声変わり―――?

「勝利、背は伸びたのに、無いなあって思ってたのよ。まあ、個人差だから気にすることないんだけどね。今までの声もかわいくてよかったし」
 僕の内心の動揺に気がつくはずも無く、お母さんは明るく笑う。
「勝利も、そのうちお父さんみたいな声になるのかしらね」
(う、嘘っ……)
 いや、お父さんの声がいやだと言うわけじゃない。ごめんなさい、お父さん。そうじゃなくて、僕の声が大人の男の声になるって言うのが、なんていうの、その―――。
 ふいに陸さんが言ったことを思い出した。

『今は女子のユニフォーム着ても違和感無いけどな。あと一、二年もしたら、いくらお前でもすね毛の一つも生えてきて、女子部になんかいられるか』
 
 そうだよ。僕は男なんだから、声変わりだってするし、ヒゲだって生えてくる。そうしたら、こずえなんて、やってられるわけないじゃないか。

「勝利、どうかした?」
「う、ううん、なんでもない」
 答えた声が、しゃがれてて悲しくなった。
 お母さんはちょっとだけ心配そうに首をかしげたけれど
「恥ずかしがることじゃないのよ。だれでも来るものなんだから」
 パンパンと元気よく僕の肩を叩く。
「あ、でも、無理して声を出そうとしたら声変わり失敗してガラガラになるっていうから、気をつけなさいね」
(ガラガラ……)
 
 僕は、重い足取りで学校に向かった。

「おっはよう!」
 登校の途中、森下が僕の首に抱きついてきた。スキンシップ過剰な友人だ。僕が黙っていたら、
「どしたの? 機嫌悪い?」
 首に片腕を廻したまま、顔を覗き込んで来た。僕は、左右に首を振った。
「何だよ」
「……声」ポソッと言っただけなのに、
「風邪か?」
 僕の額に手を当てる。
「違う。声変わりだって」
「ああ」
 森下はうなずいた。
「そっか、勝利、まだだったっけ」
 そういう森下の声は、そういえば、もう低くなっている。僕は、無意識に森下ののどを見た。小さなクルミみたいなのど仏がでてる。そういえば、陸さんののど仏は大きかったよなあ。僕は、そっと自分ののどに手をやった。まだ何もないそこに、もうすぐ森下や陸さんみたいに、大人の男の印がでてくるんだろう。
「やったね、おめでとう」
 何が、おめでたいんだろう。
 僕の気も知らない(当たり前だけど)森下に返す言葉もなく、僕は教室に向かう。できるだけ今日は口を開きたくない。無理して声を出そうとしたらガラガラになるといったお母さんの言葉も気になっていた。 
 しかし、そんな日に限って、国語の先生は僕のことあてたりして。
「相川、どうした、風邪か」
 僕は、何回この質問に答えなきゃならないんだ。憮然としていたら
「声変わりです」
 森下がわざわざ手を上げて、よけいなことを言う。
「そうか、相川もいよいよ大人の男の仲間入りだな。何だか、もったいない気もするが」
(なんじゃ、そら)
「よし、じゃあ相川じゃなくて、石本、お前、読め」
「はぁい」

 休み時間には、女子がのど飴をくれた。
 クラスメイトの温かい目に第二次性徴を見守られる僕。
 恥ずかしいっての!
 



 その日の夜。僕は陸さんに電話するのを、どうしようかと悩んでしまった。
(こんな声、聞かせたくない……)
 僕が、そのうち大人の男の声になるって気づかせてしまう。そうしたら、もう、こずえになれないってこと。いつもなら、晩ご飯食べ終わった後、いそいそ電話を掛けに行く僕だったけれど、今日はついついリビングに残ってお母さんたちと一緒にテレビを見てしまった。
 能天気夫婦は、何も考えないで笑えるバラエティー番組が好きだ。
 そして最近売り出しの若手お笑い芸人が司会を務める番組の今日のサブタイトルは―――東西オカマ合戦。


 僕にとっては、見なきゃ良かったなんて、そんな生やさしいものじゃなかった。

 派手な化粧をしたオカマが大きな口を開けで叫んでいる。
「だからぁ、マリリンは、お股がゆるすぎなのようっ」
 全ての音に濁点がついたようなだみ声。
「失礼ねえっ。アタシほど身持ちのかたいオンナはいないのよぉ」
 やはり男としか思えない声でオンナ言葉を使うオカマ。クネクネと身体をゆすると揺れるあの胸も偽物なんだろうか。
「マリリンが固いのは、ミモチじゃなくてコッチよねぇ」
 別のオカマが、そのマリリンとかいうオカマの股間に手を伸ばすと
「ギャ――――――ッ」
 ものすごい声がテレビのスピーカーから飛んできた。叫び声と笑い声。全部濁点つき。

 お父さんもお母さんも、ケラケラ笑っている。中学生の息子の教育上良くないなんて、思わないのかな。僕は、ふらりと立ち上がった。
「あ、勝利、電話?」
 お母さんが、笑ったままの顔で僕を見た。
「彼女もいいけど、受験生なんだから、勉強しなさいよ」
 オカマ見て笑いながら言うんじゃないよ。


 僕は、部屋に戻るとベッドに横になった。たった今見たオカマのおかげで、嫌な考えが浮かんでくる。
 陸さんに好かれたくてこずえになってる僕も、結局あのオカマたちと同じじゃないだろうか。今はまだいい。――ううん、今までは。
 でも、声変わりして、ヒゲが生えて、骨格もどんどん大人の男のそれになったら――。

 ゾクッと悪寒が走った。

「オカマ……」
 頭の中に、派手な化粧をして、似合わないドレスを着て、だみ声で笑う自分の姿が浮かぶ。
「嫌だ」
 絶対、そんな人になりたくないよ。
 もう、女の子の格好はしない。絶対、しない。



 そして、その日僕は、結局、陸さんに電話をしなかった。



 次の日も、そのまた次の日も、声は枯れたままだった。一週間くらい続くらしい。それから少し戻って、また同じようになって、何度かこういうの繰り返して、声が低く落ち着くって教えてもらった。
 僕は、声が元に戻るまで陸さんと話さないことにした。
(……絶対、知られたくない)
 あのオカマのだみ声が頭から離れない。


 三日電話をしなかったら、木曜の夜、陸さんから電話がかかってきた。
「勝利、陸さんて、男の人から電話」
「えっ?」
 僕は、ビックリして寝そべっていたソファから跳ね起きた。
(ど、どうしよう)
 僕の声は、相変わらずガラガラだ。一瞬考えたけれど、
「いないって、言って」
「え?」
「あっ、ちがう。もう、寝たって……」
 こんな時間にいないわけない。でも、この時間に寝ているって言うのもおかしいかな。僕は、短い針が九時をさす時計を見た。お母さんは、何かわかってくれたようで、うなずいて出て行った。僕はもう一度ソファにうつ伏せに倒れた。クッションに顔をうずめる。
(陸さん……)
 心配してるかな。
 そうだよね。僕たち、夏休みが終わってから、ほとんど毎日電話してた。電話できない時は、前もって言ってたし、こんな風に突然電話しなくなったら、絶対、心配してるよね。
 陸さんの声が、すごく聞きたくなった。低くて優しい声。大人の声だ。
「あ……」
 自分の声も、いつかあんな風になるのかな。
(陸さん……)

 お母さんがリビングに戻ってきた。
「今の陸さんって、勝利のガールフレンドの兄弟かなにか?」
 僕は、ギクッとして、クッションに顔をうずめたまま固まる。
「だって、勝利のガールフレンド、陸さんっていったでしょ、広海さん」
 カアッと顔に血が上る。もうクッションから顔を上げられない。
「最近、夜電話してないけど、喧嘩でもしたの?」
「……関係ないよ」
 くぐもった声を出したら、お母さんは僕の髪を撫でた。
「関係なくないわよ。電話代払ってるの、誰だと思ってるの。それ言ったら、電話してくれない方が助かるんだけどね。でも、まあ、あんたが元気ないと気になるわよ」
(僕、元気なかった?)
「さっきの彼がね、かならず電話くださいって。なんだか、声が真剣だったわよ。切羽詰っていたっていうか。もし喧嘩してるなら、早く仲直りした方がいいんじゃない」
(喧嘩なんか、してない)
「あ、それともまさか、さっきのお兄さんに彼女とのお付き合いを反対されてるとか?」
 僕が黙っていたら、お母さんは突拍子もない方向に話を持っていった。
「そんな感じもした。大事な妹をお前なんかに渡せない、とか」
(あのね……)
「負けちゃダメよ、年下だからって。勝利、今はこんなだけど、お父さんの子だもん、そのうち大きくなってたくましくなるから」
(う……)
 お父さんは、ごく普通のサラリーマンだけど、アウトドア好きの、体格はマッチョだ。僕は、お母さん似だってずっと言われていたけれど、そうか、お父さんの血も入ってるんだもんね。大人になったら、マッチョになるかもね。また、テレビの東西オカマ合戦が浮かんできた。マッチョオカマも、そういえば、いた。
(ううう……)
 僕はのろのろと身体を起こした。ちょうどお父さんがお風呂からあがってきた。
「次、入る」
 お父さんの無駄にたくましい胸を見ないようにして、僕はお風呂場に走った。


 ちゃぷんとお湯をすくって顔にかける。クラスの女子からよく『スベスベで羨ましい』って言われるけど、ここにもそのうちヒゲが生えてくる。いいなあ、女の子は。あの安恵ちゃんは、ヒゲの心配なんかないんだよね。当たり前。
「元カノ……」
 かわいかった。
 陸さんはもともとああいう子がタイプなんだよ。小さくて、女の子らしくて、かわいい。だから、僕の浴衣とか、フリフリのスカートとか、ピンク色の爪とか喜んでいたんだよ。

 僕には、もう、そのうち全部似合わなくなる。

 突然、泣きたくなった。


 僕の声が男らしくなったら。背が伸びて、ヒゲが生えて、全身ゴツくなって、かわいいかっこうしてもみっともないオカマにしか見えなくなったら。
(陸さんに、嫌われる……)
 鼻の奥が痛くなって、目の前がにじんで、そして、ポタポタとお風呂のお湯に涙が落ちた。
「う……」
 下を向いたら、ぼやけた視界に、自分の裸の胸が見えた。薄くて平らな男の子の胸。陸さんは、僕が中学卒業するまでエッチしない、って言ったけど、高校に入る頃にはもっと男の身体になってるよ。きっと、エッチなんかしたくないって思うよ。
 僕は、湯船の中で膝を抱えて、お母さんが心配して声をかけにくるまで泣いてしまった。





 やっぱり陸さんには電話できなかった金曜の放課後。
 森下と一緒に校門を出たら、突然、陸さんが電柱の陰から現れた。前の時と同じだ。あの時は朝だったけれど、今度は放課後だから、一体どれくらいの間、待ってたんだろう。部活は、どうしたのかな。そんなことを考えたのは一瞬で、僕はすぐに踵を返した。会いたくない。ううん、声を聞かれたくない。
「こず、あ、相川、まてよ」
 陸さんの腕が僕をつかむ。僕は、黙ったまま、その腕を振り払った。
「ちょっと何するんですか」
 また森下が間に入る。いつかのように陸さんは森下を突き飛ばそうとしたみたいだけれど、今度は森下もそう簡単に引き下がらなかった。
「勝利、逃げろ」
 陸さんの身体にしがみついて、僕に叫ぶ。僕は、森下の行動はなんだか唐突な気はしたんだけれど、とにかく陸さんと顔を合わせるのが辛くて、逃げ出してしまった。
「おい、待てよ」
 陸さんの声がしたけれど、振り返らなかった。






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