「桂木くん、この間はありがとう」
 城谷佳恵が「お礼に」と、放課後そっと手作りクッキーを持ってきた。
「あ、お母さん、喜んでくれた?」
「うん。すっごく。草津から北海道にグレードアップしたことは不思議がっていたんだけど、旅行会社の都合って言っちゃった。ゴメンね」
「いいよ。もらったとか言うなよ」
「うん。お土産もいっぱい頼んどいたから、あ、桂木くん、何がいい? やっぱりカニ?」
「あ、やっ、いらないけど……なんだ、城谷さんが一緒に行くんじゃないのか」
「うん。せっかくだから、お父さんとお母さんで行ってもらうことにした。ゴールデンウィークだし」
「そっか」
 幸せそうな佳恵の顔を見て、やっぱり良いことをしたのだと春彦は思った。





 ところが一週間後、その佳恵の幸せそうな笑顔が見えなくなってしまった。
「城谷さん、どうしたのかな」
 休み時間、離れた席に静かに座っている佳恵の横顔を見ながら、春彦は健治につぶやいた。
「城谷? ああ、そういや、ここんとこ暗いなあ」
「何かあったのかな」
「なんだよ。お前、やっぱり城谷に気があるのか」
「なっ、ちがうよ。なんだよ、そのやっぱりって」
「だって、先週からやけに仲良く話してるじゃん。この俺様が、気がつかないとでも思ったか」
「どの俺様だよ。単に俺はこの前、落し物を探すの手伝っただけで……」
「おーい、城谷っ」
 春彦がまだ話している途中で、健治は佳恵を呼んだ。
「こっち来いよ。春彦が話しがあるって」
「わ、な、何言って……」
 クラスの連中が密かに気にして見守る中、佳恵は素直に春彦と健治のいる席に来た。
「おい、健治」
 話があるなどと言われても何も用意していない春彦は、健治の背中を突付いた。健治は、佳恵を、空いている向かいの席に座らせて、
「春彦がさあ、城谷さんが元気無いって心配してんだよ」
 飄々と言った。
「えっ?」
 佳恵は困ったような顔を隠さず春彦を見る。見つめられて春彦は、
「いや、その、なんか、ちょっと元気ないかな、って」
 意味も無く赤くなりながら言う。
 別に、佳恵を意識しているわけではないのだが、みんなの目と耳が集まっていることに気づいて照れているのだ。
「優しいっ、春彦くんっ」
「いいなあ、佳恵、心配してもらっちゃって」
 クラスの女の子にひやかされ、春彦はゆでダコのようになってしまう。 
「あーあ」
 健治は肩をすくめた。しゃべれなくなった春彦の代わりに、
「何かあったの?」
 たずねるけれど、佳恵の返事ははっきりしなかった。
「…………」
(俺と同じで、クラスの連中が聞いてると思ったら言えないんじゃないかな)
 春彦が目で語ると、察しのいい健治はすぐに理解した。
「じゃあ、また後でな」
「うん……どうもありがとう」
 佳恵はほんのり頬を染めて頭を下げた。



「今日の帰り、話、聞いてやれよ」
 授業の始まる鐘の音に紛らせて健治がささやく。
「えっ、俺?」
「ああ、俺、先に帰るからさ」
「ちょ、ちょい待て。俺は別に」
 何か勘違いをしているらしい健治の誤解を、きっちり解いておきたい春彦。しかし、
「いいから。あ、何かひやかされても気にすんなよ。お前、女子に人気あるから、妬かれてるだけだから」
「え、嘘。何言ってんだよ」
「でもさ、逆に、お前が城谷とくっついたら、他の女子はお前のことあきらめるだろうから、男子は歓迎してるんだぜ。まあ、城谷ファンもいるけどさ。二十人、独り占めされるよりいいよな」
 健治は全く聞く耳持たない。
「何が、独り占めだよ……」
 やたら美形の兄弟に囲まれて育った春彦は、(お約束だが)自分の美少年ぶりにも、陰でのモテモテぶりにも、全く気がついていないのだった。


 放課後、気を利かせすぎの健治のセッティングで、春彦と佳恵は二人並んで校舎を出た。
「それで」
「うん」
「元気ないのって……旅行ダメになったとか?」
「ううん。そうじゃないの」
 佳恵は下を向いたまま首を振る。
「そうじゃなくって……」


「ストーカー?!」
 佳恵の口から出た言葉を、春彦はオウム返しに繰り返した。
「ストーカーって、あの、ストーカー?」
 あの、というのはどのストーカーだ。
 ともかく佳恵の言うのは、紛れも無く、執拗に人を付けまわす変質者という意味でのストーカー。
「先週くらいから、道を歩いていると後から付けられているような気配がしたり……」自宅の前をうろついている男の影があると言う。
(ま、まさか……)
 春彦は、思い当たってしまった。
 先週の火曜日、哲耶と豪にしつこく詰め寄られ、旅行のチケットを渡した相手――他ならぬこの城谷佳恵――の名前をしゃべらされていた。
(まさか、あいつら……)
 まさかまさかと言いつつも
(やりかねない……)
 そう思ってしまえるのが辛いところ。
「どんな男だった?」
「えっ?」
「影を見たっていったよね。その、背が高いとか、痩せてるとか」
「あ、あのね、すごく大きい人だった気がするの。痩せてるって感じじゃなくて、ガッシリした体格っぽくて」
(哲耶の方かっ)
「ああ、でもわからない。ひょっとしたら、怖くて大きく見えているだけかもしれないし、実際には顔も見ていないし、ストーカーっていうのもひょっとしたら」
「うん、わかった」
 春彦は、それ以上佳恵にしゃべらせずに言った。
「俺が、追い払ってやるから」
「ええっ?」
 佳恵は可愛い顔に似合わない素っ頓狂な声をあげた。
「う、うれしいけど……」春彦くんじゃ、無理だと思う。
 だって、どう見てもストーカー男より二回りは小さいし、かわいいし、華奢だし。ひょっとしたら私のほうが腕相撲しても強そうな気もするし。――と、佳恵が、言いたいことをさすがにそのまま口に出せずにグルグル考えていると、
「大丈夫。俺に任せて!」
 当の春彦は、いつになく男の子らしい顔で胸を張った。

「とにかく家まで送るから。途中、何か気がついたら言って」
「う、うん」
 しかし、その日は何も無かった。
 いや、付けられていたのかもしれないが、春彦が一緒だったからだろうか、ストーカーの影は見当らなかった。
「ありがとう、春彦くん」
「いや、明日も帰り送るから」
「……うん」
 頬を赤く染めて、佳恵はうなずく。いつの間にか、「桂木くん」ではなく「春彦くん」と呼んでいた自分に気がついて、急いで部屋に駆け込んだ。
 春彦は、佳恵の家を後にして、
「ったく、哲兄、いるんだったらさっさと出てこいよ」
 きょろきょろとあたりを見回し、地面を蹴る真似などしたけれど、哲耶らしき影が現れることは無かった。
 


「ただいまーっ」
 家に帰ると、桂木家の空気は今日もよどんでいた。
 春彦が、兄弟達の誤解を解いていないからだ。
 健治の誤解はきっちり解いておきたかった春彦だが、兄弟と父親の誤解はそのままにしている。その訳は、ひとえに面倒くさいから。城谷佳恵というガールフレンドがいると思わせておけば、誰の伴侶になるのかなどと詰め寄られないですむ。
(しかし……)
「……おかえり、春ちゃん」
 地の底から聞こえてくるような声で迎えられると、罪悪感で背中が震える。
「……今日のご飯は、店屋物だよ」
「えっ、静馬兄さん、今日も帰らないの」
「……研究が忙しくなったって」
「そ、そう」
 あれから静馬ともほとんど会話をしていない。春彦の胸は、ちりちりと痛んだ。
(ああ、でも、今さら嘘でしたって言うのも…っ)
 内心の葛藤に身悶えていると、玄関が開いた。
「ただいま」
「あっ、哲兄、お帰り」
 自分が帰ってきたと同時に帰宅した兄を、春彦はじっと見た。
「な、なんだよ」
「哲兄、今日は、帰り早いね」
「そうか? 飲み会とかバイトがなかったらこんなもんだよ」
 哲耶は目をそらし、そそくさと春彦を追い抜いて、自分の部屋に向かった。
(やっぱり、あやしい)
 春彦は、哲耶の背中を見送って確信した。 




「ごめんね。春彦くん、今日も」
「いいって」
 並んで教室を出る二人は、あっという間にクラス公認の仲だ。密かに結成されていた春彦ファンクラブのメンバーが、悔しさにのたうちまわっているという話もあるけれど、春彦の耳には届いてこない。そんなことはどうでもいいのだ。春彦は、使命に燃えている。

 自分の兄のストーカー行為を――
「止めさせないといけないっ!」
 このことである。



「あっ」
 佳恵がいきなり立ち止まって、春彦に寄り添った。
「何っ?」
「今、そこの電柱の影……」
「あそこか」
 佳恵が指差した方に、春彦は走った。
「逃げんなよっ! そこにいるのはわかってんだっ」
 叫ぶと、観念したかのように、のそりと大きな影が現れた。
「てっ……」
 哲耶と言いかけた唇が固まる。現れたのは、見たことも無い汚いニキビ面の巨体の男だ。
(う、うそ……)
「お前が、佳恵さんの」
 男は思い詰めた顔で春彦に腕を伸ばした。
(ち、ちがう)
「ずっと、ずっと、中学の時から好きだったのに……高校に入って、こんなチビと……」
「うっ」
 丸太のような腕が、春彦の首をしめる。
 佳恵は地面にへたり込んでしまって、助けを呼ぶことすら出来ない。
「お前なんか、殺してやるうっ」
 男の形相が凶悪に歪んだ瞬間、春彦は本当に殺されると思った。その時、
「春彦に何しやがるっ」
 怒声とともに、男が横に吹っ飛んだ。
 つかまれていた腕が離れて、春彦は地面に尻餅をついた。
「ゲホ、ゴホッ」
 咳き込みながら見ると、
「てめえ、春彦に手ぇ出して、ただですむと思うなよっ」
 哲耶が巨体の男をボコボコにしている。
「て、てつ、にい……」
 男は哲耶よりも体格的には勝っていたが、桂木家腕力担当、喧嘩上等哲耶の敵ではなかった。
「や、やめてく、れ」
「やだねっ」
「あ、あやまるから」
「ゴメンですんだら警察はいらねえんだよ」 
 恥ずかしいほど貧困なボキャブラリーだが、桂木家ではボキャブラリーと腕っ節は反比例だ。
 あっという間に男は、地面に伸されてピクリとも動かなくなった。
「二度とふざけた真似、するんじゃねえぞ」
 吐き捨てるように言って、哲耶は春彦の腕を取った。
「大丈夫か、春彦」
「う、うん」
 春彦は、猛烈に反省していた。こともあろうに、自分を助けてくれたこの兄を、ストーカー男と勘違いしていたのだ。
「ご、ごめん……」
「何言ってるんだよ、あーあ、制服汚れちまったな」
 パンパンと尻を叩かれ、
「あっ」
 春彦は、佳恵に気がついた。佳恵は、さっきから同じ場所にしゃがみこんだまま、目の前の出来事を呆然と見つめている。
「あの、哲兄、彼女が……城谷さん」
「ああ」
 哲耶はプイと横を向いて、
「もうここまで来たら、ひとりで帰れるだろ」
 春彦の腕を取って、歩き出す。
「あ、ゴメン、城谷さん。またね」
 振り返りながら謝る自分をカッコ悪いと思いながらも、助けてもらった身の上では連行されるままの春彦。何しろ、ひどい勘違いをしていた当の兄に、殺されそうになっていたところを助けてもらったのだ。
「ありがとう。哲兄、助けてくれて」
 そして本当にごめんなさいと、心の中で手を合わせる。
「ああ、あいつがお前に手を出した時は、頭ん中が真っ白になったぜ。キレるってのは、こういうことを言うんだな」
 哲耶は、まだ怒りのにじむ顔で言った。
「それにしても、あの男もさっさとあの女をモノにしときゃよかったんだ」
「あの女って、城谷さん?」
 聞いて、春彦はふと疑問に思った。
 何故、こんなにも都合よく、哲耶が助けに現れたのか。
(まさか……)
「あ、あの、哲兄……」
 おそるおそる訊ねてみれば――
「お前に名前聞いてから、あの女の身辺、洗ってたんだよ」
 やっぱり、ストーカーだったんじゃないか!!
 そう思っても、助けてもらった手前、何もいえない春彦だった。








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