「ジュスタン・フランソワ・ド・グザヴィエ。家はフランスでも由緒ある伯爵家で、今回の季節はずれの転入では相当な寄付があったらしいよ」
「ふうん」
「僕たちより歳は一つ上なんだけど、病気か何かで一年遅れてうちの学年に入ったんだ」
「いつも思うんだけど、フランツ、君ってそういう噂話、どこから仕入れてくるの」
 パウルの呆れたような台詞を、フランツは単純に誉め言葉と受け取って、
「色々教えてくれる人がいるんだよ」
 ウフフと得意げな笑みを浮かべた。

(どうせあの、たちのよくない先輩連中だろう)
 パウルは顔をしかめながら、窓辺に座るアリエルに目を向けた。
 アリエルは、朝からずっと、何か考える風に浮かない顔をしている。
「アリエル、どうしたの」
 話しかけると、はじかれたように顔を上げた。
「何か、心配ごと?」
「う、ううん。なんでもないよ」
 アリエルは急いで首を振って、心配そうなパウルに笑って見せた。
 パウルは少し心配性のところがある――と、アリエルは思っている。自分が退院してから何かと面倒を見てくれるのだけれど、まるで壊れ物みたいに扱われるとなんだか少し落ち着かない。
 もともと面倒見のいいパウルだったが、アリエルの事故以来、学年の違うアルベルトが自分の目の届かないところでのことをパウルに頼んでいるため、過保護ぶりに拍車がかかっている。アリエルは記憶を無くしているだけに、知らない相手から過剰に親切にされているような居心地の悪さを、最初の頃は感じていた。さすがにずっと一緒にいれば慣れてはきたけれど、
(パウルにこれ以上、心配かけちゃいけない)
 軽々しく相談するのは、気が引ける。それに、相談しようにも、自分でもよくわからないのだ。

 今朝、フランスからの転校生だと言って、先生が少年を紹介したとき、アリエルは思わず声をあげそうになった。
 ジュスタン――髪形こそ無造作に伸ばしたようなゆるい巻き毛だったのを綺麗に短く切っているけれど、灰色の瞳も薄い唇も、あのアントワーヌ公爵の新年会で会った少年に間違いない。
(どうして?)
 どうして、あの少年がエゼルベルンに。
『会えて嬉しいよ、アリエル』
 偶然とは、とても思えない。
 けれども、ジュスタンは一度もアリエルを見ることなく、教えられた自分の席に着いた。そして休み時間、生徒に取り囲まれた彼は質問攻めにも穏やかに答え、あの時とは全く様子が違う。別人のはずはないけれど、アリエルと目が合っても何の反応もないところを見ると、
(僕のことは、忘れているのかもしれない)
 ―――そんな風にも思えた。


「アリエル、何かあったらちゃんと言ってよ」
 そばかす顔の丸い小さな目が、心配そうに瞬く。
「ありがとう、パウル。大丈夫だよ」
 別に気にするほどのことじゃない。エゼルベルンは歴史あるギムナジウムで、良家の子息も大勢集まっている。フランスからの転校生が、たまたま以前会ったことのある相手だったというだけだ。アリエルは自分に言い聞かせた。
(偶然だよ)
 でも、偶然にしても珍しいことだから、アルベルトには話してもいい。相談とかじゃなくて「あの新年会で偶然出会った子が、同じ学年に転入してきたんだよ」と。
あの時、腕をつかまれたのは、今でも理由が分からないし、思い出せば不穏な感じはするけれど、
(でも……ジュスタンは僕のことは忘れているみたいだし)
 パウルやフランツが目の前にいることで、アリエルの不安は薄らいでいる。
 あの日感じた不安や恐れは、慣れないパリで、しかもアルベルトと離れていたから――アリエルはそう考えることにした。

 



* * *

「アル、どこかいくの?」
 部屋に戻ると、アルベルトが入れ違いに出て行くところだった。
「ああ、リヒャルトと、打ち合わせがあってね」
「そう」
「戻るのは、消灯過ぎになるかもしれないから、先に寝ておいで」
「……はい」
 ジュスタンのことを話そうと思っていたのだが、今夜は無理だ。ふとアリエルは、最近アルベルトが部屋を空けることが多くなったと思った。
 年が明けてしばらくは、アルベルトは片時もアリエルのそばを離れず、まるでナイトに守られるお姫様のような気持ちがした。同室が嬉しくて、ベッドに入ってからもなかなか眠れずに、色々おしゃべりをした。勉強も見てくれて、フランツに羨ましがられた。
 それが一ヶ月もたつと、夜アルベルトがいないことが多くなった。朝や昼は相変わらず可能な限り一緒にいてくれるし、特に変わった様子もないのだけれど、夕食が終わって消灯までの間、出かけてしまうのだ。
 十一年生の学年長だから忙しいのも当然だし、上級生のいるヴィンター寮の消灯はフリューリンク寮より一時間遅い。勉強するにも、そっちに行った方がいいのかもしれない。
 アリエルは、アルベルトの空っぽのベッドを見た。きっちりとベットメイキングがされていて、髪の毛の一本も落ちていない。アルベルトの几帳面な性格がうかがわれる。
 そっと近づいて、座ってみた。誘惑にかられて、横たわった。枕に顔をうずめると、アルベルトの匂いがした。
(アル……)
「早く帰ってくればいいのに」
 つぶやいた声は、枕に吸い込まれる。
 アリエルは、寂しかった。


 


「また来たのか」
 リヒャルトが、扉を開けてアルベルトの顔を見て呆れた声を出す。
「いくら俺が一人部屋だからって、そうそう都合よく使われちゃ困るんだけどな」
「迷惑だったら、別の部屋に行くよ」
 そっけなく踵を返そうとするアルベルトの腕を、リヒャルトはつかんで引き戻した。
「待てよ。気の短いヤツだな」
 アルベルトは、黙って部屋に入った。はなから追い出されるとは思っていない。
 リヒャルトのベッドに腰掛けてうつむくアルベルトに、リヒャルトは、ここ数日考えていたことをぶつけた。
「お前の気持ちもわかるけど。あんまり悩むこと無いぞ」
 アルベルトが顔を上げて、リヒャルトを見た。
 リヒャルトは、自分の椅子を引いて後ろ前に座ると、背もたれに組んだ腕を乗せてアルベルトの顔を覗き込む。
「好きな子と一緒の部屋にいたら、手を出したくなるのは当然だろ。何しろ俺たち、健全な男子だからな」
 アルベルトは黙って聞いている。
 リヒャルトは、最近夜になるとやってくる親友の、その理由
(わけ)を勝手に推測していた。
「お互い好きならいいんじゃないの? まあ、相手はお子ちゃまだから、気は使うだろうけど」
 照れ隠しに空咳をして、
「まあ、最後まではやらない…って方法もある」
 ポソリと言うリヒャルトに、アルベルトはクスと笑った。
「あ、何だよ。人がせっかく親身に」
「いや、ちがうよ、リック、すまない」
 アルベルトは片手を上げて制した。そして、再び睫毛を伏せると、しばらく考えていたが
「そうじゃなくて……僕は……」
 苦しげに首を振った。
 リヒャルトは、アルベルトが次に口を開くまで、辛抱強く待った。

 アルベルトは、長い間、話すかどうかを逡巡し、そして語りはじめた内容は、リヒャルトの予想を裏切った。



「リック、あのアリエルの事件の日のこと、覚えているか」
「あ、ああ」
「十月祭で、アリエルが女の子の格好をして」
「あれは、俺が悪かったよ」
 リヒャルトが用意した蜂蜜色のウィッグと赤いコート。ほんの少しだけと口紅もつけた。みんなが息を飲んだ美少女ぶりは、今だってすぐ、頭に浮かぶ。
「大勢の生徒に取り囲まれて、皆から抱きしめられるように踊るアリエルを見て、僕は目眩がした」
「…………」
 その夜、事件が起きた。
 リヒャルトは沈鬱な顔になった。自分が変に煽ってしまって、あの事件を招いたのではないかと気にしている。そこに、
「あの夜、僕はどこにいたんだろう」
「え?」
 突然のアルベルトの問いかけは、なんだか間が抜けているようにも感じられ、リヒャルトは首をかしげた。いきなり何を言い出すのか、と。けれども
「僕には、あの夜の記憶がない」
 静かに自分を見つめるアルベルトの瞳に、リヒャルトは、背筋を震わせた。
「あの夜、気分が悪くなってからどうしたのか。次の日、どうやって礼拝に出たのか、食事をし、教室まで行ったのか」
「アル?」
「直後に事件を聞いて、動揺したのもあるけれど、すっぽり記憶がないなんて変だ」
「待てよ、アル、何が言いたいんだ」
「今まで、考えもしなかった、その可能性について」
「だから、何を言ってんだよ」
 リヒャルトは、声を荒げた。
「僕が……アリエルを傷つけたのかもしれない」
 アルベルトの一言に、リヒャルトはナイフで腹を刺されたように呻いた。
 沈黙が部屋を支配して、ゆっくりと、リヒャルトがそれを破る。
「なにを、ばかな」
 掠れた声だった。
 アルベルトは、まるで懺悔するように膝の上で両手を組むと、リヒャルトを見上げて声を震わせた。
「夢を見るんだ」
「夢?」
「初めて見たのは、クリスマスの次の日だった」
 アルベルトは淡々と告げた。
「僕が、アリエルを強姦する夢。嫌がって泣き叫ぶアリエルを、無理やり押さえつけて、口をふさいで――犯した」
 思春期によくある夢だと笑い飛ばすことが、リヒャルトにはできなかった。
「暴れるアリエルの白い肌に爪を立てて、そして後ろを穿つんだ。何度も何度も、そして真っ赤な血が流れる」
「やめろ」
「最初に見たときは、ただの夢だと思った。だけど、二度目に見たときは、やけに現実的で……。分からなかった、どうしてそんな夢を見るのか。そして三度目……」
 アルベルトは両手で覆った顔を伏せて、大きく息を吐いた。
「繰り返し見る夢の中で、ますます僕は残酷になる。そして朝目が覚めて、感じるんだ。僕は、昔、アリエルを、こんな風に犯した」
「ばかばかしい」
 リヒャルトは、ようやく自分を取り戻して、吐き捨てるように言った。
「そんなのは、ただの夢だ。確かに、お前の願望なんだろう。そんなすました綺麗な顔して、実はアリエルのことを抱きたくてたまらない。抱きたくてたまらないけれど我慢している。だから、それが歪んだ夢になって現れてるのさ。だったらさっさと抱けよ。一度でも抱けば、そんな夢もう見なくなる」
 言い募るリヒャルトに、アルベルトは静かに答えた。
「できるわけない。アリエルを、もう一度傷つけるなんて」
「だからっ」
 リヒャルトは思わず叫んで、椅子を倒して立ち上がると、アルベルトの胸倉をつかんだ。
 アルベルトは、なされるまま。無表情で、血の気のない顔。
 長い睫毛に縁取られた薄紫の瞳に見つめられ、リヒャルトはゆっくり手を離した。激昂した自分を恥じるように、
「……だから、さ……おかしいだろ、アル、もしもお前がそんなことしたとして、どうして忘れていられる」
「……忘れているんじゃない。記憶が無いんだ」
「だから、そんな真似して記憶が無いなんてはずないだろう」
 乾いた笑いでごまかすと、
「リック、君は知らないんだよ」
 アルベルトは、口許を押さえた。
「あの頃の僕は、おかしかった」
 クレマンスと母親の不倫、自分の出生への嫌悪、病的な潔癖症、そしてアリエルに対する歪んだ愛情。
「アリエルに触れることが出来ないのに、他の誰かが触れると気が狂いそうになった」
「アル……」
「あれは……僕だ」
 苦しげに吐き出すアルベルト。リヒャルトは眉間にしわを寄せた。
「信じられないな」
「……僕もだよ、リック」







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