「コート・ダジュール?」
 アルベルトは、父親の言葉に驚いて振り返った。
「ニースのアントワーヌ公の城に招待されたんだよ」
 ハーラルトは口ひげをいじりながら、楽しそうに言った。
「招待……って、待ってください。僕はもう帰らないと」
 アルベルトは慌てて応えた。
 一昨日、予想以上に盛大なデルフィーヌの誕生パーティーを終え、ようやく御役御免となったのだ。心はすでにエゼルベルンに飛んでいる。たった今も、アリエルの誕生日プレゼントをどうしようかと考えていたところ。
「どうした。あと少し休暇が延びたところで、授業に遅れるようなお前ではないだろう」
「休暇は、一週間の届出でもらっています」
「保護者が延長を依頼したのだから、問題は無い」
「困ります、勝手に」
 秀麗な額に困惑を刻んで、アルベルトは父親の腕をつかんだ。
「アルベルト」
 ハーラルトは自分の腕をつかんだ手をやんわりと引き剥がし、諭すように言った。
「遊びに行くわけじゃない。バルドゥールとして必要なことだとわかってくれ」
「…………」
「アントワーヌ公は、私たちの大切な友人だ」
「あなたの、でしょう」
 アルベルトは非難がましい声で言ったがハーラルトは気にした様子も無く、そのままソファに腰掛けて葉巻をくわえた。ゆったりと長い足を組む。
「私の友人は、そのうちみんなお前の友人になる。仕事の上では、よき理解者、支援者に」
「そういうことは、学校を出てからちゃんとします」
 とにかく今はエゼルベルンに返してくれと頼んだけれど、父親の返事は否だった。その上、
「デルフィーヌ嬢がお前のことをたいそう気に入っている。そしてアントワーヌ公も」
 意味深な言葉に、アルベルトは眉をひそめた。
「どういう意味です?」
「そのままだよ」
「……僕にことわり無く、勝手に話を進めたりしないでください」
「話?」
 ハーラルトは片方の眉を上げて、煙を吐き出した。
「どんな話だ?」
 アルベルトは答えず、苦々しそうに背を向けるとクローゼットを開いた。これ見よがしに荷物を詰め始める。
「ニース行きの準備か?」
「帰るんです。エゼルベルンに」
「そうはいかない」
「お父さん」
「わかってるんだろう」
 ハーラルトは立ち上がり、アルベルトの手から上着を取り上げると、クローゼットを閉じた。
「自分で察しているから、さっきのようなことを言う」
「何のことでしょう。……邪魔しないでください」
 珍しくふてくされたようなアルベルトに、ハーラルトは笑みを漏らした。
 幼い頃から一緒に過ごした時間は決して多くはなく、その上ここ四年は全く会っていなかったからクリスマスにクレマンスの館で会ったときもどこかよそよそしく感じたものだが、こうしているとやはり親子だと感じる。同級生の中でも大人びているはずのアルベルトが拗ねる様子は、大人の目から見ればひどくかわいらしい。
 ハーラルトは、妻イルマには感じたことの無い家族への情愛というものを、アルベルトには感じている自分を知る。
(不思議だな。血のつながりは無いというのに……)
「アルベルト」
 ハーラルトは、父親の気持ちになって告げた。
「アントワーヌ公は、デルフィーヌ嬢とお前を婚約させたいと思っている」
 大きな手でアルベルトの両肩を包むようにして、自分と同じ色の瞳を覗き込む。
「良い話だ」
「…………」
「ニース行きも、そのお膳立てだ。だから、断るわけにはいかない。私もお前も」


 アルベルトは黙って、父親の目を見返した。
 小さく息を吸って、自分が告げるべきことを頭の中で言葉にする。
 その話は、受けられない。
 けれども、その理由をどう話せばいいのか。正直に言っていいのか。

『ハーラルトは、女性を愛せない』
 クレマンスから聞いた言葉だけが頼りだ。自分のことも理解してくれるとしたら――。

「……申し訳ありませんが、デルフィーヌとは婚約できません」
「そう言うだろうと思ったよ」 
 ハーラルトは、口ひげの下の薄い唇の端を上げた。
「なにも今すぐ結婚しろなどと言っているわけじゃない。お前もデルフィーヌもまだ若い。しかし婚約というのは、もっと小さなころから決められている場合も多い」
「お父さん」
「お前も貴族に生まれたからには、自由な恋愛ができるとは思っていないだろう」
「お父さん、聞いてください」
 ハーラルトの言葉をさえぎり、アルベルトは覚悟を決めた。
「デルフィーヌとは、婚約できません。僕は……」
 それでも一瞬言葉に詰まる。軽く下唇を噛んで湿らせ、
「僕は、アリエルを愛しています」
 はっきりと告げた。


 唐突なアルベルトの言葉にハーラルトは唖然とし、次の瞬間、はじけたように笑いだした。
「いきなり何を言い出すかと思えば」
 笑いながら苦しそうにソファに座る。アルベルトは顔を強張らせた。
「笑わないでください」
 いくら父親でも、自分の真剣な思いをこんな風に笑うなんて、許せない。
 ここ何ヶ月もアリエルのことで思いつめる日が続いたアルベルトにとって、この告白は重大なものだった。父親にわかってほしかったのだ。それなのに――。
 ハーラルトは、まだソファの背に身体を預けて、肩を震わせている。
 アルベルトは青ざめた顔に次第に血を上らせて、父親を睨んだ。


(まさかアルベルトがアリエルを……)
 ハーラルトは、自分と同じ性癖を持ったらしい息子に、笑いがこみ上げる。血の絆が無くても似てしまうものだろうか。いや、あの天使が、アルベルトをそうしてしまったのか。
「アリエルは確かにかわいい。女の子よりもね。お前の気持ちもわかる」
「それじゃあ、婚約の話は無しにしていただけますね」
 アルベルトは、無意識に拳を握り締めた。
「そういうわけには行かないよ、アルベルト。いくらかわいくてもアリエルは男の子だ。お前と結婚はできない」
 言いながら、ハーラルトはかつて自分が父親に言われたことを思い出した。あの頃の自分は馬鹿だった。世間をごまかすことも知らず。
「わかっています。もとより結婚したいわけじゃありません」
「じゃあ、どうしたい?」
「……ずっとそばに……ずっと一緒にいたいんです」
 アルベルトは長い睫毛を伏せて、切なく声を震わせた。
(愚かな息子よ……)
 アルベルトにまだ若かった頃の自分を重ね、胸の奥がチリッと痛んだが、それはただの感傷。ハーラルトにはバルドゥール家の当主としてやらねばならないことがある。
「一緒にいればいいだろう。仲の良い従兄弟同士として」
「そういうのじゃありません。もう、いいです。とにかく僕は……」
「待て」
 話を打ち切って部屋を出て行こうとしたアルベルトを、ハーラルトが厳しい声で呼び止める。
「……何ですか」
 アルベルトはゆっくり振り向いた。わかってもらえなかった悔しさに、目の縁が紅く染まっている。
「アルベルト。わかっているだろうが、お前はバルドゥールの後継者だ。本家の血を絶やさないために、結婚して子どもを作らないといけない」
 アルベルトの頬がピクリと痙攣した。
「だから、僕にデルフィーヌと結婚しろと言うのですか?」
「そうだ」
 頭に血が上り、考える先に言葉が出る。
「お父さんのように? 愛も無く?」
「なに?」
「彼女も、誰かの子を連れてきてくれるんでしょうか」

『ハーラルトは、女性を愛せない』
(なのに、どうして僕の気持ちを理解してくれない!)
 わかろうとしない父親に、アルベルトは、生まれて初めて激しい感情をぶつけた。
「僕は、嫌だ!」
 子どもを残すためだけの、家を守るだけの、結婚なんて。
(大体、はじめから……)
「バルドゥール本家の血なんて、僕には流れてない」
「アルベルト!」
 ハーラルトの怒声に、アルベルトは身体を強張らせた。自分が口走ったことに気づいて唇を噛んだけれども、もう遅い。
「アルベルト、何を知っている」
 ハーラルトの薄紫の瞳が、冷たく見据える。
「…………」
「誰から聞いた。イルマか?」
 アルベルトは、小さく首を振った。こうなったら、隠すことも無い。
「クレマンス叔父さんです」
 瞬間、ハーラルトの瞳に険悪な影がさした。
「あなたも、同じなのでしょう」
 アルベルトは、緊張で長い睫毛を瞬かせた。
「聞いています。あなたも、女性を愛せないって」
 ビシッとアルベルトの頬が鳴った。
 アルベルトは予想していたらしく激しい衝撃にも倒れずに、打たれた頬を抑えて上目遣いに睨んだ。ハーラルトは、殴った右手をゆっくりと降ろし左手で庇うようにさすった。長い指先が、不本意だと言っている。
「そんな馬鹿なことを、二度と言うんじゃない」
 そして、黙ったままのアルベルトに冷たく宣言した。
「そういうことなら、なおさらデルフィーヌとの婚約は進めないといけない」
 アルベルトがハッと顔を上げる。
「一時間後に車が来る。さっさと荷物をまとめておけ」
「行きません」
「命令だ」
「聞きません」
「いいかげんにしろ」
 ハーラルトは大声で執事を呼んだ。そして、他の使用人たちも。
「さあ、この坊やが逃げ出さないように見張っていてくれ」
「父さんっ」
「さっきの話の続きは、車の中で聞いてやる」
「待ってください、僕はっ」
 アルベルトの叫び声を無視して、ハーラルトは部屋を出て行った。
 アルベルトは抵抗したけれど、ハーラルトの使用人の中でも屈強な男たちに止められ、無理やり、ニース行きの車に押し込まれた。





*  *  *


 アルベルトが帰ってこない。
 アリエルはカレンダーに付けた印を見て、睫毛を震わせた。
『この日に帰ってくるから』
 月曜日の数字の上に、一緒に赤い花を書いた。
「アル……どうして……」
 つぶやくと、
「休暇が延長されたらしいよ」
 ジュスタンが部屋に入ってきた。
「えっ?」
「先生に聞いた。デルフィーヌ嬢と一緒のパリは、さぞ楽しいんだろうね」
 意地悪く言うジュスタンにアリエルは顔を背ける。ジュスタンは、気にせずアリエルを抱きしめる。
「寂しいね、アリエル。でも僕がいるよ」
「やめて」
 口づけを受けながら、アリエルは身体をよじった。
「ねえ、アルはもう帰ってこないかもしれないよ」
「そんなこと無い」
「どうして? 現に帰ってこないじゃない」
「……学校があるし、帰ってくる」
「アルなら、今すぐソルボンヌでも行けるんじゃないの」
「たとえそうでも、アルは帰ってくる」
 ジュスタンの腕に絡め取られながら、アリエルはもう一度カレンダーを見た。
 三月二十日の上には、アルベルトの書いた小さなハート。

『戻ったらアリエルの誕生日を祝おう。むこうでプレゼントを買ってくるよ』
(戻ってくる。この日までには、絶対……)









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