「いや……嫌ぁっ」 アリエルの小さな顔が、左右に振られる。 「助けて、助けて、アルッ」 泣きながらアルベルトの名を呼ぶ。けれども、その華奢な白い身体を組み敷いているのも、アルベルトだった。 「やめて、っ」 アリエルの腕が、宙をかきむしるように伸ばされる。 その腕を片手で掴んで押さえつけ、暴れる足を乱暴に高く持ち上げると、アリエルはこの世の果てまで届くような叫び声を上げた。 「嫌だぁっ、ああああ――−っ」 目を開けても、しばらく、頭の中にアリエルの悲鳴がこだました。 アルベルトは、薄い闇の中、自分がベッドの中にいることに気が付いて、ようやく今見たものが夢だったと知った。 冬だというのに身体中熱く、ひどい寝汗をかいている。 (アリエル……) アルベルトは、自分の夢に吐き気を覚えた。夢の中で、アルベルトはアリエルを犯していた。 汗で湿った寝巻きに耐えられず、アルベルトは起き上がる。時計を見ると、まだ明け方というのも早い時間。 「なんで……こんな夢」 着替えながら、独り呟く。 多分、リヒャルトならもっともらしいことを言ってくれるだろう。クリスマスの夜、初めて触れたアリエルの唇が、あまりに柔らかく官能的だったので、アルベルトの中にもある雄の部分を刺激したのだと。 『エゼルベルンの氷の薔薇も、しっかり男だったんだな』 片目を瞑っておどけてみせる、そんな親友の顔を思い浮かべたけれど、アルベルトは暗い瞳でうつむいた。 (でも、それなら、なぜ……) 幸せに愛し合う夢でなく、アリエルを傷つける夢なのか。 雄の欲望とはそういうものだとリヒャルトが笑ったとしても、アルベルトには許せなかった――例え夢でも、アリエルを犯し、傷つけるなんて。 その夢は、嫌でもあの事件を思い起こさせた。いや、一度だって忘れてなどいない。 アリエルが、十月祭の夜、何者かに襲われた事件は、エゼルベルン中に密かに知れ渡っている。その後、アリエルが三階の窓から落ちたことも、いくら学校側が事故だと言ったところで、その噂に拍車をかけた。本当の理由は違ったのだが、生徒たちは、アリエルがレイプされた自分を儚んで自殺を図ったのだとまことしやかに語り合った。そして、エゼルベルンでその噂を知らないのは、皮肉にも当のアリエルだけ。 記憶を失ったアリエルは、自分の入院の原因を、まさに学校が言うとおり「事故だ」と思っている。頭を強く打って記憶の一部が失われていることも、不幸な事故だと。 アルベルトは、その記憶喪失を「不幸」だとは思わなかった。むしろ、忘れられるものなら、二度と思い出すことのないように、アリエルを懐深く守って行きたい。 そう考えている自分がアリエルを傷つけるような夢を見たことが、アルベルトにはショックだった。 自分の中に巣食う、禍々しい欲望の片鱗を見た気がした。 「アリエル……」 そっと横になり瞳を閉じるが、その後は、もう寝付くことができなかった。 「顔色が悪い、アルベルト、よく眠れなかったか」 駅に向かう車の中で、ハーラルトはアルベルトに訊ねた。 「いいえ」 隣で心配そうに自分を見つめるアリエルの視線を意識しながら、アルベルトは首を振った。 「車に酔った? お薬ならありますよ」 イルマは、自分の小さなバックを手に取った。 「いいえ、そうじゃありません」 アルベルトは、安心させるように微笑んだ。 「本当は、ちょっと眠れなかったんです。僕にとっても、フランスは、子供の頃行ったきりですから」 「お前でも、緊張するのか」 ハーラルトは立派な口ひげを撫でながら笑った。 「僕も」 アリエルが、ホッとしたように口を開く。 「僕も、昨日は眠れなかった」 「やれやれ、バルドゥールの男たちが、そんなことでどうする」 ハーラルトは、正面に座るアルベルトのタイを直して、 「いつでも堂々としていろ。不安や迷いを態度に表す男は二流だ」 厳しいとも聞こえる声で言った。 「はい」 アルベルトが静かにうなずくと、隣に座るアリエルも居住まいを正した。自分のタイも曲がっていないかと、気にして直す。 「アリエルはいいのよ」 イルマが、気の毒そうに微笑んで言った。 「アリエルはそんなに緊張しないで。あっちでも、私と一緒にいましょうね」 「ううん。僕、アルと一緒にいたい」 素直に言葉にするアリエルに、イルマは苦笑する。 「本当に、アリエルはアルベルトのことが好きね」 「うん」 アリエルは頬を染めてうつむいた。無意識なのだろう、人差し指の背でそっと自分の唇を撫でる。そのしぐさに、アルベルトはゾクリと背中がうずいた。 パリに着いたアルベルトとアリエルに、ロマンティックな異国での年の瀬を楽しむ余裕はほとんど無かった。ハーラルトが事前に手配していた家庭教師が待ち構えていて、二人は一日のほとんどをフランス語会話の授業で過した。アルベルトは「このぶんでしたら問題ありません」とお墨付きをもらえたが、アリエルのたどたどしいフランス語には、厳格な家庭教師は頭を抱えた。 「自己紹介ができれば、十分ですよ」 イルマが取り成したけれど、ハーラルトは聞く耳持たず、 「そうやって甘やかすからいけない。付け焼き刃でも、ここで集中して身につけた方がいいだろう」 アリエルだけが特別に授業を受けることになった。 その間にアルベルトは、ハーラルトからパリ社交界においての色々な決まりごとや、つまらないけれど知っておいたほうがいいゴシップなどを聞く羽目になる。 「一つだけ、お前に注意しておきたい」 「何でしょうか」 「お前ほどきれいで、しかも家柄の良い男には、砂糖に群がる蟻のように、女が群がってくるだろう。良家のご令嬢から有閑マダムまで」 アルベルトは眉をひそめ、ハーラルトはニヤリと笑う。 「面倒なことになりたくなかったら、誰の誘いも受けないことだ」 「そういうことでしたら心配は要りませんよ」 肩をすくめるアルベルトに、ハーラルトは、面白がる顔で付け加えて言った。 「女だけとも限らないな。男に誘われることもあるかもしれないが」 「なおさら心配御無用です」 アルベルトは呆れたように吐き捨てる。ハーラルトは人の悪い笑いを隠そうとしなかった。 そうして、あわただしく新しい年を迎えた。 アントワーヌ公爵家の新年パーティーは、各国の大使や著名人の集まる、それは盛大なものだった。新年を祝う華やかな男女の群れの中にあっても、アルベルトの美貌は際立っていて、ハーラルトの言ったとおり、アルベルトは行く先々で大勢の人々に取り囲まれた。 「バルドゥ−ル候、ご子息を紹介してはいただけないか」 「うちの娘も、ぜひご挨拶をさせていただきたいのだが」 アルベルトは、優雅な物腰と氷の薔薇と謳われたクールな微笑で、人々の心を見事に掴んでいく。ハーラルトはそれを興味深く見た。 「お前のその顔は武器になる。私は、いい後継を得た」 シャンパンで喉を潤しながら、ハーラルトが耳元で囁いた。アルベルトは黙ったまま、ただ唇の端を上げて皮肉そうな表情で応えた。 本当は、こんなパーティー、一刻も早く帰りたかった。先ほどから姿の見えなくなったアリエルのことも気に掛かる。 「アリエルならイルマと一緒だ。心配ない」 アルベルトの心を読んだようにハーラルトが言う。 「そうですか」 大勢の人の中で、そのイルマを探し出すことも難しかった。 「後であのリトルプリンスも皆に紹介してやらないといけないな。しかし、ひと休みしたら、次は私の仕事上のライバルたちにお前を紹介しに行く。心してくれ、我が息子よ」 アルベルトは、うんざりという顔を隠すように、目を伏せた。そうこうしているうちにもハーラルトとアルベルトの周りには次々人が集まる。ひと休みなどできるはずもなかった。 アリエルは、そんなアルベルトの様子を遠くから見つめていた。 天使のようにかわいらしいアリエルの周りにも、多くの女性が集まっていた。ほとんどがイルマと同じ位かそれより年上の妙齢のご婦人。 「まあ、なんてかわいらしい」 「本当に男の子なの」 「バルドゥール侯爵夫人、このかわいい坊やに、ケーキを差し上げてもよろしくて」 椅子に座らされ、ちやほやされている間も、横目でずっとアルベルトの姿を追う。 (アル……) 父親らしい人物に連れられた若い女性が、入れ代わり立ち代わりアルベルトに挨拶をする。アリエルは、不安で胸が張り裂けそうになった。 (あの中の誰かを、アルが、好きになってしまわないかしら) それくらい、ドレスに身を包んだ令嬢たちは、みな美しく見えた。童話で見たお姫様のような人が大勢いる。 初めての社交界の華やかさに、アリエルは圧倒されていた。 (あの中の誰かが、アルのことをさらって行ってしまったら……) そして、ダンスの音楽が始まった時、アリエルの不安は現実になった。 いや、正しくは、ハーラルトに促されたアルベルトが、公爵の姪とワルツを踊る羽目になったというだけ。けれども、渋々という内心を押し隠しフロアにすべり出たアルベルトは、それこそ衣裳こそ違え、童話の世界の王子様に見えて、お姫様の手を取る姿にアリエルは目の前が暗くなった。 美しいカップルにフロアのあちらこちらから、感嘆の溜め息が漏れる。 「あのバルドゥール侯のご子息ですって」 「アントワーヌ公の姪御さんね、女の子らしくなったこと」 「あのまま絵に収めてしまいたいわね」 「そんな腕の良い画家は、いたかしら」 口々に称える声を聞きながら、アリエルはそっと椅子から立ち上がった。 「アリエル、どうしたの?」 「あの……お手洗い」 イルマは笑って、給仕の青年を呼び止めると、アリエルを案内させた。 アリエルは、しばらく大人しく付いて歩いていたけれど、 「大丈夫、もう分かりますから」 そっと離れて行った。 胸が痛い。 アルベルトと、公爵の姪だという美しい令嬢の顔が、頭から離れない。 聞こえてくる音楽にも、なんだか気分が悪くなる。 逃げるようにホールの外に出ると、長く広い廊下が左右に伸びていた。向かい側の扉は外庭に続いているようだ。夏ならば大きく開かれて、美しい庭園を眺められるのだろう。この廊下もホールの延長になって。けれども、今の季節は冷たい風や雪を防ぐため、固く閉ざされている。アリエルは、フラフラと一つの扉に近づいた。開くわけがないと分かっていながら押してみる。 すると、突然 「外に出たい?」 背中からフランス語で声をかけられ、ビクッと振り向いた。 「そこからじゃ無理だ。庭に出たいなら、案内するけど」 黒い髪が印象的な少年が立っていた。背が高いので大人びた雰囲気だが、よく見れば自分とさほど変わらない歳にも思えた。 「退屈する気持ちはわかるよ」 そういって肩をそびやかした少年は、近づいてアリエルの顔を見て、息を呑んで顔色を変えた。 そのままジッと穴の開くほど見つめられ、アリエルは落ち着かなくなった。 「失礼します」 頭を下げて、ホールに帰ろうとしたところ、 「待て」 ものすごい力で、腕をつかまれた。 「痛い」 思わず叫んだけれど、少年はかまわず腕を引いて、アリエルの背中を扉に押し付けた。 「名前」 「な、何?」 アリエルは、怯えた。 「名前は、何ていうんだ」 自分の名前を聞かれているのだとようやく理解して、 「アリエル……アリエル・フォン・バルドゥール」 震える声で答えた。 「ドイツ人か」 自分を睨みつける灰色の瞳が恐ろしくて、アリエルはもう声も出せず、ただうなずいた。 「歳は?」 「十三……」 少年は、瞬間、痛みに耐えるように顔をゆがめた。 アリエルは、恐ろしくてたまらなくなった。 どうしてこの少年は、自分をこんな風に捕まえて、扉に押し付けているのだろう。名前を聞いて、歳を聞いて、そうして、何をしようというのだろう。つかまれた手首が痺れて痛む。心臓が、早鐘のように鳴る。圧迫感に、呼吸が苦しくなる。 (昔、こんなことが、あった?) 奇妙な既視感。 目眩がする。 「は、離して、ください」 ようやく言うと、少年は思いのほか素直に握っていた手を離した。 アリエルは荒い息をついで、手首を庇うようにさすった。左の手首には、指の形の痕が赤くついている。 「アリエル・フォン・バルドゥール」 少年は、ゆっくりとアリエルの名を呼んだ。 「アリエル・フォン……バルドゥール」 もう一度繰り返した声は、どこか嬉しそうにも聞こえた。 良く見ると、少年はとても整った顔をしている。黒い巻き毛に縁取られた白い顔、高すぎない鼻、薄い唇。濃い灰色の瞳は、先ほどまで恐ろしげに光っていたが、今は眩しそうに細められている。 「僕の名前は、ジュスタン」 少年は、突然、ドイツ語で言った。 「はじめまして、アリエル。会えて、嬉しいよ」 |
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