病院の別室の応接セットで、紳士同士は話をした。 「とにかく、アリエルは私たちの大切な息子です。グザヴィエ家にやれるわけがない」 クレマンスの言葉に、バンジャマンはうなずいた。 「ジュスタン様が、それで良いとおっしゃるのなら」 そして、ジュスタンがそう言うであろうことも、バンジャマンにはわかっていた。 バンジャマンが病室に戻った時、景色は一変していた。ジュスタンはひとしきり泣いた後、そのことを恥ずかしがって、みんなを病室から下がらせた。 ただ、ヒルデにだけは、別れがたそうな顔をしたので、 「また、明日来ますね」 ヒルデは微笑んで、ジュスタンの額に小さなキスを落とした。 はにかんだようにうつむくジュスタンを見て、リヒャルトは小声でつぶやいた。 「突然、態度変えやがって。何かあるな」 「えっ?」 アリエルは聞き返したけれど、リヒャルトはもう教えてくれなかった。 「アリエル」 代わりに、アルベルトが囁いた。 「ゆっくり話をしよう」 「……うん」 心臓の鼓動が早くなる。これから、聞かされるのだ。アルベルトの婚約のこと。 「それじゃあ、嘘なの?」 アリエルは、目を見開いた。病院の中庭のベンチに並んで座り、アルベルトの話を聞いて。 「嘘というか……ハーラルトに騙された」 自分の父親を呼び捨てにするアルベルトに、アリエルはパチパチと瞬きした。 「それを片付けないといけなくて、アリエルの誕生日にも帰れなかったんだ」 ジュスタンのついた嘘による誤解も解けた。 「リヒャルトから聞いた。……心配かけてすまなかった」 アルベルトの手がアリエルの頬を包む。アリエルはその手のひらの中で、小さく首を振った。 (嘘だったんだ) 気が抜けた。 覚悟していたのに。 アルベルトから『結婚するから祝福して欲しい』と言われると思っていたのに。 「よか…った……」 声が震えて、鼻の奥が痛くなる。泣き虫は置いていこうとしたアリエルだけれど、やっぱり駄目だ。ポロポロと涙を零して、 「アル」 アルベルトの首に腕をまわしてすがりついた。 アルベルトは困ったようにアリエルの髪を撫でた。 「これも嬉しいけれど、アリエル、キスさせてくれないの」 「えっ?」 「お帰りのキスをまだもらってない」 アルベルトが頬に手を当てた意味に気がついて、アリエルは赤くなった。 「正直、ジュスタンとのキスシーンで出迎えられて、ショックだったんだよ」 アルベルトの言葉に、アリエルは口を押さえて立ち上がった。 「アリエル?」 半分は冗談のつもりだったのだが、アリエルはひどくうろたえている。 「ごめん、アリエル」 アルベルトが苦笑して肩を抱こうとすると、アリエルはその腕から逃げるように駆け出した。アルベルトは、慌てて後を追う。 「だめっ」 楡の木に隠れるようにして、アリエルが小さく叫ぶ。 「だめ……来ちゃ……」 アリエルは、ずるずるとしゃがみこんだ。 「どうしたんだ、アリエル」 「僕は……」 ジュスタンと何度もキスした。インランだといわれた。前に誰かに汚(けが)されているとも。 (僕は、アルにふさわしくない) アルベルトが帰ってきた嬉しさに一瞬でも忘れてしまっていたなんて、やっぱり自分の記憶はあてにならない。 『自分の中で思い出したくないことがあって、それで頭の中から消し去っている』 リヒャルトの言葉を思い出す。 (自分に都合の悪いことを忘れているなんて……) ズルイ自分。自己嫌悪に唇を噛む。 「アリエル」 いつの間にか、アルベルトが近づいていた。 「ばかなことを言って悪かった」 うずくまるアリエルの隣に膝をつく。 アリエルは首を振る。そうじゃない。そうじゃないのだ。 「僕は……アルに……」 くぐもった声は嗚咽に消える。 「何?」 アルベルトは辛抱強く待った。 (何か、言わないといけないことでもあるのか) それはジュスタン絡みだろうか。さっきの口づけに関係あるのか。 どんな告白が来てもしっかりと受け止めようと覚悟した。けれども、アリエルがようやく口にした言葉には肯くわけにいかなかった。 「……僕は、アルにふさわしくない」 「何故?」 「僕は、もう……汚れているって……」 アルベルトの形のよい眉がひそめられた。 「誰が、そんなことを?」 アリエルは、子どもが嫌々をするように首を振る。アルベルトは、その頭をそっと自分の肩に押し付けた。 「アリエルは、どこも汚れてない」 宥めるように髪を撫で、背中をさすると、アリエルは大きくしゃくりあげた。 「僕こそ」 アルベルトは、苦しげに言葉を吐き出した。 「罪で汚れている。アリエルには許してもらえないかもしれない」 アリエルは、突然の言葉に驚いて、アルベルトの腕の中で小さく固まった。アルベルトが何を言い出すのかと耳をそばだてる。 アルベルトはその気配を察してゆっくりと立ち上がった。手を引くとアリエルもつられて立つ。 アルベルトは、真摯な瞳でアリエルを見つめた。 「アリエル、君を傷つけたのは僕かもしれない。いや、僕だ。そのことを聞いても、君は僕を許してくれるだろうか」 アリエルは意味がわからず、ぼうっとしている。 「ゆっくり話そう。聞いておくれ、全部。そしてアリエル、君のその涙のわけも教えて」 アリエルは、アルベルトに手を引かれて歩いた。指先からアルベルトの熱が伝わってくる。 (アル……好き) アルベルトが好きだ。 誰になんと言われても、アルベルトが好きだ。 アルベルトが、これから何を言ったとしても、その気持ちは変わらない。 これから、何があったとしても、この気持ちは変わらない。 「アル……」 白いシャツの背中に声をかけると、振り向いて微笑んでくれた。 「アルが、好き」 相応しくないといわれても、アルベルトが好きだ。 アリエルはくしゃりと顔を歪めた。 再び泣き出すアリエルを、アルベルトはそっと引き寄せる。 「僕も……アリエルを愛しているよ」 そして、互いの長い長い話の後で、ようやく二人はお帰りの口づけを交わした。 * エピローグ * 「ジュスタン様、本当によろしかったのですか」 フランスに帰る汽車の個室、車窓の風景を眺めるジュスタンに、バンジャマンが訊ねた。 「何が?」 「アリエル様のこと」 「……あの人を、悲しませたくないからね」 リヒャルトが奇しくも察しかけたとおり、ジュスタンはヒルデに弱かった。今さら恥ずかしくて口にも出せないが、 (初恋……だったのかな……) 自分でも意外で、笑える。 『あなたに、私の目をあげる』 ヒルデの言葉をうっとりと頭の中で繰り返す。今すぐにでもと言ったのを引き止めたのは自分。 あの人には残された命を大切にしてもらいたい。そして、いつかあの人の命が消えたときに、自分の左目がその一部でも引き継げるのだ。想像すると、身体が甘く震えた。 見えない目の上に、そっと指を這わせる。別れ際、あの人は包帯の上からここに口づけた。 「でもね、ジャン……」 ジュスタンは、微笑んだ。 「あの人に良く似たかわいいアリエルのことは、諦めたわけじゃないよ」 (あの人を、悲しませたくないから) 「あの人のいる間は、僕がどうこうするのはよそうと思っただけさ」 ジュスタンの言葉にバンジャマンは困ったように笑ったが、幸い、その顔は見られずにすんだ。 「アントワーヌのおじ様がアルベルトを気に入っているのは事実だし、デルフィーヌもあれでなかなかしたたかだから、そう簡単には諦めないよ。それに、アルベルトのお父上はたいそう合理的な人だ」 ジュスタンは、父親が死んでからもしばらく対外的にはそれを伏せていた。仕事上、そのほうが都合良かったからだ。その間の取引でバルドゥールとも近づいて良く分かっていた。バルドゥールはアントワーヌ公爵家とのつながりを蹴ったりしない。 「あの二人は、近いうちにフランスに来ることになるよ。そうしたら、楽しくなるね」 自分はもともとエゼルベルンに長く居るつもりはなかったけれど、アリエルもおそらく今回のことで居づらくなるだろう。アルベルトもそのうち卒業だ。 「どうして、フランスに来ると思われるのですか?」 「アルベルトをフランスに呼ぶからさ」 彼の父親が。そして、アントワーヌ公爵が。 「そうなったら、アリエルも来るだろう。追いかけてね」 ジュスタンは嬉しそうに言って、窓から身体を乗り出した。 大きくカーブした汽車の窓から、遠くの丘に小さく建物が見える。ほんの少しの間過ごしただけのそこが、意外なほどに名残惜しい。 「アウフヴィーターゼーエン エゼルベルン」 もう来ることは無いけれど、懐かしく思い出すだろう。 Ende 2004.10 |
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