「アリエル」
 自分を呼ぶ声にアリエルは顔を上げた。アルベルトがこちらに向かってくる。
 ジュスタンは踵を返し、アルベルトを避けるようにして足早に去っていった。
「どうした?」
 アリエルのいつもは薔薇色の頬が紙のように白くなっているのに気づいて、アルベルトは去っていく少年の後姿を眼で追った。
「何かされたのか」
「う、ううん」
 アリエルは、首を振る。
「なんでもない」
「なんでもないという顔じゃないよ」
「……フランス語で話しかけられて、それで……全然、分からなくて……」
 アリエルは、とっさに嘘をついた。
 何故だか今の出来事をそのままアルベルトに告げることがためらわれた。赤くなった左の手首を見られないようにそっと隠す。

『初めまして、アリエル、会えて嬉しいよ』

 流暢なドイツ語を話したジュスタンという少年。彼は、いったい何者なのだろう。
 その瞳の色を思い出し、アリエルは、ゾクリと背中を震わせた。
「アリエル?」
 アルベルトが心配そうに覗き込む。
「具合が悪いのか?」
「ちょっと……」
 うつむくアリエルの顔色は、確かに良くない。
「人が多くて……疲れたのかも……」
 無理もない、とアルベルトは思った。
「おいで」
 アルベルトはアリエルの肩を抱いた。
「アル、ダンスは?」
 アリエルは、自分がホールを逃げ出してきた理由を思い出して、アルベルトに訊ねた。
「あの、公爵様の……」
「デルフィーヌのこと?」
 アルベルトからその女性の名前が出て、アリエルはキュッと胸を痛めた。けれども、アルベルトは笑って言った。
「一曲お相手をしただけだよ。終わったら、母様が、アリエルが戻って来ないと言って探しに来て」
 イルマは、当然のように、アリエルはアルベルトのところに行ったのだと思ったらしい。
「さらわれてしまったのかと思って、焦ったよ」
「ごめんなさい」
 アリエルは、そっと身体を寄せた。
 アルベルトは、アリエルの肩に回した手で頭を引き寄せた。
「帰ろう、お父様には僕からお願いするよ」
「いいの?」
 アリエルはアルベルトを見上げた。帰ってもかまわないのなら、一刻も早く帰りたい。アルベルトが他の誰かと踊るところなど、これ以上見たくない。

 アルベルトもまた、同じ想いを抱いていた。
「お父様が、アリエルのことも、紹介して回ると言っている」
 他の男たちの目に、不必要に触れさせたくない。
 けれどもアリエルには、その言葉の意味は、そのままにしか伝わらなかった。
「僕は、いいよ。アルみたいに、上手く挨拶もできないし」
 シュンとするアリエルに、アルベルトは微笑む。
(挨拶なんかできなくても……)
 アリエルが微笑めばそれだけで十分なのだ。と教えるのは、やめておいた。



「アリエルの具合が悪いので、屋敷に帰りたいのですが」
 アルベルトの言葉に、ハーラルトは片眉を上げた。確かに、うつむくアリエルにいつもの明るい笑顔は無いが、それは、
(やきもち、か?)
 ハーラルトは、そう考えた。大好きなアルベルトが自分をかまってくれないから、すねて「帰りたい」と甘えているのだと。ハーラルトは苦笑して、
「それなら、アリエルだけ先に戻ればいい。運転手に送らせよう」
 意地悪く言ってみた言葉に、アリエルは驚いて顔を上げた。
「それが嫌なら、あそこの椅子で大人しく待っていることだ。アルベルトは、まだ挨拶がすんでいない相手がいる」
「お父様」
 アルベルトが眉間にしわを寄せた。ハーラルトは笑ったまま。
「それがすんだら、アリエルも皆に紹介しよう。そう、気が付かなかったかもしれないが、アリエルと同じ年頃の子も来ているよ」
 同じ年頃の子と聞いて、アリエルはさっきの少年の顔を思い浮かべた。
「フランスにも友だちをたくさん作るといい」
「い、いいえ……」
 アリエルは、首を振った。ジュスタンともう一度会うなんて。
「それじゃあ、僕、先に帰っています」
 アリエルの言葉は、ハーラルトの予想外だった。
「アリエル?」
「何を言うんだ。アリエル。帰るのなら、僕も一緒に帰るよ」
「ちょっと待て、アルベルトはまだ帰れない」
 ハーラルトは、両手を上げた。降参のポーズで、小さな少年の顔色を窺う。
「アリエル、あと一時間だけ、待っていてくれないか」
「………………」
 アリエルは、答えられない。
 自分がわがままを言っているのは分かっている。でも、もう、ここには居たくない。
 アルベルトが綺麗な女の人たちと仲良くするのを見るのも悲しいし、何しろここには、さっきの少年がいる。
(怖い……)
 理由の分からない不安が押し寄せてくる。
「アリエル」
「ごめんなさい、おじ様、僕……」
 睫毛を伏せ、声を震わせると、
「私が一緒に帰りましょう」
 イルマが言った。
「私は、もう、必要な挨拶はすんでいるでしょう? 先に失礼してもかまわなくて?」
「そうだな」
 ハーラルトは妥協案を見つけてホッとしたという顔をした。
「それじゃあ、イルマ」
「ええ、貴方」
 アリエルを連れて帰って行くイルマを見送って、
「どちらにしろ、これからは男の時間だ」
 女子供は邪魔、とばかりに呟くハーラルトを、アルベルトは横目で睨んだ。



「ごめんなさい」
「なあに、アリエル」
「僕のせいで、パーティー」
「いいのよ。むしろ助かったわ。私もああいう席は苦手なの。アリエルのおかげで、早く帰って休むことができて嬉しいわ」
 イルマの優しい言葉に、アリエルは瞳を潤ませた。
「アリエルも、疲れたでしょう。今日は、ゆっくりおやすみなさい」
「はい」
 車の中でアリエルは目を閉じた。閉じたまぶたの裏に、ワルツを踊るアルベルトの姿が浮かび、ドレスをまとった美しい令嬢たちが浮かび、そして、あのジュスタンという黒髪の少年が浮かんだ。
 心臓の鼓動が早くなる。
 結局、車の中でも、ベッドに入ってからも、アリエルは寝付けなかった。

 
 夜遅くになって、アルベルトはようやく帰ることを許された。着替えて、自分の寝室に行く前に、アリエルの眠る部屋を覗く。
(アリエル……)
 起こしてはいけないと心の中だけで呼びかけて、ベッドに近づくと、
「アリエル」
 驚いたことに、アリエルは眠っていなかった。
 暗闇の中ぼんやりとした表情で、天井を見つめている。
「どうしたんだ」
「あ、アル……」
 アリエルは、アルベルトに気がついて身体を起こした。覗き込むように身体を寄せてきたアルベルトの首に両腕をまわす。
「お帰りなさい。アル」
「た、ただいま。……寝ていなかったのか」
「…………」
 アルベルトの首に額を押し付けて、アリエルは息を吸った。わずかに残る柑橘系のコロンとアルベルトの匂い。アリエルの不安でいっぱいだった心が、ようやく落ち着く。
 アルベルトは、しばらくそのままアリエルを抱きしめて、
「大丈夫?」
 優しくアリエルの背中を撫でた。心細げな様子が痛々しい。 
「うん」
「遅くなって、わるかった」
「……うん」
 アリエルは、そっと顔を上げた。間近で見る従兄の美貌に見惚れながら、
「あれから……」
「ん?」
「……なんでもない」
 あれからまた公爵の姪デルフィーヌと一緒だったのかと聞こうとしたけれど、口には出せなかった。
「パーティー、楽しかった?」
「アリエルのことが気になってしかたなかった」
 顔色の悪かったアリエル。パーティーから、独りでも先に帰ると言ったアリエル。
「いつものアリエルじゃなかったからね」
 アルベルトの言葉に、アリエルはピクと震えた。
「何があった? 何が、そんなに嫌だったの?」
 優しく訊ねるアルベルトに、アリエルは小さくかぶりを振った。
「なんでもない。わがまま言って、心配かけてごめんなさい」


 この時アルベルトが、自分の首に回されているアリエルの手首の痣に気がついていれば、後の話は違っていたかもしれない。







* * *


 
 新年をパリで過ごしたアルベルトとアリエルは、山のようなお土産をクレマンスとヒルデに届け、また春休みに来ることを約束してエゼルベルンに帰った。

 アリエルの噂は、忘れられたわけではなかったけれど、もう誰も口にすることもなくなっていた。
 そして一ヶ月が過ぎ、雪解けにはまだ早いけれど春の息吹を感じさせる小さな緑の芽が雪の間からのぞくのを見かけるようになった頃、エゼルベルンに季節外れの転入生が現れた。


 
 その黒髪の印象的な少年は、アリエルと同じ学年だった。








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