。飲みに行くことを考えればよっぽど安い。 「でも、毎回払わせていては、申し訳ない」 津島はカードを差し出した。 「今度から、これを使ってくれ」 「これは……」 見たままでいうと、クレジットカードだ。 「うちの法人カードだから気にせず使ってくれ。かもめグリルなら電子マネーも使える」 「はあ」 と、どっちつかずな返事をしつつ、受け取るのをためらっていると、津島は広郷の胸ポケットにそれを滑り込ませた。 胸ポケットに視線をやって、すんなり受け取るべきかどうか、一瞬悩んだ広郷だが、 「修太郎は、かわいそうな子でね」 津島の唐突な台詞に顔を上げた。 「あの子が生まれてまもなく、私たちの母親は死んでしまった。まあ、かなりの高齢出産だったから身体の負担も大きかったんだろう。あの子は母親の顔も知らない。いや、母親だけじゃない。知能指数が著しく高いことが分かって、普通の子どもが幼稚園に入る歳には、アメリカの研究所にあずけられた」 社長室の壁に掛かる先代の社長の写真に目をやって、津島は煙草の煙を細く吐いた。 「父は仕事の鬼でね、私もすぐ下の弟も、父には抱き上げてもらうどころか頭を撫でられた記憶すらないが、それでも母にはとてもかわいがってもらった。でも、修太郎は……」 「…………」 広郷は何と言っていいかわからず、両膝に手を付き、かしこまって聞く。 「あの子には小さな頃から、家族も、同い年の友人もいなかったんだよ。それなのに、あんなに素直に育ってくれて。奇跡的だとは、思わないかい」 津島は真面目な顔で広郷に訊ねた。 「普通、少しはひねくれたりするだろう。何年も放っておきながら、大学を卒業したとたん会社の為に呼び戻されたりして。父親が死んでからは面倒な仕事も押し付けられて。バカじゃないだけに文句の一つも言いたくなるだろう」 「……いえ」 広郷は、首を振った。 「部長は、そういう人じゃありませんよ」 「そう」 津島はうなずいた。 「だから奇跡だと言うんだ。父や私と血のつながった弟が、あんなに素直でかわいくて純真だなんて」 修太郎のことがかわいくて仕方がないのだという、兄バカ丸出しの蕩けた顔の後で、 「広郷君っ」 いきなり津島に手を握られて、広郷は仰け反った。 「は、はいっ」 「修太郎を頼むよ」 「ひっ?」 「修太郎は、君の事を、初めての友達だといった」 (げっ……) 「君のことを、本当に慕っているんだ」 「そ、それは……」 「あの子と仲良くしてやって欲しい」 「な、仲良く……って……」 「仕事以外でも、遊び相手になってやってくれないか」 「遊びっ?」 「いや、別にご飯だけでもいいんだ。修太郎は、君と食べるかもめグリルのハンバーグ定食を、それはそれは、楽しみにしているんだよ」 (マジで?) まさか社長室に呼ばれた理由がこれだとは。 「さっきのカードは何に使ってくれてもかまわない。修太郎と出かけたときは、それで払って」 「困ります」 「広郷君?」 「俺、いや、私は、営業マンとしてツシマに入社しました。まだ入ったばかりで、何のお役にも立てていないかもしれませんが、精一杯がんばってツシマの社業に貢献したいと思っています。それが……」 何と続けていいかわからず、グッと唇を噛む。 (部長の遊び相手になれだなんて……) 「広郷君」 津島は、握っていた広郷の手を離すと、ゆっくりと言った。 「勘違いをしないでくれたまえ」 「えっ」 「君は今、私から、仕事と関係のないことを言われていると思っているだろう」 「…………」 「会社に入って子守りをさせられるなんて、男として馬鹿にされてるとでも思っただろう」 (いや、そこまでは考えなかったが……) 当たらずとも遠からずなので、広郷は黙ったまま津島を見返した。 「そうじゃない」 津島は首をふった。 「君が修太郎の友達になってくれることは、立派に社業の役に立つことなのだ」 「はい?」 「修太郎は、企画開発営業部になくてはならない部長だ。違うか」 「違いません」 「企画開発にあの子の頭脳が必要だということ以上に、君は気づいているかどうか分からないが、あの子がいるから、部の皆は余計なストレスもためずにせいせいと営業という大変な仕事を続けていられるんだよ」 「それは分かっています」 さすがにペットセラピーという言葉は使えないが。 「営業から帰ってきて、部長がいるだけで、心が癒されます」 「そうだろう」 津島の目がキラリと光る。 「皆を癒すのも、部長の仕事のうちだ。それで能率が上がるのだから。違うか」 「違いません」 「ならば、その部長を癒すのも、仕事のうちじゃないか」 「は……」 広郷がハッとしてひるんだところに、 「社長として命令する」 津島は重々しく言った。 「本日より、広郷君、君を、企画開発営業部長補佐に命ずる」 「はいっ?」 「修太郎の面倒、よく見てやってくれ」 (ぶ、部長補佐……?) 呆然とする広郷に、 「行ってよし」 社長の顔で、津島は言った。 「聞こえなかったかい。広郷君、帰っていいよ」 「は、はい」 ふらふらと広郷は、社長室を出た。 その日の夜、 「広郷君っ」 修太郎が嬉しそうな顔で飛んできた。 「おめでとうっ」 「は?」 次の言葉も分かる気がして、広郷はパソコンに向けていた顔をノロノロと上げた。 修太郎は、広郷の机に頬を擦り付けるようにして、顔を覗き込んで、 「お兄ちゃ、ううん、社長から、辞令が来たよ。広郷君、企画開発営業部長補佐だって」 「はあ」 「入社して一ヶ月で部長補佐なんて、すごいねっ」 満面の笑みで、バタバタと足を鳴らした。 「広郷君、すごいっ」 「い、いや……」 「でねっ、さっそく今後のことを打ち合わせしなさいって」 「打ち合わせ」 「かもめグリル、席とっといてもらったから」 「………………」 「でも、打ち合わせって、何を打ち合わせるんだろう」 きょとんとする修太郎に、広郷は、当然ながら返す言葉がなかった。 |
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