アリエルは、結局、風邪を引いてしまい、高熱を出して月曜の授業を早退した。そして、その翌日の火曜日も熱は下がらず、ジュスタンに言われるままに休むことになった。

 その日、ジュスタンは朝食を終えると、授業の前に独り図書室に行き学生用に購入されている新聞を手に取った。目的のページを真っ先にめくって、
「あった」
 思わず声をあげた。

 社交欄に書かれた数十行の記事。ドイツ貴族の子息とフランスの名花の婚約発表。結婚がまだだと言うのにこれほど華やかに記事にされるのは、デルフィーヌの後ろ盾がフランスの名門で一、二を争う権力者アントワーヌ公爵だからだ。
 ジュスタンは、食い入るように新聞を読んだ。
「ふ、ふふ……」 
 知っていたのだ。デルフィーヌがアルベルトに一目惚れして伯父の公爵に涙ながらに願い出たこと。アルベルトと添えられないのなら死んだ方がましだとまで言って、誕生パーティーにも無理やり招いたこと、そしてそのままアントワーヌ公の力を持って婚約まで話を進めるだろうということまで。なぜなら――
「ジュスタン!」
 突然の声に、思考が中断する。
 驚いたことに、風邪で寝ているはずのアリエルがパジャマ姿で駆け寄ってきた。
 その後ろからリヒャルトが慌てて追いかけて来る。
「アリエル、せめてこれを」
 後ろからコートを羽織らせた。アリエルはそれも無視して、ジュスタンに掴みかかった。
「アルベルトから、電話があったの?」
 熱っぽい顔を近づける。
 ジュスタンは、手の中の新聞を握り締めた。
「リヒャルト先輩がシュルツ先生に聞いたって。日曜に、アルベルトから電話があったんでしょう。どうして言ってくれなかったの」
 ジュスタンは、リヒャルトを横目で見た。
(まったく、ちょっと自分が離れた隙に……)
 見舞いとでも称して顔を出したのか。
(おせっかいな男め)と、ジュスタンは内心毒づいて、そして唇の片端を上げて言った。
「黙っていたのは、アリエルには聞かせたくない話だったからだよ」
「えっ」
「でも、しかたないな。リヒャルト先輩が電話のことを言ってしまったのなら」
 あなたのせいですよ、と言わんばかりにひと睨みしたが、リヒャルトはそれを真っ向受け止めた。
「まあ、いずれわかることだしね、いいよ。教えてあげる」
「ジュスタン?」
 アリエルは、急に怯えたような顔になった。
「なに?」
 自分に聞かせたくない話とは。ジュスタンの口からは、いつも辛いことを聞かされる。
「部屋に帰ろう、アリエル。こんな格好で出てきちゃダメじゃないか」
「待てよ」
 リヒャルトがジュスタンの腕を掴む。
「その話、俺にも聞かせてもらおう」
 ジュスタンは、腕を振り払って
「あなたには関係ない」
「何だと」
 リヒャルトがジュスタンの胸倉を掴むと、他の生徒が駆け寄って来た。
「やめろ、リヒャルト」
「下級生相手に、何やってる」
「授業始まるぞ」
 リヒャルトの友人達が止めに入った隙に、ジュスタンはアリエルの肩を抱いてその場を逃げるように去った。
 アリエルは不安に心臓の鼓動を早めながら、おぼつかない足取りで従った。

「さて、邪魔が入らないようにしないとね」
 部屋に戻るときっちりと扉を閉めて、ジュスタンはアリエルに向き直った。
「日曜日に電話があったのはね――」


「うそ」
 ジュスタンの言葉に、アリエルは首を振った。
 信じられない。
 アルベルトがデルフィーヌと婚約したなんて。
「嘘じゃないよ。だからアリエルの誕生日にも戻れないってわざわざ電話をくれたんだ。律儀なアルベルト先輩らしいよね。でも、駅で待っているアリエルの姿を見たら、かわいそうで言えなくなったんだ」
 もっともらしく言って、ジュスタンは手にしていた新聞を広げた。
「ほら、今日の社交欄に載っていたよ」
 アリエルの瞳が見開かれる。
 震える手で新聞をとると、瞬きも忘れてその記事を読んだ。
「うそ……」
 もう一度震える唇でつぶやいたけれど、言葉とは裏腹に、アリエルはその事実を受け入れていた。

 アントワーヌ公爵のパーティーで見た二人の姿が脳裏に浮かぶ。まるで童話の王子様とお姫様のように美しかった。デルフィーヌのドレスの裾が大きく広がって、その細い腰に添えられたアルベルトの手はまるで花を抱くように優しく繊細だった。
 見つめ合う二人に、居場所が無く感じられて、フロアから逃げ出したあの日。
「アル……」
 言葉と一緒に涙がこぼれた。
「しょうがないよ。だって彼はバルドゥール侯爵家の後継者だろう。いつかは家柄の良い女性を選んで結婚しなきゃ。そういう意味では、デルフィーヌ嬢は理想的だよ」
 ジュスタンの言葉をアリエルは頭の中で繰り返した。
(いつかは……家柄の良い女性を選んで……)
「嫌だ……」
 アリエルは泣きながら新聞を握り締めた。そのままベッドに崩れるように座り込む。
「だって、アルは……僕の……」 
 それきり言葉が見つからず、アリエルは駄々をこねる子どものように首を振る。
 ジュスタンは、その隣に腰掛けてアリエルの柔らかな髪をなでた。
 なでながら、偽りの言葉を紡ぐ。
「かわいそうなアリエル。彼、ごめんねって言っていたよ。……でもアリエルには祝福して欲しいとも言っていた」
(祝福……)

 アリエルには、その言葉の意味がわからなくなった。

 こんなに悲しくて、こんなに辛くて、こんなに苦しいのに。
 どうして祝福などできるだろう。
 どうして、アルベルトはそんな残酷なことを言えるのだろう。


「うっ…く」
 ボロボロと涙をこぼすアリエルは、再び熱が上がったらしく赤い顔をしている。
 ジュスタンは、アリエルをゆっくりベッドに押し倒した。
 汗ばんだアリエルの泣き顔は、ひどく嗜虐的で――
「そそられる」
 と、ジュスタンはつぶやいた。
 いつものキスを唇に落としても、アリエルはぼんやりと天井を見ているだけ。小さな舌を絡めとっても嗚咽は収まらない。熱のせいもあって口の中は火傷しそうに熱かった。
 ジュスタンは、アリエルのパジャマの上からそっと胸を弄った。アリエルの抵抗は無い。アリエルは傷ついている。何も考えられないほど。それでなくても、高い熱は頭と身体の自由を奪う。
 ジュスタンは、様子を伺うようにソロソロとパジャマの下に手を伸ばした。 
 いつかの夜を思い出しながら、ジュスタンは慎重にことを運んだが、そんな気遣いは必要ないほど、あっけなくアリエルは白い裸体を晒した。
(またあの時みたいにパニックを起こされちゃかなわないけれど、大丈夫そうだ)
 あの時はアリエルの出生の秘密を話した。それも相当なショックだったはずだが、今日のほうがその何倍も傷ついているように見える。
(そんなに好きだったのか)
 ジュスタンは、残酷な気持ちになって白く柔らかな肌に歯を立てた。 
 アリエルはその痛みも感じない。ジュスタンにされるがまま、身体を許している。
「ちょっと、つまんないな」
 アリエルの肩や胸に散々に赤紫の傷をつけながら、ジュスタンは不服げに舌打ちして起きあがる。
「でも、そうしたら、さっさと挿れていいか」
 訊ねるというわけでもなく、独り言のようにつぶやいて、ジュスタンはアリエルの脚を広げた。
 無反応だったアリエルの瞳が瞬間見開かれた。
 最奥に触れる指に、いつかの恐怖を甦らせて
「やっ」
 突然叫んだ。
 ジュスタンは、それを面白がった。
「そうそう、少しは反応してくれないと」
 パニックは面倒だと思っていたことも忘れて、アリエルの中心を弄ると、
「やめてぇっ」
 悲鳴とともに、アリエルの手が動いた。

「うっ」

 ガラスの割れる音とともに、ジュスタンがうめいた。
 アリエルの右手にはいつの間にか、いつもベッドサイドに置いていた水差しが握られていた。
 今、その水差しは割れて、透明な水の代わりに赤い血を滴らせている。
「っ……」
 ジュスタンが左眼を押さえながら、アリエルの上から身体を起こした。
「あ、あ……」
 アリエルは、ジュスタンのこめかみあたりから血が流れ出るのを見た。振り上げたままの自分の右手もだらだらと血を溢れさせている。
「い…」
 ヒクリと咽がなって、
「嫌あぁ――っ」
 アリエルが激しい悲鳴をあげるのと、リヒャルトがドアを蹴り上げて入って来たのが同時だった。











* * *

「失明?」
 右手の包帯をそっとさすりながら、アリエルは医者の言葉をつぶやいた。
 リヒャルトが止めるのも聞かずジュスタンに付き添いたいと言ったアリエルだったが、医者は別室を用意した。アリエルにも安静が必要だと判断したのだ。
「見えなくなるの? 左眼」
「角膜が、ガラスの破片で傷ついてしまってね」
 まだ若い医者は、子ども相手でもきちんと説明した。けれども、
「治らない?」
「……」
 先年ソビエトの医者が成功させた角膜移植手術のことまで、この小さな少年に語るのはためらわれた。
 医者の沈黙に答えを察して、アリエルはゆっくりとベッドから起き上がった。
「ジュスタンに会いたい」
 まだどこか熱っぽい顔で、アリエルは医者を見つめた。
「ジュスタン、起きているんでしょう?」
 小首をかしげる様子はひどく儚げで、手を伸ばせば消えてしまいそうに脆く現実味がない。
 天使のような少年だと、この医者も、知らず知らず見惚れていた。
「……もう少し、休んでからにしたほうが」
「ううん」
 医者の言葉の途中で、アリエルはベッドから足を下ろした。
「起きて、一人だと、かわいそう」
 裸足で床に立つのを見て、医者は慌ててスリッパを出して履かせた。

 部屋の外にリヒャルトの姿は無い。エゼルベルンに帰されたのだ。そして今ごろ、アルベルトと連絡を取るために手を尽くしているはずだが、アリエルにはわからないこと。

「ジュスタン」
 扉をそっと開けると、ジュスタンはゆっくりと振り返った。
 黒い髪の下、額から左のこめかみにかけて包帯が巻かれている。あの印象的な灰色の瞳は、片割れを失ってなお強い瞳でアリエルを捉えた。
 アリエルは扉の内に佇んだ。
 ジュスタンの左手が伸ばされる。
「おいで……」
 囁かれた言葉に、手繰り寄せられるように、アリエルは歩み寄った。
「ごめんなさい……僕のせいで……」
 何が起きたか憶えていない。けれども、自分のこの手が、血にまみれた右手が、ジュスタンの片目を奪った。
「アリエル、僕の義弟(おとうと)」
 ジュスタンは、左手でアリエルの右手を取るとそっと口許に運んだ。自分を傷つけた指に愛しそうに口づけて、
「僕と来るね」
 念を押すように言った。
「僕と一緒に、フランスに」
「ジュス……」
「君は、僕の左眼にならないといけない」
 囁きは毒のようにジワリと広がり、アリエルの心を麻痺させた。
 こっくりうなずくアリエルを見て、ジュスタンは歓喜に身体を震わせた。

(手に入れた……本当に、これで……)

 






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