アルベルトが休暇を延長したことに一番驚いたのは、他ならぬリヒャルトだった。
「たった一週間ですら、アリエルを一人にしたくないと言っていたのに……」
 一体どうして、と問いたくともエゼルベルンに理由を知るものなどいなかった。リヒャルトはアリエルの憂い顔を思い浮かべて、眉間のしわを深くした。
 アリエルの様子がおかしいことに気がついてから、リヒャルトは何かと理由をつけてはアリエルのそばに行ったのだが、肝心のアリエルが暗い顔をしたままジュスタンから離れない。今日も昼を誘ったのに断られてしまった。
(らしくない……)
 アリエルとジュスタンの間に何があったのか。そして、何故アルベルトは帰ってこないのか。
 リヒャルトは割り切れない思いに革靴の先で床を蹴った。


「帰ってくる」
 アリエルはもう何度目かの言葉を唇に乗せた。
 自分の誕生日には絶対にアルベルトは帰ってくる。それはもう、アリエルの中で確信に近い思いになっていた。カレンダーのハートの印をそっとなぞって
「お帰りなさい、アル」
 小さくつぶやくと、 アリエルの背中からクツクツと笑い声が聞こえた。アリエルはもう気にもしなかった。ジュスタンの意地悪には慣れた。
「誕生日にはリヒャルトとかパウルとか来るだろうけど、誰の誘いにも乗るんじゃないよ」
 ジュスタンの言葉に、アリエルは黙ってうなずく。
 当たり前だ。その日は――
(アルの帰ってくる日だもの……)


 アリエルの誕生日の二十日は、ちょうど日曜日だった。前々日の金曜日にパウルがフランツと一緒にやって来た。ジュスタンのせいで色々あったけれども友達だ。アルベルトが戻ってこなくて元気の無いアリエルを二人とも心配している。
「あさって、誕生日だろ? 外出許可をもらって町に出ないか」
「プレゼント、一緒に買いに行こうよ。あ、あんまり高いのはダメだけど」
 パウルとフランツに、アリエルは首を振った。
「ごめんなさい」
 また断られた、とパウルはしょぼくれた顔をしかけたけれど、
「あさっては、アルが帰ってくるから、待っていないと」
 アリエルの言葉に、パッと顔を輝かせた。
「帰ってくるの?」
 パウルはアリエルの言葉をそのまま信じた。アリエルはコクンとうなずく。思い込みがいつの間にか真実のようになっている。その脆い心にパウルもフランツも気づかない。
「なんだ。よかった」
 パウルがホッとした声を出すと、フランツも
「寂しい誕生日になっちゃうって、心配して損しちゃったよ」
 ペロリと舌を出して、ポカリとパウルに殴られた。アリエルは微笑んで二人を見る。
「じゃあ、明日はアルベルト先輩と一緒なんだね」
「いいなあ、フランスのお土産。おいしいお菓子があったら僕たちにもちょっと分けてね」
「うん」
「じゃあ、二日早いけど良いお誕生日を」
「おめでとう、十四歳」
「ありがとう。パウル、フランツ」
 交互に頬にキスをして二人が帰っていくと、ジュスタンが顔を出した。おかしそうに片眉を上げてアリエルを見る。
「明日帰ってくるって?」
「うん」
「連絡があったのか」
「約束しているもの」
「ふうん」
 二人がキスした頬を拭うように両手で挟むと、
「楽しみだね」
 ジュスタンは薄く笑った。



(外出許可……)
 パウルの言葉を思い出して、アリエルはふと閃いた。
「外出許可をもらって、駅で待とう」
 アルベルトに会いたくて会いたくてたまらない。会って、全てを話せるわけじゃないけれど、それでもアルベルトの暖かな腕に飛び込みたい。優しい声が聞きたい。
 そう思うと、居ても立ってもいられなくなって、アリエルは外出許可を取りに行った。
 意外なことにいつもアリエルにベッタリくっついているジュスタンが
「僕は行かないよ。かまわないから一人で行っておいでよ」
 アリエルが一人で外出することを許した。
「万が一、アルがすれ違いでここに来たら、すぐに駅まで呼びに行ってあげる」
「あ、ありがとう。ジュスタン」
 素直に礼を言うアリエルに、ジュスタンは笑いをかみ殺す。
 ジュスタンは知っていた。アルベルトが戻ってくるはずのないこと。
「門限には遅れないようにね」
 ジュスタンが口を滑らせた一言にも、
「そんなに遅くならないよ。アルベルトはいつも早い時間の汽車を選ぶもの」
 アリエルは気づくことなく、朝早くから嬉しそうに出かけていった。その姿を見送りながら、
(待ちくたびれて夜になるなんて、思ってもいないのか)
 ジュスタンは灰色の瞳を細めた。



 アリエルが出かけて二時間ほど経ったとき、
「アリエルはいるか」
 シュルツ教諭が、アリエルを呼びに来た。
「いえ、出かけていますが」
 ジュスタンが出ると、
「そうか。アルベルトから電話が入っているんだが」
 教諭の中では一番年が若く生徒からも人気のあるシュルツは困ったように頭を掻いた。エゼルベルンでは、よほどの緊急のことが無い限り家族からでも電話は取りつがない。たった一つしかない電話だから、いちいち取りつぐと限
(きり)が無いのだ。けれど、
「アルベルトが、なんだか切羽詰った声でどうしてもと言っているからな」
 シュルツは、特別扱いの言い訳をした。
「僕が出ます。代わって聞いておきますよ」
 ジュスタンは、微笑んだ。



「アロー」
 待たされた挙句聞こえた声に、アルベルトは息を飲んだようだった。
「……ジュスタン?」
「アリエルは外出しています。誕生日ですからね」
「……そう、か」
 あからさまに落胆した声。ジュスタンは意地の悪い笑みを浮かべるが、受話器の向こうに見えるわけは無い。
「伝言なら伝えておきますよ」
「あ、ああ……そうだな。時間が無いんだ。今から言うことをアリエルに伝えて欲しい」
 アルベルトは、ほんの少し躊躇したけれど、
「アリエル、誕生日おめでとう。帰るのが間に合わなくて本当にすまない。今、色々あって戻れないけれど、すぐに片をつけて帰るから心配しないで待っていてくれ」
 一息に言った。
 言い終わった後の微かなため息が、アリエルと直接話すことができなかった落胆を伝える。
 ジュスタンは、ことさら明るい声で応えた。
「わかりました、伝えます。アリエルは元気ですよ。ご心配なく」
「あ…っ」
「はい?」
「いや…なんでもない。それじゃ」
 慌しく電話は切られた。
 人目を忍んで掛けてきたのだというのが良くわかる。
 ジュスタンは、アルベルトが最後に言いかけた言葉を想像して楽しんだ。
(愛しているとでも伝えて欲しかったのかな、それとも……)



 アリエルは、駅の改札口に朝からずっと立っていた。小さくかわいらしい少年の佇む姿は、町の人々の興味を引いた。
「坊や、お母さんでも待っているの」
「何時の汽車だい?」
「ここは風が強いでしょう」
「あっちにベンチがあるわよ。そこで待っていたら」
「ああ、あそこの方が寒くないぞ」
 改札から離れた木のベンチのある待合室を教えてもらったけれど、アリエルは丁寧に断った。改札にいたかったのだ。
 自分が目を離した一瞬の隙にアルベルトが通り過ぎてしまわないように。
 それに、アルベルトが駅に着いて一番に目にするのが自分であって欲しかった。


 汽車がつくたびに、大きな鞄を持った紳士や綺麗に着飾ったご婦人がホームに吐き出されて目の前を通り過ぎていく。アリエルは水色の瞳を大きく見開いてアルベルトを捜したけれど、いつまで待っても美しい従兄の姿は現れなかった。
「坊や、汽車のつく時間は決まっているんだよ。近くなったら呼んであげるから、待合室に入っておいで」
 見かねた駅長が声をかけたけれど、アリエルは首を振った。
 午後になると、
「おや、あなた、朝からずっとここにいるの」
 近くまで出かけてすぐに帰ってきたらしい婦人が、アリエルを見て驚きの声をあげた。
「まあまあ、こんなに冷えて」
 アリエルの両手を握り締めて、自分のショールを羽織らせた。
「あ、あの」
 アリエルが戸惑うと、
「あとで駅長さんに返しておいてくれれば良いから」
 婦人は、上品に微笑んだ。
「それにしても、誰を待っているの?」
「あ…アル……」
「アル?」
「従兄です」
「そう、汽車の時間はわからないの?」
 こんなに長い間待っているなんてと、婦人は気の毒そうな顔をした。
「…………」
 アリエルはうなだれた。
「……今日、誕生日だから……」
(帰ってくる)
 婦人は、その言葉を勘違いした。
「そう、それでその従兄を驚かせようと思って待っているのね」
 ショールの上から、黙ったままのアリエルの身体をさすって、
「でも、風邪を引かないようにね。従兄さんによろしく。良いお誕生日を」
「……ありがとう」
 アリエルの返事に、その婦人は満足そうに微笑んで去っていった。
 アリエルは、ショールの端を握り締めた。
(帰ってくる)
 だって約束したもの。僕の誕生日一緒にお祝いするって言ったもの。
 
 けれども、その日、日が暮れてもアルベルトは現れなかった。




「アリエル」
 ジュスタンに声を掛けられたとき、アリエルは咄嗟に、自分が気づかないうちにアルベルトはエゼルベルンに着いたのだと思った。

『万が一、アルがすれ違いでここに来たら、すぐに駅まで呼びに行ってあげる』

「帰ってきたの?」
 しがみついて訊ねると、ジュスタンは無表情に首を振った。
「門限に遅れそうだから呼びに来たんだよ」
 アリエルは、身体の力が抜けた。ジュスタンがそれを支える。
「帰れる?」
 アリエルは、ゆっくりとその場にしゃがみこんだ。冷たくなった足の先が麻痺して感覚が無い。
「う…」
 我慢していた涙が溢れてきた。夕方くらいから、ずっと我慢していた。

 来ないかもしれない。
 今日帰ってこないかもしれない。
 そんな気持ちと戦いながら、必死になって我慢していた。

 そんなことない。絶対帰ってくる。

 でも――
(帰ってこなかった……)
 自分の誕生日には絶対帰ってくると信じていたのが、ただの思い込みだったという現実に、アリエルは打ちのめされた。
「う…ふ、うっ……」
 座り込んだまま泣き出したアリエルを見て駅長が飛んでくる。朝からこの小さな男の子のことをずっと気にしていたのだ。
 ジュスタンは駅長に向かって、少年らしくない声で
「車か馬車か、送っていただける人をご存知ありませんか。彼、歩けそうにないので。お礼ならできます」
 上着のポケットから分厚い財布を取り出して言った。
「子どもが、そんな礼なんかしなくていいよ」
 駅長は奥に引っ込んだ。すぐに荷車を引いた馬を連れて男が現れた。決して上等とはいえない毛布を敷いた荷台にジュスタンは眉をひそめたけれど、
「エゼルベルン・ギムナジウムだろう。二十分くらいで送ってあげられるよ」
 朴訥そうな男の言葉に、うなずいた。
「ほら、アリエル」
 手を貸して、荷台に乗せる。
 馬は男に促され、しっかりした足取りで荷車を引き始めた。
「う、うっ…アル……」
 アリエルはいつまでもポロポロと涙を流している。
 ジュスタンは、予想通りの展開に、少しだけばかばかしくなった。

『アリエルに伝えて欲しい』
 アルベルトの切実そうな声を思い出して、ほくそえむ。
 もちろん、伝える気などさらさらない。

(そして……)
 荷台で泣きじゃくるアリエルを横目で見ながら、ジュスタンは、次にアリエルを打ちのめす出来事を思って、ゾクゾクと背中を震わせた。

 近いうちに新聞の社交欄を賑わすはずだ。
(明日ならいいのに……)
 アルベルトとデルフィーヌの婚約。
 自分の誕生日の翌日に、愛する人の婚約を知ったら、この弱い少年はどうなるだろう。
 ジュスタンは残酷な気持ちで、アリエルの泣き顔を見つめつづけた。








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