「お母様、珍しい花が咲いていたの」
「ジュスタン、袖を汚して」
「あ、ごめんなさい」
「手も泥がついているわ。早く洗ってらっしゃい」
「お花……」
 ジュスタンの差し出した花を、母親は奪うようにして取り上げた。もう一度急かされて、ジュスタンは手を洗いに行く。ふと振り返ると、母親が花を無造作に捨てているのが見えた。
(あっ…)
 せっかく摘んだのに。
 このところまたふさぎがちな母親に喜んでもらおうと、森の中まで探しにいったのに。
「坊ちゃま、どうなさいました?」
 唇を尖らせて両手を洗っているジュスタンに、古くからの使用人の一人ロイが声をかける。
「なんでもない」
(僕はお母様に嫌われている)
 物心付いてからずっと感じていた。けれどもジュスタンは、そのことを素直に口に出して他の大人に甘えるような少年ではなかった。
「ロイ、お父様は?」
「旦那様はお仕事でパリにいらっしゃいました。お帰りは三日後だそうです」
「そう」
 ジュスタンは子どもらしからぬ溜め息をつく。
(お母様の具合がもっと悪くなる……)
 まだ幼いジュスタンに情緒不安定などという言葉はわからないが、母親がちょっとしたことでヒステリックに叫んだりいきなり泣き出したりするのを何度も見ているうちにわかったことがある。母親の『病気』は、父親がいないときにひどくなるのだ。
 そしてその日、案の定、夜から母親はおかしくなった。母親が泣いて訳のわからないことを言うのはいつものことだから、ジュスタンは黙って聞いていた。ロイでもメイドのクリスティーヌでも、誰でも呼びにいけばいいのだが、ジュスタンはぼんやりと母親を見つめた。
(どうして、この人はいつもこんなになって泣くんだろう)
 椅子に座ったままじっと見ていると、母親の灰色の瞳がジュスタンを捉えた。
「なに……その目は」
 母親のつぶやきに、ジュスタンは首をかしげる。自分の目がどうしたというのか。母親と同じ色だといわれるけれど。
「何なの、その態度は」
 母親の手がいきなりジュスタンの頬を打った。ジュスタンは痛さよりも驚きのあまりに口が利けなくなり、その場に固まったまま母親を見上げた。
「あなたが……あなたがいたから……」母親は唇を震わせる。
「あなたのせいで、私はあの時、ローランドと離れなくてはならなかったのよ」
 ローランドとは父親だ。
(僕のせいで? お父様と離れなくてはならなかった?)
 言っていることがわからない。ただ、はっきりとわかったのは――
(お母様は、僕を憎んでいる)
 嫌われているだけではない。憎まれている。その存在すら疎ましく思われている。
 ジュスタンは、ようやく手を動かして頬をさすった。
「親を不幸にするなんて」
 母親は、涙声で言い募る。
「あなたなんか、私の子供じゃない」
 すとん――と、その言葉が腑に落ちた。
 すぐに、母親の様子を気にしたメイドのクリスティーヌとマリーが部屋に駆けつけてきて、後のことはよくわからなくなったが、最後に耳にした言葉にジュスタンはむしろ今までの謎が解けた気がした。
(ああ、僕は、お母様の子供じゃないんだ)


 それから、ジュスタンは自分の『本当のお母様』を探した。もちろん、人に頼るようなまねはしない。父親が家に招いたり、外出先で偶然一緒になって話しをしたりした婦人の中に、
(僕の本当のお母様がいるかも……)
 そう考えることは楽しかった。
 実の母親に愛された記憶が無いだけに『どこかにいる本当の母親』という想像に、ジュスタンは夢中になった。
 そして八歳の誕生日を迎える月、ジュスタンは偶然、それを見つけた。
 その日も、ジュスタンは父親の部屋に忍び込んでいた。本当の母親の手掛かりを探して、本棚の奥を探っていると、
「あっ」
 数枚の古い写真がぱらぱらと本の間から落ちてきた。どれも一人の美しい女性を写した物だった。明るい色の髪、優しげな微笑。クリスマスの絵本で見た天使のよう。
(この人……)
 拾い上げた中の一枚は、父親と二人で写したものだった。写真の中の二人は仲良さそうに寄り添っている。
「この人だ」
 ジュスタンは、そう思った。この写真の美しい人が、自分の本当の母親だ。きっとそうだ。
 ドキドキと心臓が高鳴る。写真を持つ指が震える。
(元に戻さなきゃ)
 そう思いながら、一枚だけ抜き取ってしまった。父親と二人で撮った写真。これが一番幸せそうで、美しかったから。
 急いで写真をしまって、父親の部屋を抜け出した。ポケットの上から写真を押さえつけて、一目散に自分の部屋に走った。
(見つけた……見つけた、僕の本当のお母様)
 その日から、ジュスタンは名も知らないその女性を母と慕った。偽りの母と暮らしながら、何かあるたびに本当の母に思いを馳せた。今居る母親に辛くあたられるのも、本当の母親でないなら気にならなかった。
 いつか父親に聞こう。この女性は――自分の本当の母親は――どこにいるのかと。


 そうして月日を重ね、ジュスタンが十二になる年、一緒に暮らしている母親が死んだ。
 涙は出なかった。なぜなら、自分にとって彼女はかりそめの親にしか過ぎなかったから。それでも十二年という歳月は、無視できるほど軽くない。ジュスタンにとっては人生の長さすべてだ。
 少しは感傷的な思いに浸りながら、ジュスタンは、主(あるじ)の不在になった部屋に入った。
 机の上には生前読みかけだった本がそのまま置かれていた。母親は本を読むのが好きだった。ここ一、二年は特に、誰かがそばにいても一言も話さず、暗くなるまでただ本を読みふけっていることがままあった。だから、いつも母親が何かを書いていた革表紙の本、これも、詩でも創っていたのかと思ったら――
「日記だ」
 意外な気持ちでページをめくった。あの母親が、あれほど熱心に書いていたのが日記だったとは。


 そして、ジュスタンは知った。その日記で知らされた。
 母親と父親の秘密。そして自分が密かに母親と慕った女性の真の姿――。
「お母様……」


 ジュスタンは自分のつぶやきで目が覚めた。目を空けても、よく見えないのは、額に巻かれた包帯のせいだ。左目を押さえるのは仕方ないとしても、右目のまぶたまでかかってくるのはうっとうしい。包帯の位置を直してジュスタンは病院の窓から外を見た。天気がいい。もうすぐ四月、気の早い花がつぼみを膨らませている。
(もうすぐ、お母様の死んだ四月……)
 ジュスタンは、たった今見た夢の続きを、頭の中に思い浮かべる。
 子ども心に本当の親ではないと思っていた母親の死。そして、その原因となった女性。その子供。
『あなたのせいで、私はあの時ローランドと離れなくてはならなかったのよ』
 言葉の意味も、理解できる歳になっていた。

 
 クスクスとジュスタンは笑いを漏らした。片ひざを立て、額をつけて笑う。
『僕と来るね。僕と一緒に、フランスに』
『君は、僕の左眼にならないといけない』
 アリエルは、うなずいた。
(あの人の子供)
 写真の女性が微笑む。
(あの人の子供……)
 自分が長い間母親だと思い込んでいた美しい人にそっくりな、かわいいアリエル。
 アリエルは、うなずいたのだ。自分と共にくると。

 ジュスタンは、いつまでも笑いが止まらなかった。




* * *


「あれは正当防衛だ。アリエルが責任を感じることなんか何もない」
 リヒャルトは、アリエルの怪我していない方の手を強く握り締めた。
「アリエル、君には黙っていたけれど、君は、以前、見知らぬ誰かから性的な暴力を受けたんだよ」
 見知らぬ誰かと口にした時に、アルベルトの言葉も頭をよぎったけれど、この際どうだっていい。とにかくアリエルがジュスタンに怪我をさせたということが、やむをえない出来事なのだとわからせたい。
「記憶障害もそのせいだ。アリエル、君は単に事故で頭を打って記憶を失ったんじゃない。自分の中で思い出したくないことがあって、それで、いくつかのことを頭の中から消し去っている。そんな君が、不意にまた性的暴力を受けたらどうなる。同じ様な目に合わされたら、とっさに武器を取って抗うのも当然だ」
 必死にかき口説いても、アリエルは静かに目を伏せたままだった。
 皮肉なことに、アルベルトがあれほど知らせたくないと思っていたことも、今のアリエルにとってはそれほどの重要性を持たなかった。ただ、自分の記憶が無い理由が性的暴力と聞かされて、ジュスタンが以前言っていたことの意味がわかった気がした。
『どこの誰かもわからない相手に、襲われたんだって?』
『こんなに無垢な顔をして、もう誰かに手折られた後だったなんて』
 アルベルトの顔が浮かんできて、錐で突かれたように胸が痛んだ。
(僕は、やっぱり、アルにはふさわしくない……)
「アリエル、聞いているのか」
 リヒャルトが苛立たしげに声を荒げる。
 アリエルは、ゆっくりと顔を上げた。
「もう、いいんです」
「アリエル」
「色々ありがとうございます」
 アリエルは、握り締められていた左手をゆっくりと引き抜いた。その手を膝にそろえて、頭を下げる。
「どんな理由があったとしても、僕がジュスタンの左目を奪ったんです」
「だから、それは」
 アリエルは、首を振った。柔らかな金髪が、光をはじく。
「ジュスタンには家族がいないんです。お父様もお母様も亡くなってしまって。だから、ジュスタンの目の代わりになる人が、いないんです」
 何度も何度も繰り返し考えた言葉を、アリエルはゆっくりと口にする。
「僕は、ジュスタンのたった一人の家族だから……その僕が、ジュスタンを傷つけたんだから、僕は、ジュスタンと一緒に行かないといけない」
「ばかなっ」
 リヒャルトは叫んだ。
 ジュスタンの失明を知った日に、覚悟を決めたアリエルから聞かされた話はリヒャルトにも衝撃だった。
「そんなこと、あいつの言うでたらめだ。アリエルとあいつが兄弟だって? ぜんぜん似てないじゃないか」 
 リヒャルトは、十月祭でクレマンスと会っている。あの紳士以外に、アリエルの父親などいるわけが無い。
「騙されているんだ。アリエル」
 リヒャルトは、絞り出すような声で諭した。
「お父さんが、そう、君のたった一人のお父さんが、こっちに向かっている。それまで、早まったことをするな」
 アリエルの瞳が曇った。覚悟は決めたけれど、父親の顔を見たら泣いてしまうかもしれない。
「それから……」リヒャルトは、一瞬唇をかんだ。
「アルベルトにも、電報を打った」
 クレマンスに連絡を取っても、アルベルトの居場所はわからなかった。パリのハーラルトの屋敷ならすぐに掴まったものを、アントワーヌ公爵の誘いでニースに行ったらしい。                           
 アントワーヌ公爵のプライベートでしか使用しない城の連絡先は、公にされていなかった。
 新聞社に連絡を取り、電話が無理なら電報で――と手を尽くしたが、いまだアルベルトからの連絡は無い。果たして電報がアルベルトの元に届いているのかも、リヒャルトにはわからなかった。けれど、
「アルベルトと会って話をするまで、行けないだろう?」
 アリエルを引き止めるためには必要だった。
「もう……いいんです」
 アリエルは、同じ言葉を繰り返した。
 デルフィーヌと婚約したアルベルトに、今さら会ってどうすればいいのか。
 アルベルトのことを考えると、また鼻の奥が痛くなる。アリエルは唇の内側を噛んで涙をこらえた。
 泣かないと決めたのだ。
 ジュスタンと一緒に行くと決めた夜、涙は封じ込めた。泣き虫のアリエルはエゼルベルンに置いていくことにした。ジュスタンと行くのは、感情の無いアリエル。この先何があっても傷つくこともなく、そして恋しい人を思って泣くこともなく、ただ、ジュスタンへの罪滅ぼしのためだけに生きるのだ。
(そしてアルのことは……忘れる……)
 リヒャルトは、うつろになったアリエルの表情に胸を詰まらせて言った。
「あいつが、他の女と婚約なんてするわけ無いだろ。何かの間違いだ」

 そこに、ノックの音が響いた。



 




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