糊の利いたワイシャツの首のボタンが固くて、広郷祐二(ひろさとゆうじ)はくっきりと濃い眉を寄せた。
 何しろ、サラリーマンの制服というべきスーツを着るのも、一ヶ月ぶり。いや、正確に言うと一度だけ着ている。しかしその日に就職先を決めてから今日まで、もっぱらTシャツとジーンズ下手するとパジャマ代わりのスウェットなんかで過ごしていたから、この襟回りの苦しさは久しぶりだ。
 無意識にミラ・ショーンのネクタイを手にとって、それが前の会社を辞めた日につけていたものだと言うことに気づいて、その隣のアルマーニに変えた。
「験をかつぐわけじゃないが」
 何も同じネクタイにすることも無い。
 一ヶ月前、広郷は大学を卒業して丸三年勤めた証券会社を辞めた。三年間は営業マンとしてそれなりに会社に貢献してきたつもりだ。営業成績では、支店は勿論、関東地域営業本部でもトップクラスで、社長表彰を受けたこともある。広郷の端整なルックスと営業用のさわやかな笑顔は男女問わず受けが良かったし、多少の調子のよさと頭の回転の速さも営業向きだった。入社以来これといった挫折もなく、営業と言う仕事は天職だと思っていた。そう、あの上司が来るまでは。
「あの、アブラハゲ」
 広郷は、自分が辞める原因になった男の脂ぎった顔を思い出して毒づいた。三年目に直属の上司が異動になり、二年間良くしてくれた部長の代わりにやってきたのは、社内営業と部下の成績を掠め取ることしか脳の無い最低の男だった。赴任直前に噂は流れてきたけれど、まさかあそこまで酷いとは。広郷は二年がかりで取り付けた某一部上場企業の確定拠出年金の契約を、最後の詰めのところでしゃしゃり出てきた部長の成績とされてしまい、そのもっともらしく語られる理由にも納得がいかず、生まれて初めて人を殴った。
 あんな上司の下で働くのは嫌だと刺し違える覚悟で辞表を叩きつけてやったのだが、たかだか入社三年の若造とそれなりに社内での人脈も広げている営業部長とでは喧嘩にならなかった。
 結局、上司を殴った社員が責任を取るというような形で退職。

 最後の日に、嫌々ながらもけじめとして挨拶に行った広郷に
「依願退社にしてやったのは、慈悲だよ」
 と言ったあの男を、どうしてもう一回くらい殴ってやらなかったのかと今でも後悔している。
 他の社員は、皆、口では同情したり憤慨してくれたりしたが、本当に広郷のことを心配してくれたのは仲の良かった友人たちだけで、多くの同僚は成績の良い広郷が辞めることを喜んでいる風もあり、中にはダイレクトに顧客をまわしてくれと言ってくる先輩もいて、三年間の会社生活の最後は、かなり惨めなものだった。
 そのため、当分は働かずに失業保険でのんびり暮らしたいと思っていたのに、何ゆえ、一ヵ月後にこうしてまたスーツを着るはめになったのか。





 それは、二週間前に突然かかってきた電話から始まった。

「おい、広郷、お前、会社辞めたんだって?」
 何の前置きも無く訊ねるのは、大学のOB藤田だった。今は、国内中堅の損害保険会社の営業課長だ。
「えっ、ええ。何で、もう知ってるんですか」
「いや、ちょっと聞いたんだけど。それで、次の仕事は決まったのか」
「まだですけど、藤田先輩のところには行きませんよ。俺、保険は興味ないんです」
「俺のところじゃないよ」
「え?」
「知り合いの社長から、金融に強くて営業の出来る男を紹介して欲しいって言われてて」
「なんですか、それ」
「まあとにかく、一回、顔貸せよ。メシおごるから」
「先輩、いつから人材斡旋業までやってるんですか?」
「営業ってのは、頼まれたら守備範囲外のこともやるもんさ。それが結局、回り回って自分のためになる。お前だって知ってるだろ」
 この一言で広郷は、自分を紹介することで、藤田の契約につながる何かおいしい話があるのだと察した。
「お世話になっている藤田先輩への営業協力だっていうんなら、こんな顔貸すくらい、かまいませんけど」
「さすが、話が早い」
「でも、会ったからってそこに就職するとは」
「わかってるよ。まあ、話だけ聞いてくれ」
「そういうことなら」
「よし、決まった。じゃあ明日、新宿まで出て来い」
「明日ですか、急ですね」
「善は急げだ」
「善なんですかね」
 少し呆れた広郷の言葉を、藤田はきれいに無視した。
「京王プラザの二階ロビーのフロント前に六時半な」
「かしこまりました」
 携帯を切って、広郷はクスッと笑う。
 こうやって多少強引に話を進められても、藤田のことは憎めない。だれにも憎まれない性質なのだ。自分も営業力はあると思っているが、自分が努力して身につけたのに比べて、藤田には天然の営業力というものがある気がする。
(藤田先輩だったら、ああいうクソ上司とも上手くやれんのかな)
 アブラハゲと呼ばれた元上司を思い出してまたムカムカした。
「少なくとも今度の上司にはああいうのはいないだろうな。つうか、あんな奴、ヒトとしてそうそういないって」
 独りで突っ込む。
(藤田先輩が損保じゃなきゃ、一緒に働きたいんだけど)
 証券会社での営業で何かとバッティングした生保と損保は、どうしても転職先の候補からは外してしまう広郷だった。

「それにしても、金融に強くて営業の出来る男? 何をするんだ?」
 そこでハッと気づいた。
 藤田は、肝心の会社のことを何も教えてくれていない。
「やられた」
 しかし、そう呟いてから思い直した。
 詳しいことを語らなかったのは、藤田の気配りだったのかもしれない。業種や仕事の内容など事細かに聞いてから面接に出かけたりしたら、断る理由をそれ以外に求めないといけない。何も聞いていなければ、自分の行きたい業界でなかったとか、仕事の内容は聞いていなかったが希望の職種ではなかったとか、なにかと断りやすいだろう。

(まあ、詳らかに話したら、俺が初めから「行かない」っていうような会社なのかもしれないけど……)
 久しぶりに藤田先輩の顔を見るのもいいだろう。
 そんな軽い気持ちで、広郷は次の日新宿の京王プラザホテルに出かけた。




「待たせたな」
「いいえ」
 約束の時間ピッタリに藤田はやって来た。待たせたなと言う台詞は、広郷が少なくとも十分前には来ていただろうと考えてのこと。
「お久しぶりです。藤田先輩」
 立ち上がって挨拶する広郷は、藤田の後ろのいかにもエリート然としたオールバックの男性と目が合い、いそいで頭を下げた。
「ああ、こちらが、津島社長。社長、彼が私の大学の後輩で、広郷祐二君です」
「はじめまして。津島圭太郎です」
 右手を差し出されて、広郷は一瞬ビビった。
「あ、はじめまして。広郷祐二です。宜しくお願いします」
 外資系相手の営業もあったから、初対面で握手と言うのは慣れていないわけでもない。けれども、この男の右手には妙な迫力があった。
 二人が握手をするのを見届けた藤田は、
「この上の和食の店に席を用意しているんだ。日本酒もそろってる。広郷、結構飲む方だったよな」
 フランクな雰囲気を作りながら言った。
「社長、話は食べながらでいいですよね」
「かまいませんよ」
 妙な迫力の後、今度は突然現れた上品な微笑みに、広郷は、
(いったい、何屋だ)
 どう見ても三十代という若い社長を盗み見た。


「えっ、あのツシマですか?」
「ああ、もちろんお前は知ってるだろう。最近、上場したし」
「二部だけれど、ね」
 少しばかり胡散臭く感じていたのが、会社名を聞いて驚いた。東証二部上場にあたっては、自分もなじみの顧客に案内したことのある小さいながらも超優良企業だ。
「たしか、会計ソフトの」
「そうそう、おまかせ君、あのCMはかわいいよなぁ」
 お世辞でなく本当にそう思っているらしく、藤田が満面の笑顔で言った。

 会計ソフト「おまかせ君」シリーズ。
「難しい計算は、僕に任せてねっ♪ おまかせ、おまかせ、おまかせ君
ラ ラ ラ〜♪」
 とテディベアが踊るCMは、広郷もよく知っていた。

「あのCMは弟が作ったんだよ」
 津島が目を細めた。
「弟さんが」
「ああ、今は、企画開発営業部長をしている」
(は?)
 聞き返そうとした広郷だったが、
「弟さんは、とても優秀な方だと聞いてますよ。ハーバードを卒業されたとか」
 藤田が話して、タイミングを失った。
「ああ、まあね」
 津島は、自分のことのように照れくさそうにうなずいた。
「あの子は兄弟の中でも一番優秀だからね」
(ハーバードかよ……)
 内心で呟く。
(この兄の弟で、しかもハーバードじゃ、すっごいエリートって感じなんだろうな)
 そこに津島が、
「広郷君には、その企画開発営業部に来てもらいたい」
 唐突に言った。
「き、企画開発、営業部……」
「そう、企画開発営業部」
 営業企画部だとか営業開発部だとかは前の会社にも存在したが、最後が営業部となるのが、なんだか不思議だ。
「営業部。なんですよね」
 広郷は確認した。
「企画も開発も、もれなく付いてくる。目的は売ること。しかし、売るためにはこの二つは切り離せないからね」

 津島のその一言で、広郷は入社の意思を固めた。





 そして、今日、きりが良いから一日から来てくれと言われ、世間では衣替えの六月一日に初出社。
 株式会社ツシマは、西新宿の高層ビルのワンフロアを借りている。学生の頃から中央線沿いに住んでいる広郷にとっては、通勤も慣れた電車でドアTOドア三十分と、とても快適だった。
「なんか、いい会社に決まってよかったな」
 これから自分が通うビルを見上げて、広郷はネクタイを直した。
「よし、頑張るぞ」
 気合を入れてエレベーターに乗る。ツシマの入っている二十七階に降りて、コの字型の廊下を曲がった時、
「わっ」
 パフンと広郷の胸に何かがぶつかった。下を向くと頭がある。何か、ではなくて子どもだ。
「ご、ごめんなさい」
 鼻を押さえて自分を見上げてくるその男の子に、
「ああ、大丈夫か?」
 広郷は、前かがみになって尋ねた。
「大丈夫です。あの、あなたはひょっとして広郷祐二さんですか」
 はじめて会った小学生に自分の名前を呼ばれて、広郷は驚いた。
「そうだけど」
「よかった。まだカギを開けてなかったから、早く来てたら入れなくて困っちゃうって思って、急いできたんです」
 廊下を走っていた言い訳をするように言って、その男の子は
「こっちです」
 パタパタと小さい身体で、広郷を先導した。広郷の長い脚のリーチに対抗するためには、小走りしかないのだ。
 広郷は後を付いて行きながら
(この子はなんなんだ???)
 クエスチョンマークを三つ四つ飛ばした。

「受付はあっちにあるけど、企開ダーの人たちはみんなこっちのドアからはいってます」
「今なんつった?」
「こっちのドアからはいってます」
「いや、その前」
「受付はあっちにあるけど?」
 男の子は、きょとんと小首をかしげる。
「何で、真ん中抜くんだよ。キカイダーとか言わなかったか」
「ああ、言いました」
 何で懐かしのヒーローが。
 広郷が怪訝な顔をすると、
「企画開発営業部っていうの長いから、企と開とダを取って『企開ダー』って略しているんです」
「ダはどっから来た!ダは!!」
「えっ」
 大声で詰め寄られて、男の子は涙目になった。
「それは……部長代理が……営業はダイナミックに、って言って……ダイナミックの、ダ」
「ダイナミックの、ダ」
 ポツリと繰り返した。
「はい……くすん」
「あ」
 半べその男の子に気が付いて、広郷は慌ててしゃがんだ。
「悪い、悪い。何だか意外な略語がおかしくて、ちょっと、なんていうか、脱力」
「おかしいですか」
「ああ、いや」
「僕、キカイダーって知らないんです」
「あ、ああ、そうだよな。お前は生まれてなかっただろう。俺だって、リアルタイムじゃ知らないよ、全然」
 よしよしと頭をなでてやったら、男の子ははにかんだように小さく笑った。
「こっち」
 機嫌を直した様子でドアを開けると、広郷の手を取って中に入る。ここにいたって、ようやく広郷は、当初の疑問を口に出した。
「お前、何でここのカギ持っているんだ。学校はどうした。だいたい、何でそんな子どものくせに、かしこまったカッコしてる」
 子供用スーツ姿は、季節はずれの七五三。
「それは……」
 男の子が口を開きかけた時、
「部長〜っ」
 廊下から大声がした。
「部長が早くから来られなくても、私が開けましたのに」
 飛び込んできたのは、四十手前くらいのサラリーマン。
「あっ、部長代理、おはようございます」
 ニコッと笑って、両手をそろえてお辞儀する男の子に、
「はっ、おはようございます」
 部長代理と呼ばれた男は、深々と頭を下げた。
 広郷は、また何か変なことを聞いたような気がして首をひねった。
(たった今、キカイダーよりもっと奇怪な言葉を聞いた気がする……)
「お前、今、何て呼ばれた?」
 男の子に向かって聞くと、
「きみいっ、新人っ!部長に向かってなんて口をきくうっ!!」
 部長代理が口から泡を飛ばした。
「部長?」
 言葉の意味が解らないように首を傾げた広郷に、部長代理は噛んで含めるように、一語一語、言った。
「ここにおわすは、前社長津島文太郎様のご子息、現社長津島圭太郎様の弟君、わが企画開発営業部部長、津島修太郎様だ」

「部長……弟……」

『弟さんが』
『ああ、今は、企画開発営業部長をしている』
『弟さんは、とても優秀な方だと聞いてますよ。ハーバードを卒業されたとか』
『あの子は兄弟の中でも一番優秀だからね』

 京王プラザの夜の会話が脳裏を走る。
「なんで、小学生が、ハーバード……」
 広郷が呟くと、
「僕、もう、今年十五歳になるんだから、小学生じゃないです」
 修太郎が唇を尖らせた。
「そう、ご年齢的には中学三年生だが、ハーバードをスキップで卒業されていらっしゃるのだ。それはそれは、ご優秀でいらっしゃるのだ」
 部長代理が熱く語る。

「スキップ……」

 スキップ、スキップ、ラン、ラン、ラン♪

 広郷の頭の周りを、幼稚園児の格好の修太郎とテディベアが手を組んで、リズミカルにスキップして回った。(イメージ映像)







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