「あまり思いつめるなよ。万に一つ、お前の言っていることが本当だとしても、あれはもう過ぎたこと……いや、無かったことだ」

 リヒャルトの言葉を、アルベルトはもう何度も、胸の内で繰り返していた。
(無かったこと……)
 肝心のアリエルがそのことを忘れているのなら、何も無かったことにしてやるのが一番だと、リヒャルトはそう言いたいのだろう。アルベルとも同じ気持ちだった。だから、誰にもその件について触れさせず、ひたすらアリエルのそばにいて守ろうとした。
 けれども今となってはそれが、自分の犯した罪を隠そうとしているのも同じで――。
(アリエル……)
 何も知らないアリエルのそばにいることは、辛かった。
 アリエルが記憶を失っている限り、跪いて許しを請うことすらできないのだ。
 アルベルトが重いため息をついたとき、ゾマー寮のクラウスが声をかけてきた。
「元気ないな」
「あ」
「何かあったのか」
「いや、別に」
 アルベルトは微笑んだ。
「今、少しいいか?」
 クラウスが並んで歩く。アルベルトは、黙ってそれを許すことで肯定した。
「転入生のことなんだけど」
 クラウスの言う転入生とは、ゾマー寮に入ったジュスタンに他ならない。アルベルトは、クラウスをチラリと横目で見た。
「昨日の夜、相談に来てね。君と仲良くなりたいのに、怒らせてしまったみたいだって」
「怒らせた?」
「ああ、仲良くして欲しいがために親の仕事の話を持ち出したんだろう? その後ずっと不機嫌そうで、どうしたらいいだろうって」
 クラウスの言葉に、アルベルトはフッと笑った。
(なんて素早い)
 確かに、相談事があったらゾマー寮のクラウスにしろと言った。
 あの少年は、それを早速実行にうつしたのだ。

「彼もフランスからたった一人で来て、何かと心細いらしい。もちろん、僕たちも寮の先輩として気を使っているつもりだけど、でも、家同士のつながりっていうのも、疎かにはできないしね」
 クラウスも、ドイツの名家の嫡男だ。エゼルベルンにいる間に将来役に立つであろう人脈を広げておくようにと父親から言われている。
「なあ、もし怒っているなら」
「怒ってないよ」
 アルベルトは、クラウスの言葉を遮った。
「最初少しカチンときたけれど、別に……」
「あ、ああ、そうか。それならいいんだ」
 クラウスはホッとした顔を見せた。そして、
「あの子、一見大人びているし、気も強そうだけれど、あれでけっこう繊細なんだよ」
 頭を掻きながら、言い訳するように言う。
「他の寮のやつに頼むのもなんだけど、仲良くしてやってくれ」
「ああ」
 ジュスタンにどう泣きつかれたのか、いや、もともと面倒見のよいクラウスだから、フランスからの季節外れの転入生を無視できるはずも無い。
「悪いけれど、よろしく頼むよ」
 頭を下げながら去って行くクラウスを見送りながら、アルベルトは苦笑した。

 そして案の定、その日の昼も、ジュスタンは当然のようにアリエルと一緒にやってきた。
「アルベルト先輩、昨日はすみませんでした」
「何が」
「ご存知でしょう。僕が失礼なことを言ったこと。僕、あの後も思い出すと眠れなくて、それでクラウス先輩にも相談してしまったんです」
「ああ、クラウスから聞いた」
「えっ?」
 ジュスタンは、驚いたように顔を上げて、
「そうなんですか。すみません」
 恥ずかしそうにうつむいた。
「クラウス先輩は、もう一度自分できちんと謝って、改めて、友達になってほしいと言えって言われたんですけど……」
「クラウスは心配性だからね、僕がまた君を傷つけないように根回ししたんだろう」
 アルベルトの言葉に、ジュスタンは、窺うように顔を上げた。
「クラウスにも言ったけれど、別にもう怒ってなどいないよ」
 それを聞いて、ジュスタンは、いかにも嬉しそうな笑みを浮かべた。
「よかった。それじゃあ、これからは先輩やアリエルといつも一緒にお昼を食べたりしてもいいですか」
「えっ、ああ」
 つい返事をしたものの、アルベルトは確認するようにアリエルを見た。アリエルは、慌ててうなずく。アリエルの性格からして「嫌だ」などという言葉が出るとは思えないが、アルベルトは心の中でほっとしている自分に気がついた。
 アリエルと二人きりでいると、どうしても自分の犯した罪と向き合ってしまう。アリエルの白い肌も、薄桃色の唇も、無意識に目で追うといつのまにかあの夢につながる。同室を自ら希望した時には、思いもしないことだったけれど。
(これじゃ、あの時と同じだ)
 アリエルと二人で食事をするのが気まずくて、リヒャルトが割り込んできてホッとした日のことを思い出した。
(結局、僕は、何も成長していない)
「じゃあ、アリエル、早く行って窓際の席を取ろう」
 ジュスタンの明るい声に我に返る。
「うん」
 アリエルは、ジュスタンに背中を押されて行く。
(あの二人は、仲良くなったのか)
 アルベルトは、後ろから二人を見つめた。
 昨日に比べれば、アリエルの態度もずいぶん親しげになっている。もともとアリエルは誰とでも仲良くできる性質
(たち)だが。
 アリエルにとっても、あの事件を全く知らない人間が友人としてそばにいるのは悪いことではないだろう。仮に、誰かがジュスタンに話した場合――と考えて、アルベルトは首を振った。誰がジュスタンに話すと言うのだ。ジュスタンも自分のそばにいる。そしてもしもどこかで聞いたところで、それでジュスタンがわざわざアリエルを傷つけるとも思えない。それくらい、窓辺の席に座ってこちらに手を振る二人は、仲睦まじく見えた。金色の髪と黒髪が対照的な二人。いや、髪だけでない全てが対照的だが、どちらも人目を惹く魅力を持っている。
 天使と悪魔――ふいに浮かんだ言葉に、アルベルトは自分を叱った。いくらなんでも悪魔はジュスタンに失礼だ。



 アリエルは、内心の戸惑いを押し隠していた。
 今朝、教室に入るとジュスタンはひどく申し訳なさそうに昨日のことを謝って来た。それは、一緒にいたパウルも思わず気の毒になるほどな様子で。
「僕、本当にアルベルト先輩とは仲良くしてもらいたいんだ。もちろん家のこともある。ううん、実はそれが一番大きいんだけれど」
 ジュスタンは自分の家の所有する鉄道の話とバルドゥール家の工場の話を一生懸命に語って聞かせた。正直、アリエルには難しすぎてよくわからなかった。たった一つ理解できたのは
「だから、僕とアルベルト先輩は親しくなっておくべきで、そのことは先輩のお父上も強く望まれているんだよ」
 と言うこと。
 ハーラルトからの手紙の話は、昨日アルベルトから聞いていた。そんな手紙があったことを聞かされていなかったので、アリエルから話を向けた。アルベルトは、別に隠していた風でもなく「大人の仕事関係の話だから、アリエルに言うほどのことじゃなかったんだよ」と笑った。だから、ジュスタンの言っていることが本当なのだと言うことはわかった。 
 でも、それだけだろうか。ジュスタンは、もっと違う意味でアルベルトと仲良くなりたいんじゃないだろうか。そう思うと、アリエルの胸はきゅっと締め付けられた。そして、鉛を飲み込んだように胸が重くなる。生まれて初めて知る、嫉妬という感情。
「ね、だから、アリエル、僕も先輩の友達にして」
 そう微笑まれて、否といえるはずが無い。
「いいの?」
 パウルが心配そうに、アリエルを見る。
「うん」
(だって……)
 アルベルトを自分だけのものにしたいと思うのは、わがままだから。嫉妬は、醜い感情だから。
「よかった」
 ジュスタンが微笑むと、アリエルの笑顔を見慣れているパウルですら思わず赤くなった。無垢なアリエルには無い艶めかしさがあるのだ。
「じゃあ、僕たちも友達だね」
 右手を差し出されて、アリエルはその手を取った。
「ありがとう、アリエル。嬉しいよ」
『嬉しいよ、アリエル』
 その言葉に、初めて会ったときの会話を思い出したアリエルだったが、今ではそのときの記憶もあいまいだ。あの時、腕をつかまれた気がした。でも、それは本当のことなのか。   
 目の前のジュスタンがあまりに違いすぎて、自分の勘違いという気もしてくる。それでなくとも窓から落ちるなどという事故で、記憶の一部が消えているのだ。アリエルは、自分自身の記憶と言うものに、自信が持てない。
「ま、アリエルがいいって言うなら、僕もいいけどさ」
 パウルは、あっさりと言った。
「よろしくジュスタン。アリエルの友達だっていうなら、僕も友達だからね」
「ああ、パウル、よろしくね」
 今日のジュスタンはパウルにも愛想が良い。
「アリエル、お昼、誘ってね」

 そして、ジュスタンはアルベルトにも許されて、一緒のテーブルについている。
 本当のことを言えば、さっきアルベルトが「いつも一緒に」という言葉にうなずいたとき、胸を針で刺されたように感じた。けれども、そんなことを知られてはいけない。嫉妬なんて感情は、よくない。嫉妬する自分は、醜い。絶対に、知られてはいけない。こんな気持ちになる自分を、アリエルは嫌悪した。



 そして、表向きは何事もなく、数日が過ぎた。アルベルトがアリエルとジュスタンの二人を連れてエゼルベルンの中を歩く姿は注目を浴び、噂を呼んだ。
「大天使が、小天使と小悪魔を従えているってさ」
「なんだい、それ」
「上級生からは、美少年を二人も独占しているからやっかまれていて、下級生からは、自分もあの輪に入りたいと羨ましがられている」
「リック」
 アルベルトは、たしなめるように呼びかけた。リヒャルトは気にする様子も無い。ニヤニヤと笑って
「不思議と三角関係の噂が立たないのは、アリエルとジュスタンが仲良くやっているからかな」
「何でも恋愛関係に結び付けないことだね」
 アルベルトは、持っていたノートで、リヒャルトの額を叩くふりをした。
「ジュスタンも、噂だとなかなかいい子らしいじゃないか」
「まあね」
 最初に感じた不快が嘘のように、ジュスタンは感じよく振舞っていた。素直で、頭もいい。会話をしていて楽しいと感じることも多かった。ジュスタンは、よく二人の部屋にも遊びに来た。アリエルと二人きりの夜を避けていたアルベルトは、密かにジュスタンを歓迎した。二人が難しい会話をしている時、アリエルは、ただ微笑んで聞いていた。
 アルベルトは、うかつにも、アリエルの微笑みの裏に隠されたものに気がつかなかった。



 そんなある日、アルベルトにまた一通の手紙がきた。
 それは、アントワーヌ公爵が目に入れても痛くないほど可愛がっている姪のデルフィーヌの誕生パーティーへの招待状だった。




 




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