「なんかさ、アリエルもちょっとひどいよね。今までパウルに色々してもらったこと、忘れちゃって」 教室の一角、椅子に後ろ向きに座ったフランツが、難しい顔をして本を読んでいるパウルにささやく。視線の先にはアリエルとジュスタンがいる。 「よせよ」 パウルは、下を向いたまま言った。 「だってさぁ」 フランツは、唇を尖らせる。 「いいんだよ、アリエルのことは……アリエルがしたいようにすれば」 そう言いつつも、チラリとアリエルの方を盗み見て 「どうせ、アルベルト先輩が帰ってくるまでのことだし」 パウルは、小さく付け加えた。 はっきり言えば、アリエルの隣に居るのが自分ではなくてジュスタンだというのは気に入らない。むちゃくちゃ気に入らない。でも、選んだのはアリエルだ。 「でもさ、アリエルの一番の友達はパウルだと思っていたのにな」 しつこく言うフランツに、パウルは切れた。パタンと音を立てて本を閉じると 「うるさいよ」 立ち上がりながら、かなり分厚いその本を振り上げる。 「あ、何だよっ」 「もう、さっさとライムントの所でもどこでも行けよ」 「ヒステリー」 「人が本読んでるのに、ゴチャゴチャ言うからだ」 「読んでないじゃん。教えてあげるけど、本は読むためのもので人を殴るものじゃないよ」 「知ってるっ。邪魔してるのは君だっ」 騒ぐ二人を、教室にいた生徒が冷やかす。 「珍しいな、パウルがケンカか」 「やれ、やれぇ」 アリエルは、少し離れた場所からその騒ぎを見た。パウルとフランツ、ケンカと言いながらふざけているようで、どこか楽しそうだ。 「アリエル」 横からジュスタンが呼びかける。 「行こう、移動だよ」 「……うん」 ジュスタンは、あの夜からアリエルの部屋に泊まっている。アルベルトが居なくなって情緒不安定になっているアリエルの付き添いという名目で。エルンストにもクラウスにもすんなり了承してもらえたのは、やはりあのことを忘れていないからだろう。 三日目の夜。部屋に入ると、ジュスタンはいきなりアリエルを背中から抱きしめた。アリエルは、身体をこわばらせたが、抵抗はしない。抵抗しても無駄だとわかっている。力ではかなわないし、ジュスタンには切り札があった。 黙っているアリエルの髪に顔をうずめて、ジュスタンはくぐもった声を漏らす。 「言ってはダメだよ。アリエル。僕たちだけの秘密だから」 アリエルは下を向いた。すると、不意に顎をつかまれて 「んっ」 噛み付くように口づけられた。目を閉じないキス。 アリエルはぼんやりとそれを受ける。 ジュスタンは、あの夜から毎日、二人きりになるとキスをする。しかし、それ以上のことはしてこない。 「また、悲鳴をあげられたら大変だからね」 けれども口腔を犯すキスは、重ねるごとに激しく淫らになっていく。アリエルは、何故自分がこんなことまで許しているのかわからない。そして、何故、ジュスタンがこんなことをするのかも。 「ジュスタンは、僕のこと、好きなの?」 何度目かのキスの後、恐る恐る尋ねてみた。ジュスタンは目を瞠って、そして大声で笑い出した。ひとしきり笑い終わると、 「僕の母は、死ぬまで君の母親のことを恨んでいたよ」 冷たい声で言った。 アリエルは小さく震えて固まる。 「さすがに僕に何かを話すようなことはしなかったけれど、彼女の様子は子供心にも痛々しかった。そして彼女が死んだ後、日記を読んだ僕が感じたことは何だ? 母を不幸にした女とその子供に、母を不幸なまま殺した女とその子供に」 「殺、した……?」 「母は、ノイローゼで自殺したんだよ。……原因は、君たちだ」 驚愕したアリエルの瞳に、水色の膜が張る。溢れたそれが、ホロリと一粒、頬を滑り落ちた。 ジュスタンはその顔を見て、不機嫌そうに顔を背けた。 「そんな僕が君のことを好きだなんて、よくまあ、言えるもんだ」 吐き捨てて、ジュスタンは苛々と髪をかきあげた。 アリエルはうなだれた。ヒルデの不倫も自分の出生の真偽も、何もかも確かめるすべは無い。 直接聞いてみろと言われたけれど、とても聞けない。誰にも言えない。 (でも……きっと……) ジュスタンの言うことは、本当なのだ。 静かに涙を流すアリエルを、ジュスタンは乱暴に引き寄せた。 「あ」 噛み付くように顔中に口づけられ、アリエルはまたわからなくなる。 自分のことを好きでないと言いながら、どうしてこんなことをするのだろう。 「お砂糖ちゃん」 礼拝堂から出たところでリヒャルトに肩を叩かれ、アリエルは振り返った。 「どう、寂しくない?」 いつもの冗談で、リヒャルトは片目をつむって言った。 「あいつに、アリエルが寂しがっていたら添い寝してやってくれって、言われてたんだけど」 アリエルは応えず、途方にくれた幼い子供の顔でリヒャルトを見上げている。 「どうしたんだ? アリエル」 「アリエル」 横からジュスタンが、スッと割り込んだ。 「失礼します。リヒャルト先輩」 「あ、ああ」 ジュスタンはアリエルを庇うように立つと、 「アリエル、ちょっと具合が悪いんですよ」と、肩に手を回した。 アリエルはただ黙ってうつむく。その様子に、リヒャルトは眉を寄せる。 アルベルトがフランスに行った日の夜、アリエルが具合を悪くしたというのはフリューリング寮のエルンストから聞いていた。けれども、ジュスタンやパウルがついているから心配ないとも言われていたのだが―――。 (心配ない、という顔か……) 「大丈夫か?」 リヒャルトはアリエルの色の無い頬に指を伸ばした。ジュスタンの腕がアリエルを引き寄せる。 「大丈夫です、リヒャルト先輩。アリエルは、大好きなアルベルト先輩がいなくなって、ちょっと情緒不安定なだけですから」 「ああ」 ジュスタンから教えてもらうまでも無い。リヒャルトは少し不機嫌にうなずいた。 「悪かった。……アルベルトから頼まれていたのに」 「添い寝なら、いりませんよ」 ジュスタンはクスリと笑った。 「そうじゃなくて」 「間に合っています。僕がいますから」 ジュスタンの言葉にリヒャルトはあからさまにムッとした。ジュスタンは悪びれない。 「アルベルト先輩が帰ってくるまで僕がついています。そのほうがアリエルも安心ですし」 「安心?」 「ええ」 ジュスタンはアリエルの背中を押して、 「ほら、僕がいるから、大丈夫だって言って」 微笑みながら促した。 「アリエル?」 「あ……大丈夫、です」 アリエルは、声を震わせた。 「ジュスタンが、いるから……」 「アリエル」 リヒャルトはジュスタンを押しのけて、アリエルの肩をつかんだ。 「しっかりしろ」 「よしてください」 ジュスタンが険しい声を出す。 「乱暴です」 「なん…」 「アリエルを、不安にさせないでください。それでなくてもおかしいんですから」 青い顔のアリエルを、これ見よがしに抱きしめる。アリエルは、じっと抱かれたまま。 「…………」 しばらく睨み合う二人。礼拝堂から出てきた生徒たちが、興味深げに立ち止まって見る。 「どうした?」 声をかけてきたのは、エルンストだ。 「いえ、またアリエルが……」 ジュスタンが、困った様子で返事する。 「ああ、顔色が悪いな」 アリエルの顔を覗き込んでエルンストは言った。 「部屋につれて帰ります」 リヒャルトに牽制するような視線を送って、ジュスタンは踵を返した。アリエルはジュスタンに肩を抱かれたまま、黙って歩いていく。 「アリエル」 呼んだけれど、振り向くことは無かった。 「エルンスト」 リヒャルトは、同じ学年の寮長仲間に、険悪な声で呼びかけた。 「な、なんだ」 「ジュスタンが付いているから大丈夫だとか言ったな」 「ああ、見てのとおり」 「どこがだ」 「献身的に付き添っているじゃないか」 「あのアリエルのどこが大丈夫だと言うんだ」 「そりゃあ、アルベルトがいなくて不安定なんだろう。アルベルトじゃなきゃ誰が付いていても一緒だよ」 肩をすくめるエルンストに、リヒャルトは殴りたいような衝動を覚えた。もちろん、八つ当たりだ。 リヒャルトは、アリエルのことを人任せにした自分を罵った。アルベルトがいなくなったからといっていちいち様子を見に行く自分を「未練たらしい」と思い、わざと近づかなかった。それが―― (たった四日であんなふうになってしまったなんて……) ジュスタンとアリエルの間で起きたことを、リヒャルトが知る由も無い。けれども、アリエルの変調は明らかだ。 リヒャルトは、それがアルベルトの不在によるものだと思い、今更ながらアリエルのアルベルトに対する想いを見せ付けられた気がした。 「今日の授業は、お休み。僕も一緒にいるから」 ジュスタンに言われてアリエルは、諦めたように目を閉じた。さっきのリヒャルトの顔が浮かんでくる。 『アリエル?』 ひどく心配そうな顔。 『大丈夫です。ジュスタンがいるから』 パウルに続いて二人目だ。本当はすがりつきたかった、大きな手で肩をつかまれたとき。あの広い胸に飛び込んで、全てを吐き出せたら―――。 けれども、そんなことはできなかった。 ジュスタンという名の鎖にしばられている。 ジュスタンという名の檻に囚われている。 (助けて……) 『アルベルト先輩が帰ってくるまで』 ジュスタンはそう言った。 アルベルトが帰ってきたら、どうしよう。 アルベルトにだけは知られたくない。 けれどもアルベルトを前にしたら、リヒャルトの比ではなく、自分を抑えられないだろう。 あの胸に飛び込んで、身も世もなく泣いてしまうだろう。 自分を救ってくれるたった一人の人。 (アル……帰ってきて……) あと三日。来週の月曜日にはアルベルトが帰ってくる。 会うのは怖い。秘密を告げる勇気は無い。でも、アルベルトにぎゅっと抱きしめられたなら、今のこんなに苦しくて辛い心も、きっと癒される。 (アル……) アリエルは、無意識に両手を組んだ。 神に祈る姿で、これも無意識に愛しい人の名前を呟く。 「アル……」 ジュスタンは、無表情にそれを見た。 (アル……早く、帰ってきて……) アルベルトの帰りを祈るアリエル。 それがかなわないことを、知っているのはジュスタンだけだった。 |
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