「行くの?」 アルベルトは、自分を見上げるアリエルの髪を優しく梳いた。 「正式な招待状だから、断るわけにはいかないんだよ」 「……そうだよね」 「三月生まれか、アリエルと一緒だね」 寂しそうにうつむいたアリエルの頬を両手で包むと、 「戻ったらアリエルの誕生日を祝おう。むこうでプレゼントを買ってくるよ。何がいい?」 アルベルトは、微笑んでたずねた。 アリエルは、アルベルトに抱きつくと、胸に顔を埋めて首を振った。そして、 「早く、帰ってきて」 小さな声で、そう一言つぶやいた。 「一週間? 豪勢だな。さすがは公爵の姪御様のパーティーだ」 再来週に休みを取ってフランスに行くことを告げると、リヒャルトは口笛を吹いた。 「まさか。パーティーは一日だけだよ。たぶんね。ただ他にも趣向があるらしくて」 アルベルトは招待状に添えられた手紙を思い出し、困ったように唇の片端をあげた。 「キツネ狩りとか」 「そうだね」 「お父上も呼ばれているんだろう」 「もちろんだよ、僕一人で行くわけがない」 「ふうん、あのフランスのお坊ちゃんも招かれているのかな?」 「ジュスタン? いや、聞いていないけれど」 初めて思い当たったという顔で、アルベルトはリヒャルトを見返した。 「いいえ、僕は呼ばれていませんよ」 夕食後、アルベルトとアリエルの部屋に遊びに来たジュスタンは、その問いについて、そう答えた。 「僕はまだ子供ですから、デルフィーヌ嬢のお相手にはなりませんからね」 ジュスタンの言葉に、アリエルはチクリと胸を痛めた。 アルベルトは気に留めた様子もなく、 「グザヴィエ伯爵はいらっしゃるのかな」 重ねて尋ねると、ジュスタンは灰色の瞳をふっと伏せた。 「さあ……どうでしょうか」 「そう」 アルベルトはその返事を少々訝しく感じたけれど、 「お会いしたら、ご挨拶させていただくよ」 「ええ。僕も……とても良くしていただいていること、伝えておきます」 ニッコリ笑ったジュスタンに、その場は収められてしまった。 アリエルは、ベッドの中で何十匹目かの羊を数えた。 (どうしよう。眠れない) 今まで寝つきの悪いことなど、無かったのに。 アルベルトがデルフィーヌの誕生パーティーに行くと聞いて、胸の中が苦しくてたまらない。ジュスタンと親しげに話すアルベルトを見ても、同じような気持ちになる。アルベルトに自分以外の誰かが近づくのが、こんなに不快なことだなんて。 アリエルはうつ伏せて、ぎゅっと枕を抱きしめた。 (アル……) 苦しくて、苦しくて、たまらない。 自分の知らない政治や経済の話をアルベルトと語り合えるジュスタンが羨ましい。 みんなの前で、アルベルトと手を取り合って踊ることのできるデルフィーヌが妬ましい。 こんな気持ちは初めてで、それは思いつめればつめるほど、自分がとても醜い心を持っているようで、自己嫌悪で死にたくなる。 (助けて……お母様……) 『アリエル』 優しいヒルデの声が聞こえる。 『いつも感謝の気持ちを忘れずに、あなたの周りの人々を愛せば、みんなもあなたを愛してくれるわ』 (お母様) 『人を憎んだり、嫌ったりしたら、それはそのまま自分に返ってくるの。だから、いつでも優しい心でみんなを愛してね』 (お母様) 『アリエル、私のかわいい赤ちゃん』 (ごめんなさい……) 「っ……うっ……う」 母親の言う『優しくきれいな心』でなくなった自分に、悲しくなってアリエルは嗚咽を漏らした。 「アリエル?」 アルベルトが気づいて、ベッドから降りてきた。 「どうしたの、アリエル、何か苦しい?」 枕に顔を押し付けているアリエルをそっと起こして、 「っ…ふ…」 「アリエル?」 ベッドサイドの灯りをともすと水色の瞳に涙をあふれさせている小さな顔が浮かび上がり、アルベルトは目を瞠って、アリエルの肩を両手で抱いた。 「どうしたの、アリエル」 跪いて問いかけても、アリエルはしゃくりあげながら首を振るだけ。 「何か……怖い夢でも見た?」 尋ねるアルベルトの瞳が陰る。アリエルが泣くほど怖い夢を思って。 アリエルは答えず、ただ左右に首を振る。 「アリエル」 アルベルトは、アリエルを強く抱きしめた。 「ご、ごめ…な、さ…」 「何?」 「ごめん、なさい」 「何を謝るんだい」 「う…っ」 アリエルは、嫉妬心を醜いものだと決め付けている。醜い心の自分が悲しくて、母親にもアルベルトにも申し訳なくて―――。 「ごめんなさい……」 アルベルトの胸の中で、いつまでもしゃくりあげた。 翌朝、アリエルの様子が変だったことを、アルベルトはリヒャルトに告げた。リヒャルトは笑って、 「子供には良くあることじゃないか。俺だって十歳の頃はかぼちゃに追いかけられる夢で泣いたさ」 深刻そうなアルベルトをはぐらかすように言うと、冷たく睨み返された。 「アリエルはもう十四だよ、お化けに追いかけられた夢くらいで泣くほど子供じゃない」 「それは、失礼」 リヒャルトは肩をすくめる。冗談では済まされなかったらしい。 「パーティー、行くのを断ろうかと思っている。あんなアリエルを一人にしておけない」 「何を言っているんだ」 今度こそ呆れた声で、リヒャルトは言った。 「正式な招待だから断れないんだろ? まったく、アリエルのことになるとお前は心配性になりすぎだ」 チラリとアルベルトの横顔を見て、付け加える。 「気持ちはわかるけど」 「リヒャルト」 「たった一週間だろう? たいしたことないじゃないか」 リヒャルトはちょっと考えて、いかにも「名案だ」という風に叫んだ。 「よし俺がその間、代わりにアリエルと一緒の部屋に居てやろう。なんなら添い寝もして」 「ふざけるな」 「ははは……」 アルベルトは溜め息をついた。本当に迷っている。今フランスに行くべきじゃないと、自分の中で何かが教えてくれている、そんな気がする。けれども、 『断るわけにはいかないんだよ』――これも、事実だ。 「添い寝はいらないけれど、とにかく気をつけてみててやって欲しい」 「オーケーオーケー」 リヒャルトは、アルベルトのこの依頼をさほど真剣に受け止めていなかった。それだけ、アリエルの事件は昔のことになっている。いや、昔のことにしたかった。アルベルトが気にする夢の話も、できればうやむやにしてしまいたいくらいだ。 「まあ、せっかくだから楽しんでこいよ」 「……本当に、頼んだよ」 そしてアルベルトは、後に、このときの自分の判断を悔やむことになる。 * * * アルベルトがフランスに行くために発った日の夜。 点呼の後、消灯まで時間はあるけれど寝てしまおうとしていたアリエルのところに、 「アリエル」 小さなノックの音とともに、ジュスタンが顔を覗かせた。 「……どうして? アルは、いないよ」 ジュスタンは、アルベルトが好きで、よくこの部屋に来ていたのだ。けれども今まで、点呼が終わってから訊ねてきたことは無かった。 「君に話があってきたんだよ」 微笑む顔に、アリエルは不安になった。初めて会った日の嫌な気持ちがよみがえる。 「失礼」 ジュスタンは外を気にしてスルリと部屋に入ると、ドアをきっちりと閉じた。 「ジュスタン?」 ジュスタンは、伸びをすると部屋を見回した。 「行っちゃったね、アル」 アリエルは、眉を寄せた。ジュスタンの様子がいつもと違う。 「この日を待っていたんだよ。アリエル、君とゆっくり話がしたくって」 「どういうこと?」 「ふふふ……」 ジュスタンは、持っていた本を開いた。中に挟んでいたらしい一枚の写真を取り出す。 「君に見てもらいたいものがあるんだ」 アリエルの腕を引いてベッドの端に座らせる。自分もその隣に並んで、 「これ」 古い写真を見せる。 (……お母様?) 写真には、自分と良く似た顔の若い女性が写っていた。 「よく似てるよね、初めて君の顔を見たとき、背筋が震えたよ。こんなに似ているなんてね。おかげですぐにわかった」 「なんで……?」 何故、ジュスタンが自分の母親の写真を持っているのか。アリエルには、わからない。そして、この一緒に写っている男の人は誰なのか。 「ねえ、アリエル、この女の人は君のお母さんだよね」 ジュスタンはゆっくりと確かめるように訊ねた。アリエルを見つめる瞳が、妖しくきらめいている。 アリエルは、コクンとうなずいた。 「そう」 ジュスタンは満足そうにのどを鳴らした。 そしてアリエルの頬を引き寄せて、ぼんやりしたままの無防備な唇に軽いキスを落とした。 「な、何」 ハッとしたアリエルが身体を引こうとすると、ジュスタンはそれを許さずに肩を強く掴んだ。 「ねえ、アリエル、この男の人は誰だかきかないの」 手の力は強いのに、訊ねる口調は不気味なほど静かだ。 「えっ」 言われて、アリエルはもう一度写真を見つめた。ヒルダの隣には、明るい色の、おそらく素晴らしい金髪の紳士が立っている。 (いやだ……) いやだ。怖い、怖い―――頭の中で、警鐘が鳴る。聞かない方が良い。 訊ねたら、恐ろしい答えが待っていそうな気がする。 けれども、母ヒルデが嬉しそうに寄り添っているハンサムな男性に、興味を惹かれないはずもなく 「誰?」 恐る恐る訊ねると、 「君の本当の父親さ」 ジュスタンは、唇を耳元に寄せて囁くように言った。 「先日亡くなったグザヴィエ伯爵、僕の父親でもある」 アリエルは言われたことがわからず、ジュスタンの灰色の瞳を見つめた。 ジュスタンは酷薄そうな笑みを浮かべて、うっとりと言った。 「アリエル、僕の義弟(おとうと)」 |
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