「嘘」 何を言っているのかと、アリエルは首を振った。 「嘘じゃない。君の本当の父親は、アラン・ローランド・クリスティン・ド・グザヴィエ。僕の母が妊娠している最中に、浮気の果てに君を作ったのさ」 ジュスタンの言葉に、アリエルは肩におかれた腕を振り払って立ち上がった。キッと睨んで声を震わせる。 「僕のお父様は、クレマンス・リヒター・フォン・バルドゥール。変なことを言うな」 ジュスタンは、おかしそうに目を細めた。 「変なこと……確かに」 手にしていた本を静かにめくる。古い革表紙の本は、よく見ると手書きの文字がぎっしりと書き込まれている。本ではなくて、ノートのようだ。 「これは僕の母の日記だよ。僕も、これを初めて読んだ時は、信じられなかった。変なことだと思ったよ。あの真面目な父が浮気の挙句によそに子どもを作っていたなんてね」 ジュスタンは、もう一枚写真を抜き出してよこした。 「これが僕の母」 さっきの金髪の男性が少し年を取っている。その隣には、それ以上に年かさに見える暗い髪と瞳の、きつい顔をした女性。それでは、二人の間にいる小さな少年はジュスタンか。こうして見ると、髪や目の色は母親ゆずり、顔はどちらかというと父親に似ている。 「不幸そうだろう、母の顔。もうその頃には知ってたんだよ、君たちのこと。僕はもちろん何も知らずにこんな能天気な顔で笑っている」 自虐的な笑みで、写真を見つめる。 「母が死んで、これを見つけるまでは、ね」 ジュスタンは、日記をアリエルに差し出した。 「読む?」 アリエルは、首を振って後退さった。 「じゃあ、僕が教えよう。もう何度も読んでいるから、覚えてしまっているんだ」 ジュスタンは日記を閉じて、ベッドの横に置いた。じっとアリエルの瞳を見つめる。アリエルは、見えない鎖に囚われたように、身動きできなくなった。 「君のお母さんはパリの社交界にデビューした夜に、僕の父と出会った。運命だね。僕の母はちょうどその時、僕をお腹に宿していてね、空気の良いところで静養するためにパリから遠く離れていた。そうそう、父はドイツ人なんだ。ドイツの貧乏貴族の次男が、若くしてパリに来た時に、僕の母とその父、老グザヴィエ伯に見初められて、婿養子になったのさ」 ジュスタンはチラリと写真に目を落としたが、その横顔からはなんの感情も読み取れない。 「母は父より年上でね、結婚して七年目で諦めかけていた時、ようやく待ち望んでいた子どもを授かったから、どうしても無事に生みたくてパリを離れたんだ。それが間違いだったと何度も書いている。自分のいないすきにドイツ娘にたぶらかされたってね」 宥めるように、日記の表紙をさする。 「真面目で大人しい父だったのに、何があったんだろうね。自分と同郷の女性に会って、誘惑されて、魔がさしたのかな。その彼女も結婚していたというのに、人目を忍んで会うようになって、秘密のそれは何ヶ月も続いたそうだよ。そして、とうとう彼女は君を妊娠した」 「嘘だ」 我慢できずに、アリエルは叫んだ。強張っていた身体が、金縛りが解けたように自由になる。 「ひどいことを言うなっ! お母様に対して、失礼だっ」 アリエルは、らしくもない大声を上げた。 ジュスタンは、外を気にしてシッと人差し指を立てた。自然な動作で、まるで大きな声を出したアリエルが間違っているかのように。 「失礼? 本当のことだよ。そうだ、見てごらん」 ジュスタンは写真を裏返した。日付と男性の手による一筆が入っている。 「アリエル、君の誕生日はいつだっけ?」 古いペン跡が記す日付は、アリエルの生まれる八ヶ月ほど前。 「この写真には、実は君もいたんだね」 ジュスタンはクスクスと笑った。 「妊娠している女性がこんなに嬉しそうに寄り添う相手は、赤ちゃんの父親以外にないんじゃないの」 アリエルは何も言えなかった。日付の横には小さく「愛する人」と書いてあった。 優しい母ヒルデの顔が浮かび、そして声が聴こえる。 『アリエル、私のかわいい赤ちゃん』 「嘘だと思ったら、直接自分で聞いてみるんだね、母親に。真実と向き合うことは勇気がいるけれど大切なことだよ。……僕みたいにね」 ジュスタンは言った。 「僕は父に聞いたよ。彼の死の直前にね。もう最期だと思ったから」 アリエルは恐ろしいものを見るように、ジュスタンを見た。 「父は認めたよ、僕に義弟(おとうと)がいること。ドイツの貴族の息子として暮らしているってね。さすがにどこの誰までは聞けなかったけど、君に会えたのは、神様の巡り合せだね」 「嘘」 もう何度目かの言葉を呟く。しゃがみこんで首を振る。 (嘘だ。だって、僕のお父様は……) 父親クレマンスの顔を思い浮かべると、それはアルベルトにも重なった。 「アル……」 助けて、と呟いたのをジュスタンは聞き逃さなかった。 「そのアルが知ったら、どう思うだろうね」 アリエルは、ビクリと顔を上げた。 「潔癖な人だものね、彼。……君と、君のお母さんの秘密を知ったら、どう思うかな」 ジュスタンの思わせぶりな言葉に、アリエルは青ざめた。子どもらしい思慮の浅さが、間違った答えを出す。 「嫌だ……」 軽蔑されてしまう。自分も、母も―――。 アルベルトもクレマンスも、アリエルの父親がクレマンスでないことを知っている。けれども、アリエルはそのことを知らなかった。だから、心から願った。 「言わないで」 絶対にアルベルトの耳に入れないで欲しい。 母親の名誉を傷つけたくないのはもちろんだけれど、それ以上に怖かった。今まで信じていた絆、仲の良い親戚同士の関係に、歪みが生まれてしまうこと。 「このこと……アルには……」 ジュスタンは、薄く笑った。 「言わないよ」 (言うわけがない。これは君を縛る切り札だからね) 「アリエルこそ、こんなこと誰にも相談しちゃだめだよ。それでなくても、ここの連中は密かに噂好きだから、変なことを言うとあっという間にひろがるよ」 ジュスタンは、パウルやリヒャルトの顔を思い浮かべて釘をさした。勿論、彼らが噂好きだなどと思っているわけではない。彼らならアリエルを助けるために骨身を惜しまないだろうということを心配している。彼らとアリエルを切り離さなければ、自分の復讐は遂げられない。 「君のあの事件も、秘密にしているつもりだろうけれど、さっそく僕の耳に入れてくれたヤツもいるしね」 「事件?」 アリエルはオウム返しに呟いた。頭が混乱しているから、何のことだか良くわからない。けれども、一つ思い当たるのは、 「窓から、落ちたこと?」 あの事故は、別に秘密になどしていない。ただ、記憶が無いのだ。みんなもそれを気遣って話題にしないだけ。 そう考えていたアリエルは、ジュスタンの次の言葉に息を呑んだ。 「そう、君が三階の出窓から飛び降り自殺を図ったこと」 自分を見つめるアリエルにジュスタンはゆっくり近づいて、冷たい指で髪を梳いた。 「その理由(わけ)も聞いたよ、酷い目にあったんだってね」 長い指が、アリエルの柔らかな金髪を弄ぶ。 「どこの誰かもわからない相手に、襲われたんだって?」 「な…なんのこと…?」 アリエルには、本当にわからなかった。ジュスタンは、敏腕な狩人のように容赦なく獲物を追い詰める。 「そういえば、記憶を失っているんだってね。でも、本当? 忘れたふりをしているだけじゃないの」 「何、を……?」 アリエルは、泣きそうな顔でジュスタンを見る。それは、ひどく嗜虐心を煽る顔で、ジュスタンはゾクゾクと背中を震わせた。訊ねる声もわずかに息が上がる。 「忘れられるの? 犯されたりして」 「お、か…?」 涙の膜を張った水色の瞳。 「こんなに無垢な顔をして、もう誰かに手折られた後だったなんて……ちょっとショックだったよ」 ジュスタンの手が首から肩へと滑り落ちる。アリエルは身震いしてその手から逃れようとした。 「やめて」 ジュスタンはかまわず、アリエルを引き寄せる。 「ねえ、アリエル、どんな気持ちだった? 君は淫売の子だもの、案外、喜んでいたんじゃないの」 「インバイ?」 「母が日記で、そう呼んでいた」 クックッとジュスタンは笑う。アリエルは怯えながらも小首をかしげる。 「イン、バイ……?」 ジュスタンは、ふいに目を見開いて 「ああ、そう、知らないんだ」 嬉しそうに言った。 「貴族が使う言葉じゃないって僕も思ったよ。日記を読んでね。でも、君は本当に知らないんだね」 アリエルのシャツのボタンに指をかける。 「教えてあげるよ……身体に」 |
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