「はじめまして、アリエル様」
 ジャン・アレクシ・バンジャマンと名乗った男性は、ジュスタンの後見人だと挨拶した。
「アリエル様がパリで生活するための手続きや準備も私がいたします」
「ちょっと待ってください。アリエルはまだ」
 リヒャルトが間に入ろうとするのを、バンジャマンはチラリと見て、
「これからお話しすることはとても大切なことです。お友達には席をはずしていただくようお願いします」と、アリエルに言った。
 リヒャルトはあからさまにムッとしたけれど、
「リヒャルト先輩」
 水色の瞳に静かに見つめられ、しかたなく椅子から立ち上がった。


「くそっ」
 リヒャルトは、忌々しげに、自分の手のひらを拳で打った。
 自分じゃ駄目なのだ。アリエルを止められるのは、自分じゃない。
(あいつ……二度もこんな思い、俺にさせやがって)
 この場に居ない親友を恨んで毒づく。
 それにしても、クレマンスの到着も遅すぎる。ジュスタンの代理人はフランスからでももう着いたと言うのに。

 エゼルベルンに戻ると、パウルが飛んできた。
「アリエルは?」
 言葉よりも、心配そうな顔が雄弁に訊ねてくる。
 元気なのか。今どうしているのか。そしてこれからどうなるのか。
 リヒャルトは、安心させる言葉を探した。
「腕のけがは、心配するほどじゃないよ」
「アリエル……エゼルベルンに、帰ってこられるでしょうか」
 リヒャルトは、答えられなかった。
 アリエルがフランス行きを決めていることもそうだが、エゼルベルン側にも理由があった。二度も大きな事件を起こしたアリエルをこれ以上置いておくことはできないと、校長をはじめとして教諭達が考えている。その上、校内では、ジュスタンの失明騒ぎに絡んでセンセーショナルな噂が広がっている。せっかく下火になっていた前の話も蒸し返されていて、今アリエルがエゼルベルンに戻って来たら、前回以上に好奇の目に晒されるだろう。だから、リヒャルトが頼んで、入院を延ばしてもらっているのだ。
 黙ったままのリヒャルトに、パウルはうなだれた。
「こんなことなら……」
 うつむいた横顔でパウルがつぶやく。
「あの時、何があってもジュスタンに譲るんじゃなかった。……あの時、僕が、アリエルがおかしいこと、気がついてあげればよかった……」
「パウル」
 リヒャルトも同じ気持ちだった。
(そう、あの時……)
 アルベルトにも頼まれていたのだ。
 リヒャルトは、ほんの今しがたアルベルトのことを恨んだ自分を恥じた。自分こそ、アルベルトに恨まれないといけない。
(俺がもっとしっかりしていれば……)



 そして、その夜、リヒャルトの待ち望んでいた相手がエゼルベルンの門をくぐった。息を切らして駆け込んでくる。周囲の視線を微塵も受け付けず、
「リック」
 真っ直ぐにヴィンター寮の寮長室のドアを開けた。
「アル!」
 驚きの声は、叫びに近かった。
「電報、届いたのか」
「アリエルは、どこだ」
 鞄を投げ捨てて、美しい顔が詰め寄る。
「病院だ」
「病院? けがをしたのか」
 アルベルトは蒼ざめた。
「ああ、大丈夫、命に別状はない。ホルストシュルツ病院に大事を取って休ませている」
「ホルスト……」
「あっ待て。この時間は、入れない」
 今すぐにでも行こうとする腕を掴んで引き止めると、
「入れてもらう」
 アルベルトは、一秒も惜しいという顔で言った。
「無理だよ。明日の朝一番で行こう。それより話しておきたいことがある。電報では伝えきれなかったから」
 リヒャルトの苦渋に満ちた顔に、アルベルトは眉間のしわを深くした。電報では、アリエルに重大なことが起きたから至急帰れということだけだったが――。
「何があった?」
「今から、話すから……落ち着いて聞いてくれよ」





* * *


 アルベルトは、リヒャルトの部屋でまんじりともせずに夜を明かした。頭の中で、色々なことが渦巻いている。
 リヒャルトは何度も謝ってくれたけれど、アルベルトには責める気など毛頭ない。迂闊だったのは自分だ。ジュスタンに気を許したこと。アリエルを心配しながらも傍から離れてしまったこと。そして、父親の姦計に引っかかって婚約話をでっちあげられたこと。そのため帰りが遅くなってしまったこと。
 アルベルトは唇を噛むと、おもむろに立ち上がって着替え始めた。
「アル……」
 リヒャルトは、アルベルトの白い顔を心配そうに見つめる。
「病院に行く。朝なら入れてもらえるだろう」
「俺も一緒に行かせてくれ」
「授業は?」
 アルベルトは、カフスのボタンを留めながら聞いた。
(こんな時に?)と、リヒャルトは微苦笑した。
「とっくにサボリの常習犯だよ」
 アルベルトは、しかたないなと言う風に唇の端を上げた。その顔はいつものアルベルトで、リヒャルトは少しホッとした。
 病院に無理を言って入れてもらい、アリエルの病室に行ったがアリエルの姿はなかった。
「ジュスタンの所だろう」
 ジュスタンの名前を聞いて、アルベルトの横顔がほんの少し強張った。




「お顔の傷は、一、二年もすればほとんど目立たなくなるそうですよ」
 バンジャマンの言葉に、
「そう」
 ジュスタンは気のない返事をした。
(つまらない。ずっと残ればいいのに)
 自分の顔の傷を見るたびに、アリエルが後悔の念にかられるといいと思う。
 傍らに座るアリエルを見ると、作り物の人形のように静かに微笑んでいる。その微笑みも自分がそうしろと言ったのだ。心配そうな顔は見飽きたから笑っていろと言ったら、教会にある天使像のような笑みを見せた。
「つまらない」
 今度は、声に出していった。
「ジュスタン?」
 アリエルが、小首をかしげる。
「退屈? 何か持ってくる?」
「別に。欲しいものがあったらジャンに言うよ」
 ぶっきらぼうに応えて、ジュスタンは思いついたようにバンジャマンを見上げた。
「ああ、そうだ、ジャン。チェスかカードを持ってきて。アリエルと遊べるように」
「お目に、触りませんか」
 気遣う言葉に対して、ジュスタンは不機嫌に顔をしかめる。
「いいから。僕が欲しいといっている」
「かしこまりました」
 薄く微笑んでバンジャマンは出て行った。
「アリエル、おいで」
 ジュスタンは、さっそくアリエルを引き寄せる。アリエルは抵抗しない。抵抗しないだけではない。深く口づけてもほとんど反応をしない。ジュスタンはむきになってアリエルの舌を吸い上げた。そこに、激しくドアの開く音がした。
「アリエル」
 室内に響いた声に、アリエルがビクリと震えた。
 振り返ると、エゼルベルン一の美貌の青年が険しい顔をして立っている。つかつかと歩み寄って、ジュスタンの腕の中からアリエルを抱き取るようにして奪った。
「あ……」
 アリエルは小さく首を振った。先程までの人形のようなアリエルから人間に戻って、カタカタと震えだす。その華奢な身体をアルベルトはきつく抱きしめた。
「すまなかった」
 アリエルは身体中の力が抜けてその場に座り込みそうになったが、アルベルトの腕がそれを許してくれなかった。押し付けられた胸に顔を埋め、アリエルは懐かしい香りに浸った。けれど、
「アリエルを離せ」
 ジュスタンの苛ついた声が邪魔をする。
 アルベルトはゆっくりとジュスタンを振り返り、言葉もなく睨みつけた。その迫力に気押されながらも、ジュスタンはアルベルトに言った。
「アリエルは、僕と一緒にフランスに行くと言った」
「行かせない」
 アルベルトは、感情を押し殺して応えた。ジュスタンに対する怒りに声を荒げそうになるのを必死に抑える。抱く腕に力がこもり、アリエルが小さく吐息を漏らした。
「でもアリエルは行かなきゃいけない。僕の目の代わりにね」
 ジュスタンの切り札のように出された言葉に、アルベルトは
「だったら、僕の目をやろう」
 冷たい声で言い返した。腕の中のアリエルがピクリと震えた。
「何、それ?」
 ジュスタンが、クスリと笑った。アルベルトは真面目な顔で応える。
「ソビエトのドクター・フィラトフが角膜の移植手術に成功したという話を知らないのか。あっちには優秀な医者がいるらしい。成功例も多く出ている。角膜さえあれば君の目は元に戻る」
「それ、本当?」
 アリエルが顔を上げる。そして、ジュスタンを振り返って
「だったら……だったら、僕の目をあげる」
 大きな目を瞠って言った。
「…………」
 ジュスタンは言葉に詰まり、両手でシーツを握り締めた。アリエルは、アルベルトの腕の中から抜け出すと、ジュスタンに抱きつくようにして言った。
「お医者様に言って、僕の目をあげる。両方あげる」
「だめよ、アリエル」
 優しい声が、風のように届いた。
「あなたは、これからたくさんの美しいものを見ないといけないのだから」
「……お母様?」
 アリエルは、信じられなかった。
 病室の入り口に母ヒルデがその姉イルマに支えられるようにして立っている。その隣には、クレマンスの姿もあった。
「どうしても一緒に行くと言ってきかなくてね」
 到着の遅れた言い訳をするように、クレマンスは言った。
「あなたが、ジュスタン……」
 ヒルデは、ゆっくりと歩みより、ジュスタンの頬に白い手を当てた。
「お父様に……よく似ていらっしゃるわ」
 アリエルがグザヴィエ伯爵の息子と問題を起こしたと聞いたとき、ヒルデは心臓が止まりそうになった。それでエゼルベルンに行くのだと告げるクレマンスに「自分も行く」と言い張った。病弱な身体を心配してクレマンスは許してくれなかったが、ヒルデの告白を聞いて、首を縦に振らざるをえなくなった。
 アリエルの父親がフランスの名門、アントワーヌ公爵とも縁続きになるグザヴィエ伯爵だということを、クレマンスはそのとき初めて知らされた。
「ごめんなさいね」
 ヒルデは、ジュスタンを抱きしめた。
「あなたにも、あなたのお母様にも……本当に、ごめんなさい。このことを告げないと、死んでも天国にはいけないと思っていたの。いえ、謝ったくらいでは許されないわね。でも……言いたかった……ごめんなさい」
 ジュスタンは、呆然としていた。
(あの人だ)
『あの人』に抱きしめられている。幼い日、本当の母親だと信じて慕った。死んだ母の日記を読んで、裏切られたように感じた。けれど――
(あの人……)
 自分を抱く優しい腕にうっとりとするこの陶酔感はなんだろう。軽蔑した筈なのに。嫌悪した筈なのに。
「ジュスタン……」
 名前を呼ばれて、ジュスタンはのろのろと顔を上げた。幼い日に写真で見た顔が、憧れた美しい顔が、変わらずにそこにある。
「私の目をあげるわ。私は身体が弱くて、そんなに長く生きられないの。それにもう美しいものはたくさん見てきたから」
 優しく前髪を梳いて、明いている瞳を覗き込む。
「あなたの目も、とっても美しいわ」
「…っ」
 ジュスタンのその瞳から、じわりと涙の粒が湧き、白い頬を滑り落ちた。
 母親が死んだ時も、父親が死んだ時も、一滴も出なかった涙が何故今ごろになって流れ出るのか。ジュスタンには、わからない。ただ、泣くのは本当に何年ぶりかで、その意外にも甘美な感覚に酔いしれた。
 母親に甘える子どものように泣くジュスタンを、アリエルはぼんやりと見た。こんなジュスタンは初めてだ。ヒルデはアリエルを振り返り、ジュスタンを抱いていた手をアリエルのためにも広げた。アリエルは、その腕の中に飛び込む。ヒルデは二人の少年を優しく包み込んだ。








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