ヴィンター寮の消灯が過ぎてから部屋に戻ったアルベルトは、最初にアリエルのベッドが空なのに気づいてぎょっとした。慌てて見回して、 (あ……) 自分のベッドに眠るアリエルを見つけて、ホッとする。 アリエルは、制服のシャツを着たまま毛布もかけずに眠っていた。いくら閉めきった部屋で、外より暖かいとはいえ、 「風邪をひいてしまう」 アルベルトはそっと毛布を引き上げ、その上から、柔らかな羽根布団もフワリと掛けた。気持ちよさげにアリエルは、寝返りをうつ。 (でも、どうして、僕のベッドに……) アルベルトはクスッと笑った。あどけない寝顔に、目を奪われる。 長い睫毛に薔薇色の頬、うっすら開いた唇は柔らかそうにアルベルトを誘っている。 (アリエル……) 心の中で呼びかけて、触れるだけの口づけを落とす。 これは、おやすみのキス。 アルベルトの胸が締め付けられた。机に向かって、明かりを落とすと、リヒャルトの言葉がよみがえる。 『だったらさっさと抱けよ』 「……できないよ」 すやすやと眠るアリエルのかすかな寝息を聞きながら、アルベルトは両手で顔を覆った。 翌朝目覚めたアリエルは、自分がアルベルトのベッドにいることに気が付いて慌てた。 アルベルトは、もう洗顔も済ませ、きっちりと制服を着こんで、いつでも教室にいけるような格好で椅子に座っている。 「アル、あ、あの、僕……」 焦って口ごもると、 「よく寝ていたから、起こせなかったよ」 アルベルトは微笑んだ。窓から射す朝の光がアルベルトの輪郭を輝かせて、アリエルは、ぼおっと見惚れた。 「さあ、早く顔を洗っておいで。その前にシャツもちゃんと着替えて」 「は、はい」 昨日は、アルベルトのベッドで横になって、アルベルトの匂いが心地よくてそのまま眠ってしまったのだ。アリエルは、思い出して、恥ずかしさに真っ赤になった。 頬を染めながら着替えるアリエルから、アルベルトは自然な動作で眼をそらした。 アリエルは、新しいシャツに腕を通しながら自分のベッドを見て、使われた気配がないのに気がついた。 「アル、昨日、遅かったの?」 「いいや」 アルベルトは、窓の外を眺めながら応えた。そして、 「どうして?」 聞き返しながら、ゆっくり振り向く。 「ううん……ちょっと、そう思ったの」 うつむくアリエルは、首のリボンをきれいに結ぶのに四苦八苦している。 「貸してごらん」 アルベルトは、アリエルの手からリボンを取ると、そっと襟元に通して結んだ。 吐息が髪にかかるほどアルベルトの顔が近づいて、アリエルの心臓がトクンと跳ねた。 (アル、昨日、どこに行ってたの?) 見上げる美貌がどこかよそよそしく感じられて、アリエルは、理由のわからない不安を感じた。 * * * 「アリエル」 廊下を歩いていると、いきなり背中から声をかけられた。振り向いた先にジュスタンの姿を見て、アリエルは動けなくなった。パウルが不思議そうな顔で、二人を交互に見る。 「そんなに驚かないでよ」 ジュスタンはアリエルに向かって微笑んだ。 「アントワーヌ公爵のニューイヤーパーティーで会ったよね」 ジュスタンの口からその話が出て、アリエルは意外な気持ちでうなずいた。転向してきてもう二週間にもなるのに、いまさら何を言うのだろう。 訝しげなアリエルに気が付いたのか、 「わからなかったんだよ。なんとなくどこかで会ったなって思ってて、ようやく思い出した」 ジュスタンは、言い訳するように言った。 「ほら、新しい環境になってしばらくは何がなんだかわからないだろ」 「アリエル、知り合いだったの?」 パウルがこそっと耳元で訊ねる。アリエルは、仕方なくうなずいて、 「知り合いっていうほどじゃないけど、新年に一回だけ会ってる」 「ふうん」 パウルは、改めて、フランスからの転校生を眺めた。黒髪、長身、整った顔。一つ歳上という噂どおりの大人びた雰囲気。いつもは、できたばかりの友人たちを従えるように歩いているけれど、珍しく今日は一人だ。 「これから食事? 一緒に行ってもかまわないかな」 パウルの視線を無視して、ジュスタンはアリエルだけに訊ねた。 「あ、お昼は、僕……」 いつもアルベルトと食べることにしている。 学年の違う二人がお昼だけは一緒に過ごせる――アリエルはその時間をとても楽しみにしている。アルベルトが、夜、忙しくなってからはなおさら。 口ごもったアリエルに代わってパウルが説明した。「この僕だって遠慮しているんだからね」といわんばかりに。すると、 「アルベルト先輩? ちょうどよかった。僕、アルベルト先輩に話があったんだ」 「えっ?」 「たぶん、先輩のほうでもあると思うよ」 意外な言葉に虚を衝かれて、アリエルは黙ってジュスタンを見つめた。 「君がジュスタン・フランソワ」 アルベルトは、薄紫の瞳でジュスタンを見て、無表情に呟いた。 「はじめまして。お会いできて光栄です」 「グザヴィエ伯爵の代理人という方から、父経由で、手紙をいただいたよ」 アルベルトの口から出た言葉に、アリエルは目を瞠った。そんなこと初めて聞いた。 ジュスタンは堂々と、 「ええ、エゼルベルンにはバルドゥール侯爵の息子さんがいらっしゃると伺って、ぜひ色々教えていただくようにと」 作ったような笑みを浮かべ、それがアルベルトには気に入らなかった。 「教えるも何も、ここではみんな同じように生活している。相談事なら自分の寮の先輩にするといい。ゾマー寮のクラウスは適任だよ」 そっけない返事に、ジュスタンは微苦笑する。 「グザヴィエの持っている鉄道は、お父上の工場にも大きな利益をもたらしているようですよ。僕とは親しくしておいて損はないんじゃないですか。お父上からの手紙には、そう書いていませんでしたか?」 アルベルトは、一瞬、柳眉を吊り上げ、そしてジュスタンを冷たく見下ろして言った。 「子供がそこまで気をまわさなくてもいいよ」 「失礼しました」 ジュスタンは、すぐに謝った。 「すみません、許してください。僕はアルベルト先輩と仲良くなりたいんです。今のはちょっと冷たくされた気がして、それで、悲しくなって言ってしまっただけです」 すがるような目でアルベルトを見つめる。 アリエルは、それを見て、ひどく不安な気持ちになった。 「君が噂の転入生か」 そこにリヒャルトが割り込んできた。 「噂どおり、きれいな子だ。知ってる? うちの寮では、さっそくファンクラブができたらしいよ」 ジュスタンは、リヒャルトにも、貴族が完璧に身につけた笑みを見せた。 「こんにちは、リヒャルト先輩」 「おや、名前、知ってくれてるんだ」 「ヴィンター寮の寮長さんですよね。うちの寮にもファンクラブがあるそうですよ。もちろん、ご存知ですよね」 ジュスタンの返事に、リヒャルトは快活に笑った。 「こんなところで立ち話なんかしていないで、食事にすれば? さっきから目立ってるよ」 リヒャルトに言われて気がつくと、昼食を食べにやってきた生徒たちが、遠巻きに見守っている。 「さあ、早く行かないと」 リヒャルトに促されて食堂に入る。 当然のように自分たちと一緒に来たジュスタンに、アリエルは珍しく嫌な気持ちを抱いた。理由はわかっている。 『僕はアルベルト先輩と仲良くなりたいんです』 黒い睫毛の下の瞳を揺らしたジュスタン。 (アルのこと、好きなのかな) アルベルトは、とりあえず関心なさそうな様子だけれど、今は、親しげに話しかけられて、無下にもできずに相手をしている。伯爵の代理人からの手紙というのも気になった。確かに、一昨日、アルベルト宛に手紙が来ていたけれど、どうしてアルベルトは、それについて何も言わなかったのだろう。 (ジュスタンのことが書いてあったなら、僕に言ってくれてもいいのに。同じ学年なんだし……) チラと目の前のジュスタンを見ると、目が合ってしまった。慌てて、うつむいてスープを飲むふりで目をそらした。 だからその時アリエルは、ジュスタンの灰色の瞳の奥に、妖しい光が煌いたのに気づくことはなかった。 「ずいぶん慕われているな」 午後の授業が始まる時間。アルベルトと二人きりになって、リヒャルトが思わせぶりに笑った。 「フランスの王子様は、積極的だ」 「気に入らない」 アルベルトにしては、珍しく感情をはっきりと口にして、リヒャルトは口笛を吹いた。 「なにかあったのか?」 「アリエルの様子が変だった」 「ああ」 リヒャルトも気がついていた。アリエルに笑顔が無かったこと。 「そりゃあ、ライバル登場じゃな。可愛いじゃないか、お砂糖ちゃんのヤキモチ」 「それだけかな」 「アル?」 「いや、いい。気にしているのは、僕だ。手紙なんか来るから」 「ああ、言ってたな。何て書いてあった?」 その返事にアルベルトはおかしそうに目を見開いて、抜け目の無い親友の顔を見返した。 「やっぱり、聞いていたんだ」 それは、リヒャルトが割り込んでくる前の会話。 リヒャルトは悪びれず、 「いいだろ、聞こえたんだ。ほら、言えよ」 話の続きを急かした。 「彼の言ったとおりだよ。伯爵の代理人という人からは、ジュスタンをよろしく。そして父からは、バルドゥールの為にグザヴィエ伯の息子とは親交を深めておくように。ってね」 「へええ」 「四年ぶりに会って、急にいろいろ連れまわされたと思ったら、今度はこれだ」 学生からいきなり大人同士の駆け引きの場に引っ張り出されたようで、 「あんまり楽しいものではないね」 「まあ、そう言うなよ。父上殿としては、少しでも息子の将来に良かれと思っているのさ」 将来という言葉に、アルベルトは眉を寄せた。 リヒャルトは、思いついて、先日の話を蒸し返す。 「そういえば、夢は……まだ見るのか」 アルベルトは、口の端をあげて、 「いいや」 リヒャルトは、ホッとした顔になりかけたが、 「見ないですむ方法を見つけたんだ。疲れて眠れば夢は見ない」 アルベルトの答えに、顔をしかめた。 「それって、お前が、らしくもなくクラウスやミハイルの手伝いを率先してやっているってあれか」 「らしくもなく、というのは、心外だな」 クスクスとアルベルトは笑う。 学年長の仕事だけでは飽き足らないかのように、寮長の仕事や面倒な雑用までも買って出て、このところ他人(ひと)の何倍も忙しくしている。 「どこも人手が足りなくて、重宝がられているよ」 「だったら、うちから手伝えよ」 ヴィンター寮の寮長が、不機嫌な声を出す。 「頼んだってやらせてくれないだろう」 「バカ、仕事がほしけりゃ、いくらだってやるよ。ついでに俺のラテン語のレポートも全部やってくれ」 リヒャルトの言葉にアルベルトは、無理したような明るい笑い声をたてた。 二人ともわかっていた。それが、問題の根本的解決には、なっていないこと。 そして、二人とも気づいていなかった。アリエルが、少しずつ不安を積もらせていること。 |
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