青天の霹靂――晴れた日に突然起きる雷の意味から、突然の大事件。人を驚かす変動のこと。 桂木春彦にとっての「霹靂」は、高校に入って新しいクラスにも慣れてきた四月の半ば、十六歳の誕生日前夜に落ちて来た。 「ちょ、っと、なに、何っ?!」 「春彦」 「やっ、何すんだよ、哲兄(てつにい)」 春彦は、突然の出来事に焦った。 大学の新歓コンパから帰ってきた三つ上の兄、哲耶(てつや)が、部屋に入ってきたかと思うといきなり、ベッドで本を読んでいた春彦に圧し掛かってきたのだ。 「春彦ぉぅ」 覆い被さられて、酒臭い息が顔にかかる。 春彦は、哲耶の顎を手のひらで押しやって、叫んだ。 「酔っ払ってんのかっ?」 相当飲まされたのか? と、春彦は考えた。 数々の運動部に招かれながらどこにも正式に所属はしていない似非(えせ)体育会系の哲耶は、高校時代から先輩達にさんざん飲まされていたはずだけれど、これほど酔ったところは見たことない。 やはり大学生にもなると量がハンパじゃないのか。 「水持って来てやるからさ、どいてよ」 押し返そうとしたけれど、哲耶の大きな身体は春彦の上から動かない。 「なあ、哲にぃってば」 「好きだ、春彦ぉ」 「はいっ?」 今、何て言った? 思わず春彦の力が抜けた瞬間、哲耶の唇が春彦の首筋に吸い付いた。 「ひいっ」 気色悪さに、思わず甲高い悲鳴が出た。が、哲耶は止まらない。あろうことか、哲耶の無骨な手がパジャマの下から滑り込み、 「うわ、やめ……やめろっ」 春彦の薄い胸をまさぐりはじめる。 「あっ」 と、その時、 「ぐへっ」 漫画のフキダシのような声を発して、哲耶が春彦の上からどいた。いや、どかされた。 「何をしている、哲耶」 哲耶のシャツの襟首を掴んで引きはがしたのは、桂木家長兄の静馬(しずま)だった。 (助かった……) ホッとして春彦は、 「静馬兄さんっ、哲兄のヤツがっ」 言いつけようとしたところ、 「ああ」 静馬は哲耶を睨んだまま、わかっているという風に小さくうなずき、「おい、こら、哲耶」 なんばしよっと――とは、さすがに言わなかった。けれども、鬼のような形相で詰め寄る。 「いったい、何の真似だ」 「…………」 哲耶は充血した目で睨み返す。 静馬の、数年前まではよく女性と間違えられた美貌に、青い筋が浮いて見える。これは、かなり怒っている証拠。 「酔っていました、じゃ、すまされないぞ」 顔に似合わぬドスの効いた声。 「あ、あの、もういいよ」 春彦は、ちょっと怖くなった。 「哲兄、ふざけてただけだし」 「春彦はさがってなさい」 振り返った静馬は、春彦のパジャマの襟元を見て、目を光らせた。 (え?) 春彦がきょとんとして触ったそこは、さっき哲耶が何度も吸い付いた所だ。 「哲耶」 静馬が、哲耶の胸座を掴む。 「わっ、やめてっ、静馬兄さんっ」 本気で殴りそうな勢いに、春彦は慌てて割って入った。 「離しなさい、春彦。動物はその場で叱らないとわからないんだよ」 「誰が動物だよ」 「お前だ、このケダモノが」 「何してんの?」 この騒ぎに、隣の部屋から、桂木家四男坊の豪(ごう)が起きて来た。 「春ちゃん、何かあったの?」 眠そうに目をこすっている。 まだ十二時前だが、中学二年生の豪はいつも十時には布団に入る平均睡眠時間九時間少年だ。小学生の時は十時間睡眠だったのだが、中学からは七時に起きなくてはならなくなり、しぶしぶ時間短縮となった。が、そんなことは今はどうでもいい。 「なんでもないよ」 そう言った春彦に、豪は近づいて、 「春ちゃん、何、キスマークなんかつけてんだよ」 パジャマの襟元に鼻をつけるようにしていった。 「キスマークっ?」 再び首に手を当てる。 「キスマークって、あの、女の人が口紅でつけるやつだろ?」 何でそんなものが。と、春彦は、ゴシゴシと首をこすった。 「春ちゃん……」 豪は、中学生とは思えぬ大人びた顔つきで、眉間にしわを寄せた。 「かわいいけど、カマトトぶらないでよ」 「カマトト? って、なんだよ」 マジで意味がわからない。どうして豪は、自分にもわからない難しい言葉をよく知っているのだろう。春彦は、困った顔で弟を見返した。 豪は溜め息をついて、二人の兄を振り返り、様子を見て取ると、 「こいつか」 床に座り込んでいる哲耶を裸足の爪先で蹴った。 「っせえ」 「一日前に、抜け駆けしようとしたな」 「わりいか、ガキ」 「ザケんな、筋肉バカ」 「んだと」 いつものことだが、哲耶は、五歳も歳が離れている豪と本気で喧嘩をする。豪も哲耶にだけは、自分から喧嘩を売る。そして、 「やめないか、二人とも」 静馬が低い声でたしなめると、おとなしくなるのもいつものことだった。 「豪の言うように抜け駆けしたかったのか、哲耶」 静馬の問いに、 「そんなんじゃねえっ」 哲耶は、ぶすっとした顔で言った。 「ただ……明日だと思ったら、俺の血が沸き立って静まんなくて」 「どんな血だよ。別府の地獄温泉か」 豪の突っ込み。 「約束は、明日の夜のはずだったが」 「わかってるよ」 「わかっててフライングかよ。そのまま一万光年のかなたまで飛んでいけ」 「っせえんだよ、お前は」 三人の会話が見えない。 「あのお……」 春彦は片手を挙げて、質問した。 「明日の夜に、何があんの?」 三人は、そろって春彦の顔をじっと見た。 「どうする?」 豪が静馬を振り仰いで言った。 「もうこうなったら、明日の夜も今日も一緒じゃない?」 「そうだな」 静馬は溜め息を飲み込んで、春彦を見つめた。 「な、何? 俺のこと?」 「豪、父さんを呼んで来てくれ」 「おーらい」 「ここじゃなくてリビングにしよう」 「了解」 「ほら、哲耶、立て」 「ああ」 豪が出て行き、静馬は哲耶の腕をつかんで立たせる。 「さあ、春彦も」 「なんだよ。静馬兄さん、哲兄、急に深刻な顔しちゃってえ」 春彦は落ち着かない気持ちで、わざとふざけて言った。 「そういや、明日は俺の誕生日だから、なんかサプライズしてくれようとか思っちゃってたりして?」 「…………」 二人の兄は応えなかったが、まちがいなくサプライズが待っていた。 「まったく、明日だと思っていたのに。お父さん、心の準備が出来てないよ」 桂木家の大黒柱、四人の息子の父親、四十五歳桂木誠二は、水玉模様のパジャマの上に薄紫のシルクのガウンという息子たちにはひどく評判の悪いいつものスタイルで現れ、ブランデーを用意すると、グラスを手の中でゆっくりと回した。 「春彦も、もう十六歳か」 ふと見ると、壁にかかったアンティーク時計の針は、あと十五分ほどで十二時を指そうとしている。 「カウントダウンしてから、話したほうがいいかな」 「父さん、春彦が怯えていますから、早く話してあげてください」 「あっ、そう」 静馬に言われて、誠二は春彦に向き直った。春彦は、知らず知らず膝の上の拳に力を込めた。 「春彦、今から我が家の大きな秘密を話すけれど、どうか落ち着いて聞いておくれ」 いつになく物々しい父親に、春彦はうなずいてゴクリと唾を飲み込んだ。 父親は、ゆっくりと、一言一言を噛んで含めるように言った。 「実は、春彦は、このうちの誰とも、血がつながってないんだ」 父親の言葉に、春彦は、頭の中が真っ白になった。 「それって、俺、養子ってこと?」 真っ先に頭に浮かんだのは、自分が四歳の時に亡くなった母親、真咲の顔だった。 『春彦、春ちゃん……』 思い浮かべた美しい微笑みは、ひょっとしたら、物心ついてから写真を見て刻まれた顔かもしれないが、優しいアルトの声と暖かな腕は、うっすらと記憶に残っている。 『春彦、幸せになって』 真咲の口癖だった。 『誠二さんと、静馬と哲耶、それから豪と、みんなに愛されて、幸せになってね』 心臓の発作で倒れて死ぬ時まで、真咲は春彦のことを心配し、家族に頼んでいた。 成長してからは、そのことが少し不思議だった。四人兄弟の中で、自分だけが特別だと感じることが、たびたびあった。 「俺が、一人だけ、血がつながってなかったから……」 すとんと腑に落ちた気がして、春彦がつぶやくと、 「違う」 父親が、おもむろに首を振った。 「え?」 「血がつながっていないのは、お前一人だけじゃなくて、ここにいる誰も、互いに血のつながりは無いんだよ」 「…………」 再び、春彦の頭は、真っ白になった。 |
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